ディベート経済 安全と利益 相反するのか

小林 慶一郎
研究員

JR宝塚線(福知山線)の脱線事故では、JR西日本の利益優先の経営姿勢が強い批判を浴びた。安全と利益は相反するのか。企業の目指すべきものは何なのか。

対策講じるとコスト発生

今回の事故を受けて、人の命を預かる企業がどれほど重い責任を持っているか、ということがあらためて実感される。

航空会社のミスやトラブル、原発の配水管破裂事故など、企業の安全対策を巡る問題が増えている。経費削減や利潤優先の陰で、安全がおろそかにされているのではないか、と不安になる。

安全が重要なのは、鉄道や航空会社だけに限らない。家電製品でも、食品でも、企業の安全策が不適切なら、あらゆる商品が人命を脅かす可能性がある。だから、安全対策はあらゆる企業活動の当然の前提といえる。

ではなぜ安全が軽視され、事故は起きるのか。多くの人は「利益優先の経営のために安全が軽視された」と考える。そのポイントをまとめると次のようになる。

まず、企業にとって安全確保のコストは、あくまでもコストであり、利益を減らすものだ、と多くの人は考える。利益を拡大するためには、安全面も含めて、経費の削減が必要になる。

経費を節減するには、(1)設備や従業員の稼働率を上げる(2)安全のために必要な設備投資を減らす(3)人員の増加を抑える、という3つの方法しかない。

この3つをJR西日本は実践した。第1に、過密なダイヤ編成で列車や運転士の稼働率を上げようとした。第2に、新型の自動列車停止装置(ATS)をなかなか設置せず、設備投資費を抑制しようとした。第3に、運転士の採用数を長期間にわたって減らしたため、ベテランが少なくなり、若い運転士が通勤電車を任されるようになった。

これらの経費節減策は、すべて今回の列車事故に関係している。もしATSがあったら、ダイヤに余裕があったら、別の運転士だったら、事故は起きなかったかもしれない。

企業は利益を大幅に犠牲にしても、顧客の安全を最優先にすべきだ。これが今回の事故で多くの人々が感じた思いだろう。

「人命第一」で信頼も増す

これまでのずさんな安全対策をJR西日本が猛反省すべきなのはいうまでもない。しかし、事故を起こしていない他の一般企業では、「安全も大事だが利益も必要だ」という本音もあるのではないだろうか。

そうした経営者の立場からみたポイントは次のとおりだ。

第1に、利益が上がらなくなれば会社は存続できない。会社の存続が危うくなれば、そもそも安全への投資をしたくてもできなくなる。利益を度外視して安全対策を充実することは、やりたくてもできないということだ。

第2に、「利益と安全は対立する」という通念は、正しいとはいえない。

おそらく、JR西日本は、企業内の組織設計がうまくできていなかったから安全がおろそかになってしまったのだ。

英国でも、国有鉄道が民営化された後に、通勤電車などで深刻な事故が多発している。しかし、その原因は、民営化して利益優先になったから、ではない。鉄道の運行と施設整備とを別会社が行うようになって、意思疎通がうまくいかなくなったことなど、必要な安全策を実施すべき主体があいまいになり、対策が後手に回った。企業組織の設計を誤ったために、安全対策に穴があいたのだ。

JR西日本の場合も、同じような問題が起きていたのではないか。もし、本当に合理的な企業組織だったら、事故が起きれば多大な利益が失われると予想できたはずだ。

それに、「安全である」という信頼を受けることは、企業にとって利益そのものでもある。安全への信頼がたくさんの顧客を引き寄せ、長期的に企業の利益を増やす。

つまり、安全対策にコストをかけることは、企業にとって、長期的には十分に採算のとれる投資になるわけだ。

利益追求と安全第一は矛盾しないはずである。

経営陣と現場の目的意識は別

安全と利益についての2つの見方は、どのように理解すればよいのだろうか。

まず、短期的には、安全と利益は対立する。目先の利益を優先しようとすれば、経費削減によって安全がおろそかになる。しかし、長期的に考えれば、安全と利益は矛盾しない。安全は企業ブランドになるし、安全だからこそ顧客が増えて企業の利益が増える。

そこまで考えれば、安全対策をおろそかにすることはできないはずだ。しかし、残念ながら現実の企業組織は完全に合理的にはなり切れない。合理的組織を設計する努力を進めても、現場の使命感やモラルという感性で補完する部分がどうしても出てきてしまう。

いったん「安全」ブランドができると、企業はそれにタダ乗りしたい、という誘惑にも駆られる。つまり日頃の安全対策で多少手を抜いても、顧客の目には触れない。この「情報の非対称性」にあぐらをかき、企業が慢心すると、本当に危険な状態になるか、悲惨な事故が起きるまで、企業は安全対策を失念してしまう。

こうしたことからも、企業の合理性に期待するより、規律とモラルを維持する工夫が必要になる。ただ、そうしようとするとき、企業では「経営陣も従業員も一丸となって同じ目標を追求する」という姿が正しいと思われがちだ。しかし、それは間違いになる場合もあるかもしれない。

JR西日本では、事故の前に「稼ぐ」ことを第一目標とする社内文書が配布されていた。そこには経営陣から運転士や駅員ら現場まで、同じ目標(「利益」)を持つべきだという考え方がある。

しかし、むしろ現場の職員は、利益をまったく度外視しても本来の「使命」に沿おう、という心理状態でなければ、安全への注意が不十分になってしまう。つまり、現場の職員までもが利益追求を第一に意識するようになると、結果的に会社の長期的な利益は損なわれてしまうのである。

経営陣が長期的な利益を達成しようと思ったら、運転士や駅員が「自分の仕事の目標は利益ではなく、もっと重要な使命だ」と思える環境が必要なのだ。

これは「経営トップから末端の社員まで同質」という前提の日本企業の文化では、おそらく一番、間違えやすいポイントだ。

組織設計の問題や安全投資の不備もあるが、もっとも致命的な間違いは、経営陣と現場の社員は別の目的意識を持つべきだ、という点に気づかなかったことではないだろうか。

経営陣は、社員に対して、仕事の社会的意義を強調し、その観点から賞罰を決める。社員の使命感を高めつつ、結果として経営効率が高まるようにもっていくのが企業経営者の本務だろう。

2005年6月6日「朝日新聞」に掲載
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2005年7月5日掲載

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