経済論争 この10年

01 混迷の理由

小林 慶一郎
RIETI研究員

1990年代初めのバブル崩壊以降、日本は、長期不況に苦しみ続けた。その中で、経済政策を巡る経済学者、エコノミストの議論もまた混迷を極めた。

長期不況の犯人として、デフレ、不良債権、構造問題、需要不足など、様々な容疑者の名前があがった。不況脱出の手段についても、「公共事業を増やせ」「日銀が株を買え」「不良債権を処理せよ」と、議論される政策提言はまちまちだった。

最近、景気回復の傾向が強まり、経済政策論争は一時ほど世間の注目を集めなくなってきたが、論争自体は決着したというにはほど遠い状況にある。「結局、これまでの経済論争は何だったのか」と感じる人も多いだろう。

なぜ経済論争は混迷するのだろうか。

第1の問題は、経済学が、自然科学や医学に比べて、まだまだ未成熟な科学であることだ。

景気を論じるマクロ経済学は、「ケインズ経済学」と「新古典派経済学」の2つの学派が争い、真に統合された科学になりきれていない。経済理論の分野では統合が進んでいるが、こと現実の政策提案になると、2つの学派間で大きな亀裂があらわになる。

ケインズ経済学は、財政政策と金融政策を使って政府・日銀が景気をコントロールできると考え、大きな政府を容認する。新古典派は、財政金融政策の有効性を疑問視し、構造改革や小さな政府を志向する。

論争の対立点、たとえば「赤字国債を発行しての景気刺激策か、それとも、規制緩和による構造改革か」という問題は、その多くが「ケインズ派か、新古典派か」という対立に還元できる。

第2の問題は、日本では「市場経済」への不信が社会に根強いことだ。

不況とは、市場経済システムがかかる病気なのだから、不況を論じるためには市場経済の仕組みを知らなければならない。ところが、日本の戦後インテリ層にはマルクス主義的社会観が根付いていて、市場経済そのものを拒絶する議論が影響力を持つ。すぐに「市場経済はダメだ」とあきらめて、「第3の道を探そう」ということになる。

さらに、経済論争は、科学的な方法論の議論に収まらず、どうしても論者の価値規範を反映してしまう。

公共事業による景気対策で不況を脱却すべきだ。そんな政策提案の陰に隠れているのは、政府と民間はどう向き合うべきなのか、という価値判断であるかもしれない。

不良債権問題を解決するとき、銀行、借り手、預金者・国民がどのように損失を分担すべきか。答えを出すには、失敗の責任をとることについての社会規範が確立していなければならないだろう。

バブル後の論争の多くが鋭く対立し、結論がでない原因は、根本的な社会の価値規範、つまり、どのような社会をつくるべきかについて、国民的合意がなかったからともいえる。

不良債権、デフレ、財政再建などこの10年余の経済論争は、私たちに何を問いかけてきたのか。これからの日本の行方に、どのような影響をもつのか。議論の対立点を整理しながら、ひもといてみる。

2004年4月8日 『朝日新聞』に掲載(全8回)

2004年4月27日掲載

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