経済論争 この10年

06 規制改革

小林 慶一郎
RIETI研究員

バブル崩壊後、財政出動中心の景気対策が効かず、不況が長引く中で、景気が回復しないのは構造問題が原因ではないか、という見方が広がった。90年代前半から規制緩和の議論が高まったのは、過剰で時代遅れの規制が、日本経済の活力を奪っている、と思われたからだ。

なるべく規制をなくして、自由な競争をしたほうが経済の活力が高まる、というと誰もが納得する。

90年代の経済政策の現場では、「規制を少なくして、何でも民間の好きにできるようにするべきだ」という意見が強まった。その結果、政策を考えるより、「政府が何もしない」ことが正しい、という雰囲気すら生まれた。

しかし、この考えには2つの落とし穴があった。

ひとつは、規制緩和は経済の供給構造を効率化するので、長期的な成長を高めるが、かならずしも短期的な不況を解決するわけではない、ということだ。

もうひとつは、規制を緩和しても、制度のゆがみがなくなるとは限らないことだ。それは、特に、不良債権問題を考えればわかる。

当初、不良債権問題は、自由な市場競争のメカニズムで自然に解消する、と思われていた。ところが、会計制度や銀行破綻制度が不備だったために、不良債権の処理は90年代を通じて、際限なく先延ばしされてしまった。

政府は不良債権への干渉を避けてきたが、90年代末には、結果的に公的資金による資本注入や当局による厳しい検査など、実質的な規制強化で解決せざるをえない状況に追い込まれた。

要するに規制緩和、あるいは規制改革は、いわば経済の体質強化のための漢方薬のようなもので、当面の病気(不況)を治す即効性はなかったのではないか。

だが、今後は、規制改革の重要性が増すことは間違いない。不況からの脱却が近づき、次の課題は、長期的な社会の活力を高めることだからである。

しかし、規制改革には激しい抵抗がある。最大の争点は、社会的規制の問題だ。

医療や教育などの社会的規制は、経済効率性とは別次元の価値を追求するためにあると説明される。たとえば、医療規制は「人の人生」を、農業規制は「食の安全」を、教育規制は「子供の発達」を守り助けるために、規制が存在している、とされている。

社会的規制の緩和に対する反対論は「社会として守るべきものを、経済効率のための規制緩和で破壊するのか」という議論だ。

たしかに経済効率と生命・安全の二者択一なら後者に軍配が上がるだろう。

しかし、論議の土台を「あれか、これか」の二者択一にするのは間違っているのではないか。経済効率と生命・安全などの価値は、排反するものではない。

たとえば医療なら、患者無視のコスト削減は正しい規制改革ではない。生命の尊厳を大前提とした上で、現在の制度が抱える無駄やひずみを取り除き、医療が救う生命の数を最大にするのが、規制改革による効率化の趣旨だろう。

目指す目標は何で、実現のため、どんな手段を用いるか。不毛な二元論に陥らない、冷静な論争が必要になる。

2004年4月16日 『朝日新聞』に掲載(全8回)

2004年4月27日掲載

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