財政再建の「コスト」を測る

小林 慶一郎
上席研究員

消費税増税や年金受給年齢引き上げ論議が深まる中で、財政再建に伴う痛みが現実味を帯びてきた。一方、ギリシャを震源とする欧州危機をみれば、財政再建に失敗した場合に経済に何か起きるのか一概には想像しがたい。日本の財政再建を論じる際、これらの経済厚生上のコスト、つまり社会全体の満足度に対する悪影響を想定する必要がある。増税や歳出削減という財政再建による生活水準の低下と、財政が破綻した場合の国民生活の混乱の比較考量である。

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前者の財政再建に伴う経済厚生上のコストについては、最近、研究が進んでいる。増税や歳出削減が起きれば、民間の消費や投資が抑制されるだろう。こうした民間部門の反応を考慮しつつ経済厚生上のコストを考察するのに有用なのが、DSGEとよばれる新古典派一般均衡モデル(キーワード参照)による分析だ。米カリフォルニア大学ロサンゼルス校のゲイリー・ハンセン教授と南カリフォルニア大学のセラハティン・イムロホログル教授は、このモデルを使って日本経済を記述し、財政再建に伴う経済厚生コストをシミュレーション分析した(論文は未定稿)。

それによると、消費税増税で財政の持続可能性(キーワード参照)を回復するには、現在5%の消費税率を35%にする必要がある。その経済厚生上のコストは国民の消費が恒久的に1.5%減るのと同じだという。また所得増税より消費増税で財政再建する方が望ましいことも示された。

さらに、米アトランタ連銀のR・アントン・ブラウン氏と南カリフォルニア大学のダグラス・ジョインズ教授は、勤労期と引退期といったタイプの違う世代が存在する世代重複モデルを使い分析を行い、財政が持続可能となるには2017年に消費税率を33%に上げる必要があると示唆した(未定稿)。

30%以上の消費税率というこれらの示唆は、消費税率上げ自体へのアレルギーが強い現在の政治状況を考えると、気が遠くなるほど厳しい数字だ。税率の上げ幅を圧縮するには厳しい歳出削減が必要で、それも消費増税同様大きな政治的困難を伴うだろう。

このように、一般均衡モデルによる財政の分析では、財政再建(増税)がもたらす経済厚生上のコストを定量的に示すことはできる。ただ「財政破綻」は、経済厚生上、どんなコストがあるのかわからない。そもそもこれらのモデルでは、財政破綻は起きないことになっているからだ。つまり公的債務がある上限に達すると、自動的に増税が行われると仮定されているのだ。

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だが現実には、公的債務が急増しても増税や歳出削減ができない可能性は低くない。その場合、最終的には中央銀行が国債を買わざるを得なくなるだろう。財政破綻とはこの状態を指すと考えてよい。

先月ノーベル経済学賞を受賞した米ニューヨーク大学のトーマス・サージェント教授と米ペンシルベニア州立大学のニール・ウォレス教授は、政府が放漫財政を続け中央銀行が大量の国債買い入れに追い込まれれば、大幅なインフレーションが起きると1981年の論文で理論的に示した。中央銀行による国債買い入れの結果、貨幣発行量が増え、物価が上昇するわけだ。

米シカゴ大学のジョン・コクラン教授も10年の論文で、財政赤字拡大が続けば大幅なインフレが起きるとして、リーマン・ショック後の米国の財政拡張政策を批判する。2つの論文は理論的な枠組みは異なるが、財政破綻が大幅なインフレをもたらすとする点では一致している。

インフレによって家計の金融資産の価値は目減りし、政府の債務の実質負担が減る。結果的に、消費税の大幅増税と同じような家計から政府への所得移転が起きる。この観点で財政破綻は財政再建と同じで、財政再建を先送りしても政府に所得が移転するのは変わらない。ただこれは、国債や金融資産を保有する家計からそれ以外の家計への所得移転と同等なので、それだけでは経済に悪影響があるとはいえない。

