年金改革はなぜ必要か

小林 慶一郎
研究員

記事の要約

(1)年金の問題は、保険料など財源が少なく、給付総額が多いことだ。制度を維持するには、収入を増やし、給付総額を減らすしかない。
(2)負担を所得に対してもっと累進的にすれば公平感は高まるが、「保険」という性格からかけ離れたものになる。
(3)公的年金とはリスクに対する「保険」なのか、国民の「相互扶助」なのか、年金の理念を再整理する必要がある。

公的年金のあり方は、参院選の大きな争点にもなった。保険料と給付水準のバランスの問題、国会議員などの未納問題、年金資金の流用問題、社会保険庁の改革など、問題は多岐にわたる。ここでは、根本的な年金制度の理念と役割を整理し、年金問題への視点を確かめたい。

どこが問題か?

年金改革について、多くの人が割り切れぬ思いを抱いている。

これから年金をもらうはずの人々は、老後にあてにしていた給付を減らされる。若い世代は、年金保険料が高くなり、負担がますます重くなる。そのうえ、将来もらえる年金が本当に現役の50%なのか、疑問もでてきた。

つまり、年金保険料の負担が増え、年金給付が減ることが、不満の原因になっている。

しかし、年金制度の問題は、今の制度では保険料で集まるお金が少なすぎ、年金給付が多すぎる、というインバランス(不均衡)の問題なのだ。

これまでの年金制度が、あまりにも気前よく給付水準を上げすぎ、保険料を低く据え置きすぎたともいえる。

だから、年金制度を維持するためには、何らかの形で保険料収入を増やし、給付の総額を減らすしかない。しかし、一律に保険料を値上げし、給付水準を下げるのは不公平だと感じる人も多いだろう。

もっと、庶民の負担が軽くなるようにできないか。たとえば、低所得者層の保険料を値上げせず、富裕層の保険料をもっと累進的に高くする。あるいは、貧しい高齢者への年金給付を増やし、裕福な高齢者への年金給付を減らす。こうした年金改革なら多くの国民が納得するだろう。

しかし、そうはできない理由がある。それは、年金制度が「保険」であるということだ。

この年金保険制度には、理念的に少々無理をしたところがあった。

その矛盾が限界に近づきつつあるようだ。

制度の理念は?

年金制度には、2つの理念が混在している。ひとつは、「いつまで生きるか分からない」という不確実性(リスク)に対する「保険」という目的であり、もうひとつは、国民が生活を支え合う「相互扶助」の理念だ。

まず、年金が「保険」であるとはどういうことだろうか。

これは生命保険の逆だと考えれば分かりやすい。生命保険は、予想外に早く死が訪れた時に残された家族の生活などに必要な資金を支払う保険だ。逆に、ある人が予想外に長生きしたときは、貯蓄だけでは生活費が足りなくなるかもしれない。それを補う保険として終身の支払いを約束する年金があるわけだ。

つまり、いつ死ぬか分からない、というリスクに備える保険が年金の1つの機能だといえる。

もし年金制度が保険機能だけを目的に作られているなら、保険料と給付の適正な比率は、平均余命のデータなどから確率計算で決められる。生命保険と同じように、民間の保険会社が運営できるものだ。実際、個人年金は保険会社の有力商品の1つになっている。

年金制度のもうひとつの目的は、国民の間の相互扶助だ。相互扶助を素直に考えれば、現役世代が高齢者を支える、というだけでなく、裕福な高齢者が貧しい高齢者を支える、という考え方があっても当然だ。

ただ、現在の年金制度は、「保険」という形式をとっているため、裕福な高齢者が貧しい高齢者を支える、という仕組みをとるのは難しい。裕福な人は現役世代に多額の年金保険料を納めているので、それに見合った高額の年金を受け取るのが、「保険」としては公正だからだ。

年金制度の目的は、強制貯蓄だという考え方もある。自由にしていると老後を迎えるまでにお金を使い果たす人がいるので、強制的に老後の貯蓄を年金保険料という形でしてもう、という見方だ。しかし、老後の蓄えを自主的にするのも苦しいほどの低所得層は年金保険料を納めるのも難しい。そうした層を支えるのは年金より、やはり、生活保護などの福祉政策かもしれない。

改革の方向は?

年金制度の基本形は、「保険」機能を重視するか、「相互扶助」を重視するか、によって違ってくる。まず、両極端を示すと次の通りだ。

いつまで生きるか分からない、というリスクに対する保険に徹するなら、年金の設計は、保険数理の問題になり、政治的に選択する余地もない。生命保険と同じように、年金も民間保険会社に任せればよいということになる。つまり、年金の民営化だ。たとえば、「確定拠出型年金」と呼ばれるアイデアは、概念的には、民営化に年金制度を近づけようとする考え方といえる。

一方、国民の相互扶助を進めるためなら、高所得者に薄く、低所得者に手厚く年金を支払う傾向をもっと強めなければならない。しかし、その場合、年金財源を「保険料」と呼ぶのは概念的に難しくなるだろう。

保険とは、払った保険料に比例した年金を受け取れる、という「約束」のことだ。相互扶助を重視して低所得者に手厚い年金制度になれば、高所得層は、払った保険料に見合う年金がもらえないわけだから、年金制度は、「不公正な保険」になってしまう。

一番、分かりやすいのは財源を税として集めて、国民に再配分することだ。税ならば、もともと「払った分に見合う年金を支払う」という約束ではないから、高所得者から低所得者への再配分は国民の納得を得られる。

とはいえ、現実の年金は、民営化(確定拠出)と税財源化の中間的な姿を目指すしかない。

基礎年金部分は相互扶助のため、2階部分(厚生年金など)は保険機能のため、という区別をするのなら、基礎年金は税で、2階部分は実質民営化で、という制度設計がすっきりしているかもしれない。

いずれにしても、年金の財源が少なすぎ、年金給付が多すぎる、という問題の帳尻を合わせる必要がある。

このインバランスができた理由は、給付水準が高すぎ、保険料が安すぎるということ以外にも、出生率低下や、デフレ不況で年金資金の運用に失敗したことなどがある。

もし年金を民間企業が運営していたら、それらはデフレ期に相次いで破綻していたかもしれない。民間と違って、国はマクロ経済環境が大きく変化しても、最後は税金を徴収することができるので、年金制度を維持し続けることができる。この徴税権への信頼が、かろうじて年金制度の崩壊を食い止めているといえるだろう。

年金制度を維持するためには、富裕層の負担を重くし、デフレ不況で失った基金を税金で穴埋めするしかない。

これを「保険」の枠組みを維持しながらやることは不可能ではないが、言葉の本来の意味での「保険」とは大きくかけ離れたものにならざるを得ないだろう。

やはり、制度の根幹の理念をもう一度、整理し直す必要があるのではないだろうか。

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2004年7月11日 朝日新聞に掲載

2004年8月10日掲載

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