「文明の衝突」と市場

小林 慶一郎
研究員

年頭の今回は、やや広い視点から、現在の経済問題の背景にある事柄を考察したい。

異なる倫理

イラクの現状やブッシュ再選のアメリカをみるとき、世界は、キリスト教対イスラムという「文明の衝突」の構図に近づいているように見える。

政治学者のサミュエル・P・ハンチントンは、冷戦後の世界が、西欧、イスラム、中華、インドなど8つ程度の文明に分かれて抗争する場になると予想し、それを「文明の衝突」と名付けた。

しかし、政治的には「衝突」するにしろ、それらの諸文明も、経済的には貿易投資を通じて、互いの繁栄に貢献している。グローバルな市場が世界をつないでいるのである。市場は古代から現代まで存在し続け、発展してきた。

ハンチントンのいう「文明」とは、むしろ宗教や伝統文化で統合された「共同体」のことだ。経済学者なら、それらの共同体をつなぐ自由な「市場」の発展の方を文明と呼ぶべきだ、と言うだろう。では、「文明の衝突」が真に意味していることは何なのだろうか。

思想家ジェイン・ジェイコブズによると、「共同体」と「市場」は、それぞれまったく異なる道徳律で成り立っている。共同体の倫理では忠誠が重んじられ、目的のために敵を欺くことが賞賛される。これはいわば戦時における軍隊の道徳だ。

それに対して、市場の倫理では、誠実さが中心となり、見知らぬ客や外国人に対しても正直を貫いて取引することが称賛される。この2つの倫理体系が誤った場所で使われると、醜悪な結果を招く、というのがジェイコブズの主張だった。

たとえば、共同体の倫理が間違って市場の活動に適用されると、市場を支える「見知らぬ取引相手への信頼」が崩壊し、市場が機能できなくなってしまう。

アルカイダの活動が世界に与えた打撃は、まさにそういうことではないだろうか。テロリストは、市場で資金や技術を手に入れたが、目的は市場経済そのものの破壊だった。

つまり、彼らは、自身の共同体的な特殊な目的のために市場をだました。そのため、「誰でも見知らぬ相手と好きなように取引できる」という市場経済では当たり前のことを、多くの人が是認できなくなった。

我々が直面している文明の衝突とは、こうした共同体の倫理の突出によって、グローバルな市場、すなわち地球規模の文明が機能障害に陥っていくことだと言えるのではないだろうか。

誤った適用

2つの倫理体系が、間違った領域で使われた結果、大きな問題を引き起こす例は、他にもある。

日本で社会問題化した援助交際やネット集団自殺などの現象がそうだ。所有物を自由に処分する権利は、市場経済の基本的権利だが、自分の身体や命がその対象にされると、違和感と不気味さがあらわれる。

そもそも身体や命をどのように処分するか、という問題は、共同体の倫理で扱うべき問題であり、市場の倫理で扱うべき問題ではないのだ。

ところが、共同体の領域と市場の領域の境界が混乱し、不気味な現象が発生してしまう。そして、自由の行き過ぎが問題を引き起こしたと認識されるわけである。

しかし、正確にいえば、自由の行き過ぎというよりも、市場的な自由の領域と、それ以外の領域を混同し、本来適用すべきでない領域で、市場の倫理を使ったことが問題を引き起こしていると言える。

逆に、共同体の倫理が市場の領域に進出したことで問題が生じた例もある。不良債権処理の長期間に及ぶ先送りがそうだ。日本では、バブル崩壊後の1990年代だけでなく、1920年代の10年間も、官民あげての先送りが発生した。

こうした傾向が示しているのは、「市場」に対する責任という観念が、近代以降の日本ではほとんど現実味を持っていなかった、ということであろう。

企業や銀行という「共同体」を存続させることが究極の目的とされ、そのためには市場をだますことも是とされた。共同体倫理が市場を侵していたわけだ。

市場の難問

共同体の倫理と市場の倫理とが本来の場を回復するにはどうしたらよいのだろうか。2つの倫理体系それぞれについて、異なるアプローチが必要になるのかもしれない。

伝統的に近代以前の社会では、共同体への参加意識と倫理は同じ共同体に属する過去の死者を弔うことから形成された。

したがって、共同体倫理が希薄化すれば、それに対する反応として、過去の死者をどう遇するかという問題がより鮮明に意識化される。

現在の日本における過去の死者の問題とは、端的に言って、戦争による死者の問題である。いま、戦争に関する歴史問題が重要性を増している背景には、共同体倫理の再生という現実的な課題があるわけだ。

しかし、同じ方法が、市場の倫理の回復に役立つとは限らない。

共同体の倫理が感情に強く訴えかけるのに対して、市場の倫理は人間の生物としての本能に反し、本質的によそよそしい感じを持つ。ある種の覚めたバランス感覚が市場倫理の基盤になる。

自由主義の経済学者ハイエクは、多様な価値観を持つ無数の個人や企業の相互作用によって、市場は自生的に生成される、とした。そして、できあがった市場秩序は、個々人の理解や納得を超えたものになると強調した。

つまり、社会が変化していく中で、試行錯誤を重ねて市場倫理を発見していくしかない。経済問題に関して言えば、財政悪化や景気低迷などに直面したとき、その都度、的確な判断を探るしかない。

その際の難問は、市場倫理への参加意識をどうやって確保するかということだ。人間の本能はともすれば市場倫理を嫌い、共同体的行動原理で問題を解決しようとする。

この傾向を抑える健全なバランス感覚を持てるかどうかが鍵なのである。

歴史と経済の深い関係

2つの倫理体系の使い分けの問題として経済問題をとらえると、歴史問題が経済問題に深く関連していることが分かる。

過去の死者をどのように遇するかという歴史問題は、共同体倫理のあり方と領域に決定的な影響を及ぼす。それは、反射的に市場倫理のあり方と領域を規定するのである。

たとえば日本で、今も昔も問題を先送りする傾向が強いのは、失敗の責任追及を行うことに対する病的ともいえるおそれがあるためだと思われる。この傾向が生じた理由は、近代以降の日本で、過去の死者の行った「誤り」をあいまいにしてきたことと関連しているのではないだろうか。

財政、不良債権、景気低迷などの経済問題は、歴史問題との関連性という観点からも、より深く考えていく必要がある。

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2005年1月9日 朝日新聞に掲載

2005年1月19日掲載

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