ディベート経済 ライブドア事件の見方

小林 慶一郎
研究員

16日のライブドアの強制捜査から1週間で、堀江貴文前社長ら幹部が一斉に逮捕された。事件は市場主義的な構造改革と関係があるのだろうか。そして、日本経済への影響はあるのだろうか。

市場主義は間違いだった

ライブドア事件を受けて、市場原理主義批判が一気に吹き出している。批判内容は2つに大別できるだろう。

1つ目は「ホリエモン」というキャラクターへの感情的反発だ。

「人の心はお金で買える」と挑発した堀江前社長に対して反発を覚えた人は多いだろう。堀江前社長は、意識的にか無意識にか、多くの日本人が考えるデフォルメされた「市場原理主義」にぴったりのキャラクターをみずから演じていた節がある。

ストレートで、既存の常識を覆すような物言いは、市場主義の(皮相的な)イメージに一致し、新しい価値観を求める若者や構造改革派から支持を集めることに成功した。

同時に、市場主義に反対する層からは、堀江前社長はあしき市場原理主義の申し子として苦々しく思われていたに違いない。

事件を契機に、この反発が表面化した。お金がもうかれば何をやってもいい、という考えが、今回の粉飾など不正な行為を生んだ。怪しげな錬金術をもてはやすのはやめて、額に汗して働く従来の日本型経済に戻るべきだ、という意見である。

批判の2つ目は、ライブドアの台頭を許した市場主義的構造改革(規制緩和など)が間違っていた、という議論だ。

不況で意気消沈した企業に刺激を与え、M&A(企業合併・買収)活動を活発にするために、90年代から会社法関係の規制緩和が次々に行われた。

ライブドアが多用した株式分割や株式交換による企業買収などは、こうした規制緩和で可能になった新しい金融手法である。

ライブドアは、合法的な手法を、当局や他の市場参加者にとって「想定外」の目的や大きさで使って、錬金術のように企業価値を上げていった。

市場主義の政策が間違っていたから、企業倫理に欠けた企業につけ込まれ、事件を引き起こした、というのが批判の趣旨だ。

なれ合い社会に風穴開く

これに対して、自民党をはじめ、ホリエモンを改革の旗手として担いでいた側は防戦に懸命だ。この立場からの見解は次のようにまとめられるかもしれない。

規制緩和などの政策に関しては、やるべきことは比較的はっきりしている。

規制改革で市場の制度環境が新しくなったときには、脱法的行為が出現するのはほとんど避けられない。制度が人の手で作られたものである以上、試行錯誤で最善のものに近づけていくしかない。これは、新しい犯罪に対して判例の積み重ねや刑法改正で対応していくのと同じことである。

事前に完全な市場ルールを作るのは無理だから、事後的に問題をチェックし、ルールを改正していくのが市場主義の本質だ。

ライブドア事件は、市場ルールが改めるべきポイントを示した。さらに、市場ルールの順守を見届ける「番人」である規制当局や証券取引所など自主規制機関の強化についても、今後、大いに議論されるだろう。

しかし、事件が起きたことをもって、市場主義の政策哲学そのものが間違いであったとは言えないのである。

またホリエモンのキャラクターをめぐっては、日本社会に与えた功罪両面を考える必要がある。

堀江前社長の行動は、なれ合い・談合体質の日本社会に大きな衝撃を与えた。

プロ野球球団の買収に名乗りを上げ、密室の根回しによって球団数を減らそうとしていたプロ野球界を大いに揺さぶった。

ニッポン放送株の大量買収では、ラジオ局が大手テレビ局を支配するという資本構造のいびつさを突いた。

わかりやすい資本の論理を押し立てることで、旧弊で不透明な日本型慣行に風穴を開けた。違法行為があったとすればそれは償わなければならないが、堀江前社長が創造的破壊者の役割を果たしたことは事実ではないか。

これが防戦側の言い分だろう。

「ホリエモン」と構造改革 別々にみて

筆者の見方は、基本的に構造改革擁護の見解に近い。しかし、堀江前社長を構造改革の象徴のように見ていた我々の側にも問題があるのではないかと考える。

「時価総額世界一を目指す」という堀江前社長の経営理念は目新しいものではない。80年代、日本の銀行は、みな資産規模世界一を目指してバブルに突入した。当時活躍し、その後、「バブル紳士」と呼ばれるようになった新興の不動産関係の経営者たちも、おそらく堀江前社長と同じようなことを豪語していたはずだ。

80年代は不動産会社が新時代の旗手とされ、今はIT企業というだけで改革者になる。結局、不動産がITに変わっただけで、バブルに踊りたがる我々の側の精神構造があまり変わっていないのかもしれない。

もちろん、IT企業にはしっかりしたビジネスモデルを実践している優良企業もたくさんあるはずだ。しかし、ライブドアは、IT企業のブランドとイメージを利用して、いつしかカネ(時価総額)だけを目標とするバブル企業に変質してしまったのではないか。そういう企業の出現は、いつの時代、どこの国においても、活況を呈する産業には必然的に起きる現象といえるだろう。

ライブドアにかけられているのは、風説の流布や偽計取引、粉飾決算など、非常に古典的な経済犯罪の容疑である。捜査が進展すれば、ライブドアが行ったとされる犯罪が、構造改革路線や市場主義の政策哲学とは、本質的に関係のないものであることが理解されるはずだ。

むしろ、こうした事件を防ぐためにも、市場主義の進化が必要だ。企業を「評価」する際に、時価総額しか尺度がないから問題が起きる。企業が時価総額ではない価値と理念を市場で開示でき、投資家は多様な尺度(知的資産)で企業を評価できるような、質の高い市場を目指すべきだ。

カネがすべて、という堀江前社長のシンプルな経営哲学も、構造改革そのものの政策哲学と同一視されるべきものではない。

堀江前社長のような極端な考え方やライフスタイルをも許容する「寛容さ」こそが、市場主義の本質なのである。IT業界にも、それ以外の産業にも、堀江前社長と正反対の経営理念を実践して業績を伸ばしている企業家はたくさんいるだろう。

額に汗して働くまじめな企業が存在できる社会とは、結局、(違法でない限り)極端な拝金主義をも排除しないような、自由な市場でしかないのではないか。

ライブドア事件で、再び日本が異端を許さない狭量な閉塞社会に戻るのか、それとも寛容な市場社会に向けて改革を続けるのか。それを世界は注視している。

筆者及び朝日新聞社に無断で掲載することを禁じます

2006年1月30日 「朝日新聞」に掲載

2006年2月10日掲載

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