総裁選と経済政策

小林 慶一郎
研究員

自民党総裁選が8日に告示される。小泉政権の経済政策の是非が主要な争点の1つとなる見通しだ。論戦本格化の前に、予想される主張とその背景をなす思想は何か、整理する。

主要な争点とは

日本経済の現状から、政府が対処しなければならない主要な課題は次の3つだ。

(1)不良債権処理と産業再生(2)デフレ脱却(3)財政再建と年金や医療保険など社会保障制度改革。

まず、財政や社会保障制度に関しては、国や自治体の借金が約700兆円(国内総生産の140%)に達している現状などを考えると、改革が必要だという点では意見の相違は表れないだろう。

しかし、最初の2つについては、政策手段と手順を巡って立場が分かれるだろう。

「不良債権処理・産業再生によって改革が進めば、経営規律や活力が回復し、デフレも脱却できる」とする主張に対し、「マクロ政策でまずデフレを脱却してから不良債権処理等は考えるべきだ」というのが、基本的な対立構図だ。

「改革なくして成長なし」という小泉首相の言葉は、前者の立場に立つものだ。

マクロ政策についても、財政政策に重きを置く立場と、日銀による金融政策を重視する立場があり、これまでも政局の変化に絡んで、与野党の政治家たちがこの種の発言を繰り返してきている。

不良債権処理や産業再生など構造改革には、経営責任の問題やリストラの加速など「痛み」を伴うだけに、対立は鋭くなる。さらにそれぞれの政策主張の背景には、政策哲学や価値観の違いを見ることができる。

価値観どう違う

「自由主義」に立つか、それとも「合理主義(計画主義)」なのか、ということだ。この対立は、近代文明社会で繰り返し現れるおなじみのものでもあり、小さい政府対大きい政府、新古典派対ケイジアンの対立も同根と見ることができる。

不良債権処理など構造改革優先派は、自由主義的であり、デフレ脱却優先派は、合理主義的だといえる。

ここで言う自由主義とは、個々人や企業に無制限な自由を容認するのではなく、守るべき暗黙の規律とルールを重んじる自由主義だ。

この自由主義は、市場メカニズムを重視する考え方と重なる。市場メカニズムを信頼する、ということは、別の見方をすれば、市場を律するルールを信頼することでもあるからだ。ルールなしの自由は、不正がまかり通る弱肉強食の世界に過ぎず、ルールと規律の尊重(自然法の支配)こそが古典的な自由主義の本旨だ。

一方、合理主義とは「経済運営は、科学的で合理的な計画によって科学的に実行できるはずだ」という信念のことである。この信念そのものは、必ずしも合理的な根拠があるわけではない。

18、19世紀の科学万能の時代に、自然科学からの類推で人間社会も科学的な手法でコントロールできるはずだ、と考えるようになった。これが起源だ。

これら2つの思想は、特に「責任」と「政府の能力」とを巡って鋭く対立する。その点を現実の経済課題に即して見てみよう。

主張に何を見る

不良債権処理や構造改革に際して、自由主義的な発想からは、失敗した企業や銀行の経営責任、行政責任の問題を積極的に取り上げようとする。

銀行や企業の経営失敗は預金者や債権者の権利に対する侵害、行政の失敗は国民の権利への侵害だ、ということになるからだ。権利の侵害とその責任に敏感であるから、不良債権処理に積極的になる、とも言える。

これに対して、合理主義は、責任の存在そのものを認めようとしない傾向がある。

合理主義的な立場に立つと、「経営の失敗はデフレが原因だから経営者の責任ではない」ということになる。

したがって、責任問題には熱心ではなく、「政府がマクロの環境を良くすることによって、失敗の原因を取り除くべきだ」という考え方になるわけだ。

だがこれは、責任と原因を混同してルールをないがしろにする論だ。「たとえ失敗の原因がデフレであったとしても、債権者・預金者の権利を侵害した責任は別にある」と見るところに自由主義的な規律が生まれると筆者は考える。

もう1つ、自由主義と合理主義の間で見方が分かれる点に、政府の能力についての認識がある。

自由主義は、個々人の自由な活動の結果、政府のコントロールが及ばない範囲が大きくなる、と考える。従って、政府が果たしうる役割も比較的小さくとらえる。

一方、合理主義者は、政府が個々人の意図や行動まで考慮した上で政策を実施すれば、予定どおりの結果が実現できるはずだ、と考える。「社会に対する政府の能力」を「自然物に対する科学者の能力」と同じように考えて、政府が果たす役割は大きいとみなす。

特に、国民のインフレ期待を政府・日銀がコントロールできる、とする最近の主張も、このような思考回路から来ていると思われる。

経済政策の考え方は、両端に自由主義と合理主義を置くと、みな、その枠内に収まってくる。総裁選の候補者が主張する経済政策の内容から、その人の根本的な政治思想が何であるのかも窺うことが、本来はできるはずなのだ。

資本注入は自由主義的手法

自由主義と合理主義の整理に関連して、銀行への資本注入について触れておきたい。政府が大きな役割を果たす意味で、資本注入は合理主義的と思われるかもしれないが、本来は、自由主義的な政策なのだ。

資本注入は、自己資本が過小になって、預金者の財産に損害を与えた銀行に対して行われるべきものだ。銀行は、預金者の権利を侵害した責任を負い、その責任をとるために、当局からの資本注入を強制される。これが基本的な考え方だ。

ところが、現在、「健全な銀行への資本注入」という公式見解が政策論理を混乱させている。「健全な銀行」とは、預金者の権利を侵害していないわけだから、この注入は、自由主義の考え方では正当化できず、単なる国家介入になってしまう。

政策思想が混乱しているため、注入に支持が得られず、結果的に必要な注入が遅れて、金融再生が進まないのだ。「健全な銀行」に資本注入を行う、という見解は自己矛盾であり、これを改めることが、金融行政最大の課題だろう。

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2003年9月7日 朝日新聞に掲載

2003年9月10日掲載

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