新政権が目指すべき改革の継承とは何か-自由の土台としての市場経済

小林 慶一郎
研究員

ポスト小泉時代が間近に迫ってきた。次の政権の取り組むべき課題として、格差問題など、小泉構造改革路線の修正を求めるさまざまな議論がある。小泉首相は、路線の継承をポスト小泉の条件にあげているが、そもそも「改革の継承」とは何を意味するのだろうか。ここでは、その意味を私なりに解釈し、ポスト小泉に求められる基本的な方向性について検討したい。

まず、結論から先に言えば、改革の継承が意味する姿勢とは、市場経済システムを(豊かさを得るための)手段と考えるのではなく、政治が目指すべき「価値」あるいは「目的」と観念するということではないかと思われる。

小泉政権は、おそらく戦後史上初めて、市場経済システムそのものを政治が目指すべき価値であると(暗黙に)宣言した政権だった。この立場に立てば、市場経済システムをよりよいものにすることに価値があるのであって、そのために解決しなければならない障害が格差問題などである、と捉える必要がある。これは、市場経済が生活を豊かにしてくれるからというだけではない。市場経済は、「自由」とほとんど同義であり、わが国が自由主義を真面目に追求するならば、必然的にシステムとしての市場経済に大きな価値を置かねばならないからである。

しかし同時に、市場システムをよりよいものにする、という目的を追求する上で注意しなければならないのは、市場システムは決して完全無欠なものではないという謙虚で注意深い認識であろう。

現代社会が重視すべき価値として、多くの人は「自由」を挙げるだろう。民主主義と自由主義は現代社会を支える車の両輪のようなものである。自由は理念としてほとんどすべての人が受け入れるが、一方、多くの人々は市場経済を手段、あるいは社会が存続するための必要悪、と考えているのではないだろうか。

しかし、もし市場経済システムがなければ、「自由」のどこに公益性があるのだろうか。利己的な行為を容認する「自由」は単なる悪徳であり、せいぜい権力者や余裕のある有閑階級でのみ許される贅沢品にすぎないということになるのではないか。

個々人が好き勝手に人生を選択する権利が、なぜ、社会の基本理念として保障されなければいけないのか。それは、自由の結果が、巡り巡って社会のためになる、と考えられたからだ。利己的な個人による自由な行動の結果が、他者の幸福に寄与し、社会全体の厚生を高める、ということは、経済学が主張する「市場原理」である。

18世紀のイギリスで、オランダ人医師バーナード・マンデヴィルがこの市場原理を発見したときには、まさに利己主義的自由という「悪徳」を奨励する思想だとして、大いに非難を浴びた。しかし、アダム・スミスの経済学が成立して以降、基本的には市場原理(「利己的個人の自由の結果は、他者の幸福を高め、社会全体の厚生を高める」)の考え方は受け入れられている。ここに、自由が公共的理念であるという実際的な根拠がある。

また、レーガン、サッチャー以来の新自由主義の理論的支柱である経済思想家F・A・ハイエクは、第二次大戦中の著書で、経済活動における自由が規制されれば、結局、すべての自由(精神、学問、思想信条の自由など)を抑圧することにつながる、と強い口調で警告した(『隷属への道』)。たとえば政府が仕事や給料の割り当てをすべて決めている国で、政府に反する意見を言うことなどできない。反政府的な意見を言っても失業しない(あるいは、別の就職口を見つけられる)という状態を、市場が保証してくれているからこそ、自由な言論が成り立つ。経済的自由がないところには、思想や言論の自由が育たないのは当然の結果だ、というのがハイエクの議論だ。

社会主義に多くの人々が将来の希望を感じていた当時、ハイエクの議論はほとんど相手にされなかったが、その後の社会主義の失敗(特にポル・ポト派のカンボジアや現在の北朝鮮など)の惨状を考えると、ハイエクの予言の恐ろしさには慄然とする。経済的自由と、それを支える市場経済システムが、理論的にも実際上も、あらゆる自由の土台なのである。

市場経済についての誤解

一方で、市場競争というと、暴力的な弱肉強食であり、根本的に個人の自由を侵害する存在だというイメージを持つ人が多い。しかし、これは(1)市場が不完全であることの結果と(2)市場と企業の混同が入り交じってできた、間違ったイメージである。市場競争が、その本質として自由を侵害するものなのではない、と考えるべきである。

第1に、現実世界の市場は、不完全なものである。情報の非対称性や、独占・寡占など、さまざまな市場の失敗がある。そうした市場の失敗の結果、理想どおりの市場競争が行われないからこそ、「暴力的」とか「弱肉強食」に見える結果―長期的な失業や倒産の続発のような現象―が起きるのである。

