1980年代半ば以降、東アジア地域では国際的生産ネットワークすなわち工程間国際分業が展開され、製造業とりわけ機械産業を中心に「ファクトリー・アジア」が形成された。生産ネットワークでは、各工程・タスク(業務)を担う生産ブロックが国境を越えて配置される。生産ブロック間の緊密な連携を可能とする経済条件と政策環境が必要なため、ルールに基づく国際貿易秩序が不可欠だ。
だが国際貿易秩序はこの4年で大きく揺らいだ。米トランプ政権のルール無視の貿易政策、各国の対抗措置、米中貿易戦争など、国際貿易秩序は様々な困難に直面した。バイデン政権の発足は希望を抱かせるが、通商政策については当面トランプ政権の政策が継続される。米中対立は解消されず、デカップリング(分断)は一層進む可能性が高い。
東アジアの生産ネットワークは新型コロナによる負の供給・需要ショックを克服しつつある。デジタル技術による生産ネットワークの一層の効率化、新たなデジタル関連産業の発展も加速している。いかに不確実性を制御し、ファクトリー・アジアをさらに発展させていくかが問われている。
日本およびアジアの企業は引き続き生産ネットワークの効率性とリスク対応の最適解を求めていかねばならない。一方、日本政府としては、世界の超大国が不確実性を増大させている以上、事態を完全にコントロールするのは難しい。しかしできることはある。メガ自由貿易協定(FTA)戦略のさらなる展開である。
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以下では、多数国が参加するFTAあるいは世界の主要国間FTAをメガFTAと呼ぶこととする。メガFTAの役割は従来、貿易・投資の自由化と新たな国際ルール作りの2つとされていた。世界貿易機関(WTO)の機能不全は深刻で、メガFTAには新たなグローバリゼーションへの対応が期待されてきた。
さらに2017年以降のルールに基づく国際貿易秩序の弱体化と米中対立の激化を踏まえて、2つの役割が追加された。一つはその時々の政治に左右されて通商政策が変更される政策リスクを減らすこと、もう一つは自由貿易を支持するミドルパワーのコアリション(提携)を形成することだ。4つの役割という視点からメガFTAをみてみよう。
表は近年日本が関与したFTAを示したものだ。環太平洋経済連携協定(TPP)、日・欧州連合(EU)経済連携協定(EPA)、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)の交渉は13年に始まった。TPPは16年2月に署名されたが、17年1月のトランプ政権の発足直後に米国が離脱した。
その後日本が主導したTPP11は米国の離脱を乗り越え、米中に挟まれたミドルパワー・コアリション形成の役割を担った。貿易・投資の自由化、国際ルール作りでは、東アジアが目指すべき新たな標準を打ち立てた。最終的に関税がゼロとなる品目数の比率(関税撤廃率)は日本のみ95%にとどまるが、その他の国では99~100%に達した。
サービス・投資では、自由化度が高いネガティブリスト方式すなわち自由化を保留する部分を特記する方式がとられた。国際ルール作りでは、国有企業などの競争条件の平準化を求める国有企業規律と、データの自由な移動、国内のサーバー設置を義務づけるデータローカライゼーション要求の禁止、ソフトウエアの設計図「ソースコード」の開示要求の禁止を掲げる電子商取引規律が特に重要だ。
日EUEPAも自由化度は高い。関税撤廃率は日本が94%、EUが99%だ。サービス・投資にはネガティブリスト方式がとられた。国際ルールも包括的だが、電子商取引ではデータの自由な移動やデータローカライゼーションの禁止は含まれない。政策リスク減少、ミドルパワー・コアリション形成への貢献は大きい。
日米貿易協定は物品貿易のみが対象で、すべての物品をカバーしておらず、追加交渉を前提としている。日本側からみた意義は政策リスクの減少、特に安全保障を理由に貿易制限を認める米通商拡大法232条の自動車輸入への適用を避けることなどにあった。一方、日米デジタル貿易協定はTPPの電子商取引章の内容にアルゴリズムの強制開示禁止などを付け加えた。
20年11月にインド抜きで署名に至ったRCEPは、TPP11などと比べると自由化度は見劣りする。だが関税撤廃率は参加国全体では91%で、東アジアの既存FTAより深掘りされている。また相手国別に関税撤廃パターンが設定されるなど変則的だが、曲がりなりにも日中、日韓は初めてFTAで結ばれる。原産地規則は域内共通で既存FTA以上に貿易促進的であり、一定の貿易創出効果は得られよう。サービスについても最終的にはネガティブリスト方式が目指される。
国際ルール作りでも広範囲をカバーしており、将来の国際ルール作りに中国や東南アジア諸国連合(ASEAN)が参加する際の交渉の出発点を示す。注目されるのは電子商取引章で、広範な適用除外はあるが、データの自由な移動とデータローカライゼーション要求の禁止も盛り込まれた。
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メガFTAの最終ゴールは署名と発効ではない。今後いかに活用し、内容を充実させていくかが重要だ。
TPPは加盟国拡大が課題だ。米国の復帰については悲観的な見方が多いが、客観的には米国としても合理的な選択だろう。米国がルールを守る立場に戻ることは大歓迎だ。米復帰の可能性を踏まえ、英国やタイ、韓国など加盟を希望する国も出てきた。21年、日本は委員会の議長国であり、新規加盟を進める好機だ。
中国もTPPに関心を示している。関門は貿易・投資の自由化、国有企業、電子商取引だ。中国国内で改革派が優勢となり、TPP加盟を契機に抜本的な構造改革が進むのなら結構だ。
一方、中国側はある程度交渉次第と考えているフシもある。例えば国有企業に関しては、ベトナムやマレーシアも広範な適用除外を得ている。電子商取引についても大原則は提示されているが、どこまでの国内法改定が求められるのかは明確でない。安易な条件で加盟を認めないよう、現加盟国の協定順守についても検証を進める必要がある。
RCEPは発効を急ぐとともに、発効5年後の協定見直しでは、TPP11が示した自由化と国際ルール作りの標準にできる限り近づく努力が求められる。中国からの輸入急増を恐れて交渉離脱したインドに生産ネットワークの本質を理解してもらい、RCEP復帰を促すことも欠かせない。
RCEPを巡っては、政策リスクを減らすための対話チャネルとして機能するのかという懸念もある。大国はその時々の政治状況に応じて貿易政策を政治の道具として使う誘惑に駆られがちだ。WTOの紛争解決機能が低下している今、メガFTAはミドルパワーが協力して大国に政策規律を促す貴重な場となりうる。日本は複数のメガFTAのハブ(中核)としての位置を積極的に利用すべきだ。
2021年1月19日 日本経済新聞「経済教室」に掲載