ディベート経済 アスベスト被害 責任は

小林 慶一郎
研究員

アスベスト被害の死亡者報告数が増え、とどまるところを知らない。この問題の責任と救済の仕組みをどのように考えればいいのか。また、同様の問題を防ぐにはどうすればいいのだろうか。

不確実な危険、行政本腰を

アスベストが工場労働者だけでなく、家族や周辺住民にも健康被害をもたらすという事例は、1960年代にすでに問題になっていたという。

先日、国会で明らかにされたように、76年当時には、行政もその危険を認識していた。アスベストの吹きつけが禁止されたのは75年だが、危険性が高い青石綿の使用が禁止されたのは95年になってからである。その間に、600万トンを超えるアスベストが新たに使われてきた。

なぜ、もっと早くアスベストの使用規制や周辺被害の救済ができなかったのか。省庁間の縦割りなど様々な理由が考えられるが、重要なことはアスベスト問題が抱えていた「不確実性」である。

アスベストと癌疾患(中皮腫など)の因果関係は、最近の医学の進歩がなければはっきりわからなかった。また、アスベストの代替品にも未知の危険があるかもしれない。だから、アスベストを注意しながら使い続ける方がよい、というのが、かつての石綿業界の主張だった。

一方、アスベストの使用を禁止すれば、業者は確実に経済的不利益を受ける。危険が不確実なときに、使用禁止の必要性を行政が立証するのは難しい。あえて業界に不利益を与えることの正当性を示せないのだ。

これは日本だけでなく米国でも問題になった。80年代末、米政府はアスベストの段階的使用禁止を始めたが、業界との裁判に負け、無効とされてしまった。

不確実な危険に対してどこまで行政が手を打つべきか、というのは大きな難問だ。

健康や環境への危険が、かりに不確実なものであっても、予防的に規制できる、というような基本原則を行政や司法の場で確立する必要があるのではないか。

その際、行政がリスクの大きさを評価し、分析する標準的な手続きや、リスクを管理するための手法を事前に定めておくことも重要である。

加害企業の逃げ得許さぬ

現に起きてしまったアスベスト被害をどのように救済するか。

職場でアスベストを使っていた場合は労災だが、家族や周辺住民の被害については、公害の救済と類似の仕組みを新たに考えていくことになるだろう。

救済を考える場合、アスベスト問題の特徴は、発症までの期間が30~40年もあるということだ。被害者がいつどのようにしてアスベストにさらされたのか、検証することは非常に難しくなる。また、過去30年の間に、アスベスト関連の多くの工場や職場が閉鎖され、消えてしまった。加害者の企業がなくなってしまうと、労災や公害で適用されている加害者負担の原則が成り立たなくなってしまう。

労災の場合、被害者には国から労災保険の保険金が支払われるが、その保険料は企業が全額負担することになっている。アスベスト被害の場合もそうだ。

公害の場合も、被害の補償は原則として汚染原因者、つまり企業が負担することになっている。

アスベスト問題の加害企業が特定できなかったり、倒産などで消えてしまったりしていたら、この原則が貫けなくなる。

現実的には、国や自治体が補償をある程度は負担せざるを得ないが、行き過ぎるのは問題だ。こうした公費は、国民や地域住民の税金であり、結局、負担を広く薄く国民に背負わせることになる。

これでは、アスベストを使用して被害を広げた企業は逃げ得になってしまう。

海外では、企業に対する損害賠償訴訟が主流だ。米国では賠償で倒産する企業も相次いだ。

安易に税負担とするのでなく、できる限り原因者をさかのぼって、負担を求めていくべきだろう。たとえば、海外のアスベストの原材料採掘業者や輸入企業など、関連する川上の企業までたどっていけば、責任を有する企業は多いはずだ。米国では関連業界や保険会社が被害賠償のための基金をつくる動きもあるという。そういう方法も一考の価値がある。

30年先の被害、個人の責任も重要

アスベスト被害の問題は、企業や省庁などの組織の限界をあらわにした面もある。

発症までの期間が30年もある問題を企業がきちんと考えて行動することは、組織の成り立ちから、そもそも無理がある。通常、企業の経営は長くても5年先か10年先までしか見ていない。30年先は、企業の意思決定の中では、永遠の未来に等しい。30年先には現在の責任者は全員退職しているし、企業は倒産しているかもしれない。

社員や経営者、株主が有限責任しかもたないことも裏目に出た。企業は事業に関連する様々なリスクを取って積極的な経営を行うことで発展する。近代の会社制度では、事業に失敗しても、損失の負担が一定の限度以上は企業家個人に及ばないようにしている。つまり、企業がリスクを取りやすくするために、有限責任の制度を採用しているのである。

このため、企業という存在は、事業リスクだけでなく、労働者や周辺環境に健康や安全の被害をもたらすリスクまで積極的に取りやすくなっているとも言える。

また、これまで個人主義が弱かった日本の特徴として、企業や行政という「組織」の責任を問うても、実際に意思決定をした個人の責任はあまり問わないという社会通念があった。企業の対応がアスベストのような危険に対して鈍感なものになる一因はそこにある。

現在はあまり問題にならなくても、アスベストのように、将来、どのような害が起きるか分からない物質は他にもある。

東京都が規制を始めたディーゼル車の排ガス中の粒子状物質、様々なものの燃焼で発生するダイオキシン類。米国では、フッ素樹脂「テフロン」に発がん性が指摘されている化学物質が使われていたことを企業が隠していたとして、消費者が集団訴訟を起こした。

将来起きるかもしれない不確かな危険、という意味では、これらの問題はアスベスト被害と同じような構造を持っている。

こうした問題を未然に防ぐには、予防原則を徹底するしかないが、現在の会社組織のあり方や社会通念では、不確かな危険に先制的に対処することは難しい。

1つの方向性は、この種の健康被害に限って、企業や行政の責任というだけでなく、関係していた個人の責任も訴求していく、という考え方である。

有害性が科学的に証明される何十年も前から、有害である「可能性」が指摘される事例は多いだろう。その可能性を知っても、企業や行政がなかなか対応しないのは、「自分は逃げ切れる」という考えが担当者個人にあるからだ。

何十年たっても自分が訴えられるかもしれないと思えば、企業も行政も有害物質のリスクにより敏感に対応するようになるだろう。

2005年7月25日「朝日新聞」に掲載
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2005年8月2日掲載

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