たとえば、お金の貸手(銀行など)とお金の借り手(中小企業など)の間には、大きな情報の非対称性がある。中小企業は自分の事業のことを詳しく知っているが、銀行は知らない。この当たり前のことが、企業にとっては厳しい債務条件を生み、倒産を生む原因にもなる。しかし、これは借り手と貸手が、情報の非対称という現実の中で、お互いにベストを尽くした結果として起きる。もし情報技術の発達などにより、銀行が借り手の事業内容を詳しく知る術を得れば、厳しい債務条件は不必要になる。つまり、技術の進歩によって、市場競争が完全なものに近づけば、市場競争の弊害と言われていること(倒産など)も、減らすことができるのである。市場競争の暴力的な側面は、いわば市場が未発達であることの結果なのであり、市場を洗練させることによって解決を図るべきなのである。

第2に、市場競争が自由を侵害するというイメージは、企業と市場を同一視する誤解から生まれているともいえる。市場の中に生息する企業の内部は、市場のルールとはまったく違うルール(組織のルール)で運営されている。企業という組織体の内部には、自由を抑圧する権力構造があり、その中にいる個人は、理不尽な迫害を受けることがある。不本意な仕事をさせられたり、過労死に追い込まれたりする労働者がいる。企業の業績が悪化すると、パート労働者やアルバイトが真っ先に解雇される。しかし、このような企業の権利侵害は市場競争の当然の結果ではない。むしろ、市場競争がもっと徹底していれば、企業の暴力は抑制されるはずだ、と考えるべきである。

もし、労働市場が発達していて、求人側企業の競争が激しければ、労働者が勤め先企業の横暴に耐え続ける必要は少なくなる。いやになれば、辞めて次の就職先に行けばよい。一方、労働者にすぐに辞められては困るので、企業側も、労働者に対してひどい権利侵害は行わなくなる。

日本のように、労働市場が非効率で、いったん失業すると良い条件の就職先を見つけにくいという国では、個人は勤め先の企業の横暴を耐え続けるしかない、とよく言われる。辞めれば企業年金などの扱いでも不利になる。辞める自由が形式的に保証されていても、実質的な選択肢ではない。そうであれば結局、市場競争の中で、個人は(企業による)自由の侵害に耐えるしかない、と言いたくなる。しかし、逆に、だからこそ、もっと洗練した市場を発展させる必要があるのではないか。辞めることが不利にならない労働市場を発展させ、市場競争(たとえば労働市場における企業間の求人競争)を、もっと激しくさせることが、日本の労働者の権利を守ることにつながる。

つまり、市場をもっと発展させることで、企業組織の暴力を抑え込む戦略を考えるべきなのであり、市場競争が暴力の原因なのではない、と考えなければならない。

戦後初の自由主義政権

自由主義への深い信奉は、必然的に市場経済システムへの確固たる支持につながるはずである。しかし、日本の多くの政治家やメディアに登場するオピニオン・リーダーの間では、そうなっていない。政治的理念としての自由主義は承認するものの、多くの政治家は、市場経済システムを単に国を豊かにするための(つまり、カネもうけのための)手段にすぎない、と認識している。

小泉政権以前の歴代政権も、基本的にはこの認識を出ていなかったと考えられる。だからこそ、公共事業をばらまいて景気をコントロールしようとし、銀行業界を挙げての不良債権処理の段階的先送りという、市場ルールの逸脱も許容された。市場経済を、豊かさを得るための「手段」と捉えるなら、市場の原則を無視したような政策を融通無碍に採用することにためらいはない。その柔軟さが良い結果をもたらす局面もあった。1980年代の日本経済は、基本的に健全な市場と、行政指導を主とした柔軟な政策によって、大きな発展を享受した。

しかし、市場経済の原則を本心では信奉しない日本の政治風土は、根本的な思想の弱さを内包していた。重大な危機の局面、つまり、1990年代の長い金融危機の時代においては、守るべき原則を持たなかったために、政府は関係者の利害を調整しようとするだけで右往左往し、何を捨てて何を守るのかという基本的な政治的決断ができず、麻痺状態に陥ってしまった。それは、市場経済を「手段」と考える日本の政治の、当然の帰結だったのである。

小泉政権はこれを変えた。本人の意図はどうだったか分からないが、「改革なくして成長なし」という小泉政権のスローガンは、経済成長(つまり、結果としての豊かさ)よりも、改革(市場経済のシステムとしての健全さや安定)を優先する、という姿勢を示したものだったと解釈できる。つまり、小泉政権は、市場経済システムを政権が目指すべき「価値」であると、暗黙に宣言した戦後初の政権だったのだ。それはとりもなおさず、自由主義を単なるお題目にするのではなく、実質のともなった政治理念として真剣に追求する、という意思表明に他ならない。国民から見て、小泉政権は真摯に自由主義を追求しようとする史上初の政権に見えた。だからこそ、小泉政権は歴代政権にない強固な支持を国民から受けたのではないか。

