ディベート経済 メディアと市場 関係は

小林 慶一郎
研究員

3月のフジテレビ対ライブドアに続き、楽天のTBS株大量取得で、再びメディアと株式市場の関係が注目されている。

ネットとの融合で効率化

01年1月、アメリカのインターネット大手AOL(アメリカ・オン・ライン)がタイム・ワーナー社との合併を発表し、世界に衝撃を与えた。タイム・ワーナーは、出版、放送、映画、スポーツなどの分野の有名企業を傘下に持つ巨大メディア企業だったからだ。

インターネットが既存メディアと融合しようとする流れは、何年も前から始まっていたのだ。

こうした動きが、日本ではなぜいま持ち上がっているのだろうか。理由は2つある。

1つは、メディアを巡る技術環境が変化したからだ。インターネットが急速に発展してきた結果、既存メディアとネット企業の融合によって様々な事業を展開できる可能性が高まった。技術変化に合わせて、企業形態をより効率的な形に変えようとする動きが、世界的なネットとメディアの融合の動きといえるだろう。日本のメディア企業もその動きの中にある。

もう1つの理由は、日本的な株式持ち合い構造の崩壊である。

日本では最近まで、企業同士が互いの株式を持ち合って経営の安定を保ってきた。持ち合い株主は企業経営に干渉しないので、日本企業はあまり株主重視の経営をしてこなかった。

90年代に株価が大きく下がり、日本企業の株式持ち合いは解消される方向だ。その結果、株主価値の最大化を求める投資ファンドなど「もの言う株主」が台頭した。

一方、放送業界は参入を規制する電波法などで守られ、長年、規制による一種の独占利潤を享受してきた。その規制の利潤は、市場のチェックが働かないなかで、社員の高給や様々な非効率として、いたるところに放置され、株主には配分されてこなかった。「もの言う株主」は、その非効率を改めることを要求しはじめたわけである。

技術が変化し、無駄が放置されてきたことが問題であり、既存メディアは、市場規律を受けて効率的な存在に生まれ変わらなければならない。これが市場の立場に立った考え方だろう。

報道の中立性損なう恐れ

放送メディアは、音楽、スポーツ、映画、ドラマなどのエンターテインメントを提供する機能も大きいが、報道機関としての公共性を、その本質として持っている。

報道機関の公共性とは政治や企業に対して中立的な不偏不党の立場に立って、報道、言論活動を展開することである。政治についての正確な情報が国民に伝えられなければ民主主義は機能しない。健全なジャーナリズムは民主主義の基礎である、と言われるゆえんだ。

同じことは市場経済についても言える。企業について、偏りのない正確な情報が伝わらなければ、市場での経済活動は、情報不足やウソの風評などによって、大きく阻害されるだろう。

経済史家のチャールズ・キンドルバーガーは、欧米の経済スキャンダルや詐欺事件の歴史を調べ、ジャーナリズムがいかに悪人に利用されやすく、大衆をだますことが多かったか、を強調している。

大陸ヨーロッパで真に批判的な新聞(つまり報道機関)が育つまでに19世紀いっぱいかかった、とキンドルバーガーは言う。

長い歴史の中で、報道機関の中立性は確立された。これは市場経済の基礎といってもよいだろう。

インターネット企業は、いまのところは、まだ報道機関ではない。商品やコンテンツ、あるいは金融サービスなどをネットで売って、利益を上げるのがネット企業の本質であり、公正で中立的な報道を行うというメディアの公共性を共有していないのである。

インターネット企業の支配下におかれると報道機関の中立性が損なわれるのではないか。そう懸念するのももっともだ。

また、インターネットとメディアコンテンツの融合は、買収など過激な形でなくても進めることが可能だ。いろいろな業務提携が、放送局各社とネット企業との間で進んでいる。その過程で友好的に資本提携が進んでいる例もある。

放送業界の超過利益も、ネットとの競争の中で徐々に失われ、効率化が進むかもしれない。

規制で公共性守る時代は終わった

今回の問題から何が言えるのだろうか。インターネット技術の進歩は、経済を巡って何度もあらわれる、1つの倫理上の問題を提起している、と言えるのではないだろうか。

これまでは、既存メディアを規制で保護し、超過利潤を享受させてもいい、という暗黙の社会的合意があった。それは、利益を度外視しなければ報道機関の中立性が保てず、公益を追求できない、と考えられたからだ。

しかし、インターネットの発展の結果、状況が変わった。一般の私企業も、公的なメディアも、同じインターネットという技術的な土俵の上で、情報や商品を売って戦う時代になりつつある。

そうなると、メディアと一般企業のすみ分けを、政府の規制で守る、ということは実質的にできなくなってしまう。

公益的なメディアと、私益を追求する私企業との境界線が、インターネットの発展によって崩れてしまったといえる。

規制による超過利潤は、インターネットとの競争で失われる。既存メディアも、市場経済的な効率性を度外視していては、存続できない環境に追い込まれつつあるということである。

フェアな報道が市場経済の基礎である一方で、逆に、市場の論理で効率性を高めることはメディア企業が存続するための必要条件になってきた。

するとここで、公正さと効率性の折り合いをどうやってつけるのか、という経済論争でおなじみの問題があらわれる。

メディアの領域においては、これまで規制によって回避されてきたこの問題が、インターネット技術の発展によって表面化したのである。

これは解決の難しい問題だが、ヒントになるのはかつての銀行業界との類似性である。

銀行の融資や決済サービスも公共的な仕事であり、その公共性を維持するために、銀行は長い間規制で守られ、超過利潤を享受してきた。

それが、80年代からは日本経済の成熟化による環境変化で、厳しい競争にさらされ、超過利潤を失った。苦し紛れに土地融資に傾倒し、バブル崩壊で大きな痛手をこうむってからは、銀行もついに市場の論理で淘汰された。

しかし、それで銀行が公共的な機能を果たせなくなったわけではない。

現在のメディアがおかれた状況は、15年前の銀行と全く同じというわけではない。しかし、技術や環境の変化による競争が、規制の壁を突き破った、という点は類似している。少なくともメディアの公共性が規制による超過利潤で守られる時代は終わった、とは言えるのではないだろうか。

2005年10月31日「朝日新聞」に掲載
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2005年11月28日掲載

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