IPEF合意への課題 アジア諸国の参加意欲カギ

木村 福成
コンサルティングフェロー

米中対立、コロナ危機に続くロシアのウクライナ侵攻により、地政学的議論がメディアを席巻している。

ここで気をつけたいのは、対立構造を際立たせる地政学的議論と活発に動いている経済実態との間に大きなかい離が生じていることだ。地政学的緊張が高まる今、経済安全保障の議論を深めることはもちろん大事だが、各国経済やサプライチェーン(供給網)は引き続き活動している。アジアの国々、特に東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国との付き合いは、それを認識せずには前に進めない。

サプライチェーンのデカップリング(分断)も、一部の機微技術を用いたハイテク製品やバッテリー、レアアース(希土類)関連では一定程度進むが、今のところ集計された貿易統計にはほとんど表れてこない。

米国の中国向け輸出、とりわけ穀物、エネルギー関係に加え半導体は、2020年から21年にかけて増えている。日本の対中輸出も電子部品や機械類にけん引されて21年には大きく伸びた。ここ数年、日本の輸出管理体制は強化されているが、通関業務の電子化なども並行して進んでおり、輸出許可件数自体は20年に2千万件超と前年比10%以上増えている(財務省資料)。

今後さらに対立が深まるとしても、部分的なデカップリングにとどまると考える向きが大勢だろう。地政学的危機に備えながらも、経済の活力、投資意欲を保持していくことが重要だ。

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22年5月、米国主導の新経済圏構想「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」が立ち上がった。参加国には日米に加え、カンボジア、ラオス、ミャンマーを除くASEANの7カ国、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、インド、フィジーの14カ国が名を連ねる。

貿易、サプライチェーン、クリーンエネルギー・脱炭素化・インフラ、税・腐敗防止という4つの柱が示されており、6月と7月に対面およびオンラインの閣僚級会合を開いた。この枠組みを生かしていくには、特にASEAN諸国の積極的な参加が不可欠だ。

図は、19~21年のASEAN全体の財貨輸出入額を示したものだ。20年の貿易減少は軽微で、21年には力強く成長している。特に輸出の落ち込みがほとんどないのは、当初の感染抑え込みが成功したことに加え、リモートワークやステイホーム関連品の需要増をしっかりととらえたためだ。22年に入り、コロナ変異型の感染拡大、中国のゼロコロナ政策の影響、食料・エネルギー価格の高騰など様々なショックが襲ってきているが、経済全体としては十分に活力を維持している。

図:ASEAN10カ国の相手国別財貨輸出入額

また貿易相手国別シェアでは、ASEAN自身への貿易が輸出入とも20%台前半を占める。ほかに大きいのは、輸出側では中国と米国(21年にそれぞれ16%、15%)、輸入側では中国(同24%)だ。対日輸出は同7%、輸入は同8%と影が薄い。財貨貿易以外の直接投資や金融の結びつきをみれば日本や西側諸国の関与はもっと大きいが、ASEANにとって中国が大きな存在であることは明らかだ。

彼らも中国発の潜在的な政策リスクはよく理解しており、西側諸国との経済関係を深めてバランスをとろうとしている。その一方で、超大国のいずれかから二者択一を迫られる事態は避けたいと考えている。

IPEFは、今後日本がASEAN諸国をはじめとするアジアとどう付き合っていくかを示す大切な機会となる。米国が国内事情により関税撤廃などを含められないという制限もある。それでも日本としてはその内容を米国任せにせず、ASEANの関与を確保するために努力すべきだ。

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IPEFは、多分野の一括合意を原則とする自由貿易協定(FTA)のような枠組みでなく、参加国が分野ごとに参加・不参加を決められる方式になりそうだ。この際思い切って、拘束力のある合意は付いてこられる国が先行する形とし、柔軟な形態の協力は多くの国を巻き込みながら、重層的に仲間づくりを進めていけばよい。もう少し広い視点からみれば、環太平洋経済連携協定(TPP)もその一環に位置付けられよう。

内容については、信頼し合う国々で供給網を構築する「フレンドショアリング」を唱える米国から、踏み絵を迫られるのではないかとの警戒心を解くため、経済アジェンダ(政策課題)と経済安保アジェンダをわかりやすく分けてはどうか。

経済アジェンダでは魅力ある内容を盛り込んで、ASEAN諸国の関心を引き寄せなければならない。キーワードはデジタルとグリーンだ。自由な越境データ移動やデータローカリゼーション要求禁止を含むデジタルルールは、インドなどすぐには対応が難しそうな国もあるが、できる国からぜひとも進めたい。TPPの電子商取引章や日米デジタル貿易協定がそのひな型となる。公共政策例外、安全保障例外の範囲を明確にし、また政府の民間データアクセスに関する規律も加え、国際ルールとして実効性のあるものとすべきだ。

併せてデジタルトランスフォーメーション(DX)推進とデジタルデバイド緩和のためのインフラ整備、技術協力、人材育成、スタートアップ支援などへの協力を提示していく必要がある。グリーン、エネルギー・環境対応もASEAN側の関心の高い分野であり、米国、日本としても提供できるものはある。技術や質の高さを強みとして協力を進めることが求められる。

経済安保アジェンダについては、当面は各国の異なる立場を尊重し、受け入れてもらえるところから始めるべきだ。地政学的緊張が高まる中で、ASEANとしても対応を迫られる部分も出てくる。例えばサプライチェーンを巡る貿易管理に関しても、米国の輸出管理法の域外適用はASEAN内に立地する企業にも影響してくるし、米欧で法制化が進む人権絡みの輸入規制への対応も必要となる。

サイバーセキュリティー強化も重要だ。これら経済安保に関するシステムづくりは、彼らとしても必要となるはずであり、関与を深めていく余地はある。

根本的な問題は日本経済自身の相対的な地盤沈下にある。アジアに評価してもらえるものが相当減ってきており、IPEFの内容を盛り込むのにも苦労する。

経済アジェンダと経済安保アジェンダの両立は日本にとっても重要だ。日本企業の「チャイナプラスワン戦略」は既にかなり進んでいる。さらに本当に代替のきかない重要物資があるならば、ディフェンシブに供給途絶回避のために、採算性を考えながら生産再配置を手伝うのもよいだろう。

しかしさらにオフェンシブに、サプライチェーンのデカップリングにより相手国の競争力を減退させる、あるいは経済的手段を用いて相手国に政治的な影響力を及ぼす「エコノミック・ステートクラフト」の武器を開発するのは、そう簡単ではない。まずは自らの国際競争力の減衰を直視し、自由な市場競争の下での国際競争力強化に人的・物的資源を投入すべきだろう。

2022年8月3日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2022年8月9日掲載

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