その実例が不良債権処理である。

不良債権処理の実現は小泉政権の大きな業績だったと、誰もが口をそろえる。小泉首相本人は不良債権問題にたいした関心は持っていなかったようだが、後世、不良債権処理が小泉政権の(経済政策上の)最大の功績と評価されることは間違いあるまい。

しかし、3~4年前にメディアや論壇を席巻していた議論を思い出せば分かるとおり、不良債権処理を進めれば日本の景気はもっと悪くなる、という見方も当時は根強くあった。小泉政権初期の時点で、多くの人は、不良債権処理が本当に景気回復をもたらすとの確信を持てなかったはずだ。つまり、もし、小泉政権が「景気回復(結果としての豊かさ)」を目標として政策を決定していたなら、これほど迷わずに(あるいは頑迷に)不良債権処理を推進することはできなかっただろう。

しかし、結果としての豊かさをもたらすかどうかは分からなくても、システムとしての市場経済を正常なものにするために、不良債権処理が必要なことは明らかだった。市場経済システムの健全化そのものが、政権の目指す目標だったと考えれば、不良債権処理を推進する方針にブレがなかったこともうなずける。不良債権処理を大きく前進させられたのは、小泉政権が、市場経済システムを「豊かさを得るための手段」と見るのではなく、健全な市場システムそれ自体を政権の目標(あるいは追求すべき価値)と位置づけたからだと考えられる。そしてそのことは、国民の多くが信じる自由主義的価値観を、小泉政権は素直に追求するのだ、という政治姿勢の表明だったのである。

格差問題にみる既得権者と弱者の共謀

しかし、ポスト小泉時代の課題を巡っては、小泉改革の修正を求める意見が強まっている。改革の弊害として特に強く指摘されているのが、格差拡大(個々人の所得格差、地方と都市の経済格差)の問題である。

この格差問題は、2つの面で重要性を有している。

1つは、思想的な側面である。

格差問題は、市場経済を「手段」と考える立場の人々にとって、またとない正当化の根拠を与えている。この立場は、所得格差の悲惨さを訴えることによって、結果としての豊かさ(の平等)が重要だと主張する。そして、結果を出すためには、システムとしての市場経済を多少ゆがめてもかまわない、ということになる。この議論には、市場経済を「結果を出すための手段」と捉える見方が忍び込んでいるのである。

もう1つは、格差是正を目的に導入された競争制限政策が、意図せざる副作用をもたらす懸念である。

経済学者は、次のような「既得権者と弱者の共謀」を懸念している(ラグラム・ラジャン、ルイジ・ジンガレス『セイヴィング キャピタリズム』)。市場システムに反発するのは、市場競争のなかで困窮した社会的弱者である。だが、市場競争が制限されてもっとも利益を得るのは、大きなシェアを握っている大企業などの既得権者である。自由な競争市場の中では、既得権者たちはつねに新規参入の企業たちから挑戦を受け、シェアを脅かされているので、市場競争を嫌う。だから既得権層は「弱者を助けるために」という名目で市場システムをゆがめるような政策を主張する。弱者はその主張に強く共鳴し、一種の政治的な同盟が成立する。これが「既得権者と弱者の共謀」である。

しかし、市場システムが規制され、競争が抑制されると、既得権者に挑戦する新参者が排除され、結局、助ける必要のない既得権者が利益を得る。そして、もっとも弱い者が一層苦しめられることになるのである。

例として、住宅の賃貸借を考えよう。

弱者である借家人の権利を守るために、借家の貸手の権利は、戦後、大きく制限された。規制の結果、たしかに借家人の生活は守られたが、普通の人が家を貸すことも激減した。家を一度貸すと、賃貸を解消するのが極端に難しくなったことが一因だ。その結果、借家の供給数が減り、家賃が高騰して、結果的に借家人の経済的負担は大きくなった。さらに、高齢者や低所得者、外国人などが新規に家を借りようとしても、非常に借りにくい状況が定着してしまった。また、ホームレスの人々が仕事を得て社会復帰することを妨げている大きな要因は、賃貸住宅やアパートに簡単に入居できないことである。

一方、賃貸アパートや賃貸住宅を専門に扱う大手の業者は、家賃の高止まりによって長年にわたり大きな利潤を手に入れてきた。

つまり、弱者救済のために競争を制限した結果、一部の既得権者を利することになり、その一方で、社会的にもっとも弱い層を苦しめているのである。これが、経済学者の懸念する「既得権者と弱者の共謀」の弊害だ。

