格差是正 リスク対応軸に

小林 慶一郎
上席研究員

技術には、新しい価値を生産する技術と既に存在する価値を他者から奪い取る技術の2種類ある。前者の生産技術の進歩、特にリスク管理や情報の非対称性に対処する技術を高めれば、所得の平準化が進み格差是正につながる。後者の価値を奪い取る技術を使う競争は成長を阻害する。

経済の活動には2つの技術混在

参議院選挙で「改革実行力」「成長を実感に」と訴えた自民党が大敗した。この結果は、年金記録や政治と金の問題だけでなく、政府与党の経済政策の方向にも大きな影響を及ぼすだろう。改革や経済成長よりも、広がっている「格差」を何とかしてほしいという国民の声が、少なくとも表面的には圧倒的であるようにも見える。

その前提にあるのは、「改革(そして経済成長)か、格差解消か」という二者択一しかなく、これらは両立できないというイメージだろう。

構造改革が進めば、激しい市場競争によって不可避的に所得や資産の格差が広がる。しかも、その格差は正当なものではなく、「不公正」なものだというイメージだ。

問題は、経済活動には、常に2つの技術が混在しているという点にある。経済の領域には、新しい価値を生産する生産技術と、既に存在する価値を他者から奪い取るための技術(故ジャック・ハーシュライファー米カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授は「闘争技術」と呼んだ)が存在する。

通常の経済学の議論では、生産技術しか存在しないという前提でバラ色の改革像が描かれ、現実の世界に存在する闘争技術はすっかり忘れられているのだ。しかし、現実に改革が進むと、過渡期には、闘争技術(例えば市場での情報操作や顧客の無知につけ込むなど)によって莫大な利益をあげるものが出てくる。

生産技術による競争は、新しい価値を創造する競争だから、その結果として大きな利潤を上げる人がいても、不公正だという恨みは買わない。例えば有能な野球選手の年俸が何十億円でも不公正だと思う人はいない。

しかし、闘争技術による利得は、他人から不当に奪い取ったものと認識され、強い反発を呼ぶ。しかも、闘争技術に資源を投入する活動は、新しい価値を創造せず、社会全体としてみれば資源の損失しか生み出さない。効率性の観点からみても、闘争技術を使った競争が広がることは、成長を阻害し、害が大きい。

金融の未成熟 格差の原因に

格差批判とは、闘争技術によって不公正な利得を得る者への批判という面もある。ライブドアや村上ファンドへのバッシングにも、こうした要因があったかも知れない。市場経済を、このように生産活動と闘争活動に分けて論じると、問題点が分かりやすくなる。

格差拡大を引き起こすと批判されるのは、主に闘争技術を使った競争の激化である。逆にいえば、生産技術の進歩による競争は、必ずしも格差の拡大をもたらさず、むしろ格差解消に資するものもあるのではないか。

今の経済政策の発想は、生産性の向上で経済を成長させて全体の底上げを図り、格差の緩和を目指すという考え方だ。そこにあるのは、あくまで成長の副産物として格差解消がもたらされるだろうという弱い期待である。しかし、格差の緩和に直接役に立つ生産技術も存在するのではないか。それは、リスクや後述する情報の非対称性に対処する技術だ。

リスクや不確実性を扱う技術は、一般には金融の技術だが、ここでは必ずしも銀行や保険会社の持つ技術だけでなく、製造業やサービス業も含めた経済全体で使われる広い意味でのリスク管理技術をイメージしたい。

個人の生活で考えると、失業や病気・事故など、人生で遭遇するリスクや不確実性が格差を生み出す主要な原因だ。これらの一部に対しては既存の保険で対応することができるが、多くの場合は「運が悪かった」とあきらめざるを得ない。

しかし、将来、リスク管理技術が進歩すれば、もっと多くのリスクに柔軟に対応できる多様な保険商品が開発され、その結果、所得の平準化が進むのではないだろうか。そうなれば、格差の発生や拡大を、技術的に防止できるようになる。