ここで考えなければいけないのは、大幅なインフレで経済活動がゆがめられることだ。つまり財政破綻によって起きるインフレが経済厚生に及ぼす悪影響を測ることが重要なのである。しかし、高インフレのコストの定量的評価については、研究者の間にコンセンサスは見当たらない。先進国については、低インフレが前提になっており、財政破綻による大幅なインフレは想定されていないからだ。

中南米諸国を念頭に置いた高インフレ経済のモデルもあるが、そこではインフレ率の上昇が経済に大きなコストをもたらすとアドホック(暫定的)に仮定し、損失関数を設定している。米メリーランド大学のギレルモ・カルボ教授の88年の論文が一例である。

インフレのほかに、財政破綻のコストとして今の欧州危機のような銀行不安を誘発する点も見逃せない。財政破綻時にはインフレとともに国債価格が下落し、国債を保有していた銀行のバランスシートが毀損される。その結果、貸し渋りや取り付けなどが起き、経済活動が大きく収縮する。こうした性質を持つ経済モデルの開発は今後の課題だ。

いずれにせよ、財政破綻でどの程度の経済コストがあるのか明らかにしないと、財政破綻回避に向け増税を行うべきだと、説得力を持って主張できなくなる。仮に財政破綻のコストが増税のコストより小さいと、財政再建をしないで破綻に至る方がよいという結論になってしまう。

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さて、日本や米国を対象とした財政問題の既存研究は、閉鎖経済モデルで考えることが多く、財政問題が為替レートを通じて貿易や国際資本移動に及ぼす影響は、あまり考察されてこなかった。一般にインフレは通貨安と連動する。一方、財政破綻は大幅なインフレをもたらすから、財政破綻が近づくと、通常は通貨が安くなる。そして、財政破綻で通貨安がもたらされると、輸出が増えて経済パフォーマンスが改善する。

だが日本の財政問題と為替レートの関係は特異である。

現在、円高の進行により輸出型企業を中心に経営が圧迫され、日本経済は苦しめられている。一方、公的債務は先進国の中で最悪の水準でさらに増加中である。今の財政が持続不可能なのは明らかで、いずれ大幅なインフレと円安になるリスクは大きい。現状は歴史的な円高だが将来は大幅な円安となるリスクが高いということが、日本の財政問題と為替レートの関係が有するユニークな点であろう。

この状況に対し、円高から円安に大きく振れるリスクを緩和する政策が考えられる。詳しくは小黒一正・一橋大学准教授との共著(近刊)に譲るが、単純にいうと日本の政府部門が円建て債務を大量に増発して同額の対外資産(外貨建て資産)を購入すれば、現在の円高と将来の円安双方を緩和する政策効果が見込まれる。この政策はバランスシート上、「円売り外貨買い」の為替介入と同じで現在の円高を是正する方向に働く。また現時点で政府部門の対外資産を増やしておくと、将来の円安時に政府は為替差益を得て財政が改善する。これが将来の円安リスクを緩和する。

先月、岩田一政・日本経済研究センター理事長が政府の国家戦略会議で外貨購入のための50兆円規模の基金創設を提言した。こうした思考実験を重ね、財政破綻への備えと為替政策を連関させた新たな政策スキームを構築する必要があるかもしれない。

キーワード

  • 【新古典派一般均衡モデル】
    財政再建のコストとベネフィットを正確に分析するためには、政府の政策変更に対する反応として家計や企業がどう行動を変化させるかを知らなければならない。旧来のマクロ経済モデル(ケインズモデル)では、政策変更に対して家計や企業は行動様式を変化させないと仮定していた。新古典派一般均衡モデルは、ミクロ経済理論をベースに個々の経済主体の行動変化を描写しながら、それがマクロ変数(消費、雇用、投資など)にどう影響するかを明示的に示すもので、金融当局などが政策効果分析によく用いている。
  • 【財政の持続可能性】
    国内総生産(GDP)比でみた公的債務が将来にわたり無限大に発散しないことをもって、財政が持続可能であるという。名目成長率が名目金利より低ければ、財政赤字を出し続けると財政は持続不可能となる。

2011年11月7日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2011年11月24日掲載

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