記事の要約
(1)人間には、組織統治の倫理と市場の倫理という2つの道徳律がある。
(2)組織統治の倫理で、市場経済まで律しようとすると、設計主義という誤りに陥る。
(3)経済政策では、状況に応じて2つの道徳律を使い分ける必要がある。その切り替えの巧拙を決めるのが、文化の力といえる。
UFJ統合問題が、この1カ月、日本の金融界を揺るがせた。UFJ、東京三菱、住友信託銀行(および三井住友)の3者の紛争に金融当局は介入せず、紛争当事者が司法判断を仰ぐ異例の展開となった。今回の騒動からは、経済政策や経済紛争に対する日本社会の考え方に大きな変化が始まったことが分かる。
市場主義と設計主義
経済政策や経済紛争をめぐっては、「当事者の自己責任に任せて行政や政治は静観すべきだ」とする考え方と、「積極的に介入し、行為規制をもかけるべきだ」という2つの考え方が存在する。
前者はいわゆる「市場主義」、そして後者のことを経済学者は批判を込めて「設計主義」と呼ぶことがある。設計主義とは、経済学者で自由主義哲学者だったハイエクの造語だ。社会主義や福祉国家を含む広い意味での政府介入主義を指す。
市場主義の前提は「経済活動においても自由は尊い」という理念と、「政府は民間当事者の細かい事情を知り得ない」という認識にある。状況を十分知らない政府が介入すれば、当事者の自由を奪うだけで、ますます問題がこじれる。むしろ、当事者に任せた方が早く問題が解決する。UFJ問題で、金融当局が少なくとも表立った調整や介入をしなかったのは、こんな考えからだろう。
一方、設計主義は「経済の資源配分には、誰か(政府)が責任を持つべきだ」と考える。市場という非人格的な集合体の中で、人々の資源や所得の配分が決まっていくのはおかしい。政府が公正に判断して、誰もが納得する資源配分を決めるべきだ、という発想だ。
こうした発想に立てば、UFJ問題にも、政府や裁判所がもっと積極的に介入して、問題解決を主導すべきだという考え方も出てくるかもしれない。
併存する2つの道徳律
市場主義と設計主義の対立は、歴史上、営々と続いてきた。その最たるものは、自由主義と共産主義の東西冷戦だった。
この対立の背景には、人類に併存する2つの道徳律が関係している。
思想家のジェイン・ジェイコブズは、人間には、2つの活動に対応する2つの道徳がある、と指摘した。1つ目の活動は、動物と同じく、資源を採取または奪取し、仲間に分配するという活動。もう1つは、人間固有の活動で、それが市場での交換である。
群れでの採取・分配は人間社会の中にある様々な組織の原型となる。企業、官庁、軍隊、血縁集団などの組織は、すべてこの原型を共有している。だから、これらの組織の中の人間の振る舞いは、共有の道徳で律せられる。
このため企業内の統治の規範は、組織への「忠誠心」が中核になり、上位者の命令への服従、仲間への思いやりなどが求められる。「(金銭による)取引をするな」「目的のために必要ならウソをつけ」ということが「倫理的」に求められる、とジェイコブズは指摘する。
こうした「組織統治の倫理」に対して、市場での交換活動(財の売り買い)は、まったく異質の活動で、それを律する道徳も当然違ってくる。顧客への「誠実さ」が中核となり、契約を守れ、ウソをつくな、取引して競争せよ、ということが求められる。
ジェイコブズはこれを「市場の倫理」と呼ぶ。
市場の倫理と組織統治の倫理を見比べれば、それらが両立せず、相矛盾することがわかる。だが、実生活でこの2つの道徳律を使い分けるのに困ることは少ない。なぜなら、2つの活動(組織運営と市場での交換)を、人間は無意識に区別し、道徳律を切り替えるからだ。
しかし、経済政策や政治の議論をするときには、この2つの道徳律の混乱、混同が容易におきてしまう。つまり、市場活動についての論争で、組織統治の倫理を適用した議論をしたり、逆に組織運営の問題について、市場の倫理を適用した発言をしたりする。
組織内のことを市場の倫理で律しようとする議論は、行き過ぎた市場原理主義だ、という反発を招く。それは、そもそも適用すべきでない対象に市場の倫理を適用しているためである。
一方、市場の活動に関する問題に、組織統治の倫理を適用しようとするのが「設計主義」と言える。誰か(上位者)が所得配分に責任を持つべきだ、というのは、組織内でのみ成り立つ統治規範だ。それを市場経済全体に当てはめると、「政府が責任を持って配分を決めるべきだ」となる。
この関係は図のようになる。設計主義の貫徹は、本来適用すべきでない領域まで組織統治の倫理で割り切ろうとする誤りと言えるだろう。
「文化」の果たす役割
実際には、実生活と同じように、経済政策でも、経済紛争でも、状況や対象に応じて、適用すべき倫理や哲学の「切り替え」が必要なのである。
市場原理主義で組織の問題に対処しようとしても失敗するし、逆に組織統治の倫理にのっとった手法で市場の問題を解決しようとしてもうまくいかない。政府が組織的、段階的に対処しようとして問題をこじらせた、90年代の不良債権問題がその例だろう。
さらにいえば、この倫理の「切り替え」をいかにうまくできるかが、経済のパフォーマンスを大きく左右しそうだ。
たとえば、平時には市場の倫理、非常時には組織統治の倫理で、経済政策を律する、という切り替えが考えられる。
米国政府は、98年に破綻寸前に陥ったヘッジファンド「ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)」を救済するために、半ば強制的に民間銀行に資金提供を求めた。これは、組織統治の倫理でのみ正当化できる護送船団方式だ。市場主義を基本とする米国の経済政策では、こうした手法は通常考えられない。
LTCMの破綻は米国の金融システムを崩壊させる危険があった。その危機に直面し、米国は政策を律する倫理の切り替えを柔軟に行った。
このような倫理の切り替えを行うには、その根拠を与えられるさらに上位の判断基準がなくてはならない。それが各国様々な「文化」、あるいはソフトパワーと呼ばれるものではないだろうか。
地裁と高裁で判断がわかれたUFJ統合問題は、倫理の切り替えをどの段階で行うべきか、という点について、まだ日本には合意された文化がない、ということを示唆している。
金融界では、かつての護送船団方式がなくなり、特殊な組織の倫理ではなく、通常は市場の倫理が政策を律するべきだという方向ができた。これに伴い危機の際には柔軟な倫理の切り替えが必要になる。
今回のUFJ問題は、その切り替えの文化を作り上げるための、手探りの一歩だったと言えるのかもしれない。
2004年8月22日 朝日新聞に掲載