最近の経済学会でも、資産格差の存在を、情報の非対称性を扱う金融技術の不完全性によって説明する理論モデルが多く発表されている。

資金の貸借に際して、借り手の誠実さや意図を貸し手が完全に知ることはできないという情報の非対称性があると、貸し手は土地などの担保を要求する。事業資金の調達に担保が必要な経済では、もともと担保となる資産を保有する人は資金を借りて事業を拡大し、さらに利益を拡大する。一方、担保資産がない人は、資金を借りられず、事業を拡大できないので貧しいままにとどまる。

このメカニズムで、米国などでの資産格差がかなり説明できるという。

つまり、情報の非対称性に対処する金融技術が不完全で、担保に頼らざるを得ないから格差が生じる。こうした研究が示唆しているのは、格差拡大は市場競争の不可避な結果ではないかもしれないということだ。リスクや情報の非対称性を扱う技術の生産性が向上すれば、格差は緩和される可能性があるわけである。

ほかにも傍証がある。昨年のノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏のグラミン銀行は、貧困層向けに無担保融資を実施するビジネスモデルを開発した。数人の借り手がお互いの債務を保証するグループを形成し、債務者同士がモニタリング(監視)する仕組みを編みだし、高い返済率を実現するとともに、貧困層の自立支援にも貢献した。まさに、リスク管理の技術革新で、貧困問題を緩和した実例である。

マネーゲームと価値創造を区別

21世紀はIT(情報技術)が価値創造の主要な場となることは間違いないが、いわゆるIT産業が必ずしも情報技術の中核ではないだろう。リスクや情報の非対称性に対処する一般的なリスク管理技術の進歩とその経済全体への普及が、経済成長の大きな動因となると思われる。それは同時に、従来の市場経済では不可避だった格差拡大を解消する方向に経済を動かす可能性を秘める。

政府の生産性向上のための戦略も、総花的な技術進歩よりリスクや情報の非対称性の分野での生産性向上に焦点を絞った政策を考える必要があるのではないだろうか。

リスクや金融の技術進歩を生産性向上の中核にするという議論には様々な異論が予想される。

金融にも、非生産的なマネーゲームの技術(闘争技術)とグラミン銀行のような価値創造につながる生産技術の両方が混在し、闘争技術によって莫大な利得を得ることに対し世論の反発は強い。

まず、公正な市場ルールを整備して、闘争技術による活動を金融市場から排除することが大きな議題だろう。生産的なリスク管理技術が価値の創造につながることを国民が実感できる環境をつくっていく必要がある。

一方、リスク管理の技術や金融への猜疑や反発には、もっと奥深い理由もある。

それは、リスクへの対処が伝統的に共同体の役割だったということだ。

リスク管理技術が未発達だった経済では、村落や家族などの共同体は市場を補完する役割を果たしてきた。市場競争で敗者や弱者が生じれば、共同体がセーフティネット(安全網)を張り巡らせ、救済する役割を担ってきた。20世紀には、共同体の役割を国家による再分配政策が担うようになった。共同体や国家は、市場の「外」でセーフティネットを供給し、リスクに対応した。

リスク管理技術の進歩は、市場の「中」で個々の主体がリスクを管理し、国家や共同体の役割を一層弱めようとする動きであるといえるかもしれない。共同体的な価値観を持つ人は、そうした方向性には拒否反応を示し、むしろ地域共同体の再生や国家による再配分政策の強化が望ましいと考えるだろう。

しかし、共同体の再生は困難であり、再分配政策の強化は経済成長を低下させかねない。長期的にオープンな社会の発展や個人の自由の伸長も阻害されるだろう。開かれた自由な社会を目指すなら、市場的な手段でリスクや格差の問題を解決する方向に進むべきではないか。

成長と格差解消を同時に実現するために、市場、共同体、国家の役割分担について、根本的な意識改革が求められている。

2007年8月1日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2007年8月13日掲載

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