改革を継承する立場に立つならば、政治的に反発を受けやすい市場経済システムを、より健全にし、市場への政治的な支持を高めるために、格差問題を解決する必要がある、と考えなければならない。

格差是正のための具体策は、誰が考えてもあまり大差はないが、その中で、市場競争を抑制しない政策、市場への新規参入(失職者、外国人、起業家などによる)を阻害しない政策を注意深く選びとる必要がある。市場経済システムをより良いものにし、市場システムへの政治的支持を強固にするために、格差問題を解決しなければならないのであって、その逆(「格差を是正するためには、市場システムをゆがめても構わない」)ではないからである。市場競争の中で失敗した敗者や弱者も、よろこんで再び市場に参加しようとする社会を作らなければならない。

自由の徹底による新たな公共倫理の構築を

しかし、当然ながら、市場メカニズムは完全無欠ではない。環境問題など、市場システムで解決できない問題(あるいは市場システムが悪化させていると考えられる問題)は、数多い。経済学者的にいうなら、「市場の失敗」に対しては、まずは市場のルールをより精巧なものに発展させることで対処することが必要だ(専門用語では、外部不経済を内部化するということ)。たとえば証券取引法の抜け穴をふさいで、グレーな取引ができないようにするとか、二酸化炭素排出権の取引市場を創設して、排出権を市場ルールで配分できるようにする政策がこれにあたる。

これまでの近代社会は、たいていの物事は、市場メカニズムにゆだねることで、どうにかなってきた。我々を支えているのはこの経験則だ。この経験則が自由の理念の土台である以上、私たちはこれをできる限り尊重しなければならない。

しかし、もちろん、経験則が絶対の真理である保証はない。この謙虚な認識を私たちは頭の片隅においておく必要もある。いつか、市場メカニズムでは本当にどうにもならないことが出てくるかもしれない。たとえば、環境破壊が極端に進み、統制経済をとるしかない、ということが起きるかもしれない。しかし、そのような事態によって市場メカニズムを否定することは、とりもなおさず、自由の理念の否定であり、現代文明の終焉である。市場メカニズムが近代社会の根幹であるということを十分に認識した上で、私たちは市場メカニズムについて論じなければならない。

それともうひとつ。市場経済システムを否定する思想が、いつの時代も人気を持つ傾向があるのは、そもそも「自由」という理念に多くの人々が不満を抱いているからでもある。詳しくは論じないが、ファシズムや共産主義の思想が一時的にせよ多くの人々の心をとらえるのは、誰しも「自由(とそれに伴う責任)からの逃走」を夢見る傾向があるからだろう。価値観としての自由は、宗教や伝統文化などに比べて、社会を支える力が弱すぎる。自由を至高の理念だと思いたくても、あまりにも物足りない、というのが多くの人々の感情なのだろう。個々人の利己主義的な行動の結果が巡り巡って社会の役に立つ、ということが自由を公共的理念にする根拠だとすると、そこには魂を揺さぶるような高揚感や、人間を敬虔にさせる神秘もない。伝統文化が与える高揚感や宗教の神秘が、社会を統合し、道徳や倫理を基礎づけていたのが、近代以前の社会だった。一方、少なくともいままでのところは、自由の理念には道徳や倫理を根拠づける力が弱い。近代以降、人々に自由主義が受け入れられ、伝統文化や宗教が忘れられるにつれて、社会のモラルや倫理は、弱体化が進んでしまった。

道徳や倫理は、市場のルールを与え、自由な行動(=市場競争)の前提となっているのだが、自由な気分が広がると、その前提となる道徳や倫理が掘り崩されてしまう。このことに多くの人は不満を抱き、格差問題などを契機に、自由(=市場経済)への反発が盛り上がる。

しかし、目指すべき方向は、自由への懐疑や否定ではなく、自由の理念へのコミットメントを徹底することによって、新しい公共倫理を生み出すことではないだろうか。哲学者の竹田青嗣は、「自由の相互承認」というキーコンセプトを提唱している。本心から自由を尊重する社会になれば、社会の中で出会うひとりひとりが、お互いの自由を相互に承認するということから、モラルや倫理性を構築できるのではないか。ヘーゲル哲学を引用する形で、竹田は自由の相互承認から公共倫理を再生する道を探ろうとしている(『人間的自由の条件』)。

小泉改革の基本理念を否定したり、修正したりする前に、まず進むべき方向はこれではないだろうか。改革を継承し、それを徹底することによって、日本の将来に公共倫理を再生する道が開けることを期待したい。

筆者及び朝日新聞社に無断で掲載することを禁じます

2006年10月号『論座』に掲載

2006年9月26日掲載

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