格差問題が大きく取り上げられる中で、市場競争やグローバル化に対する批判が盛んである。
市場競争を擁護する経済学者や企業経営者の議論と、市場競争を批判し格差解消を訴える論者(社会学者、政治学者、評論家ら)の議論が、どうもかみ合っていない印象を持つのは筆者だけだろうか。
経済学者が描く市場競争のイメージは、価格の値下げ競争であり、価格というシグナルのもとで、人々は自由に商品やサービスを生産し、交換する。お互いの活動を邪魔しあう「争い」というイメージはない。価格による競争は、資源や人材の最適な使い方に導き、社会の厚生を最大にするというのが経済学者の信念である。市場経済の中で、個人や企業が自己利益を最大にするように競争すると、「神の見えざる手」に導かれ、結果として社会の公益に貢献することになる、というアダム・スミス以来の考え方だ。
一方、市場経済に批判的な評論家などの議論では、市場競争は弱肉強食のイメージで語られる。肉食動物のような企業が消費者や労働者などを獲物として狙い、だまし、とって食べる「生存競争」――それが市場での競争ならば、負けた方は耐え難い損失を被り、勝者のみが繁栄することになる。そのイメージからは、競争は社会全体の厚生を高めるという経済学者の議論は納得できない。
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市場競争について、どうして正反対のイメージができあがってしまうのだろうか。
答えは、経済学者と、市場に批判的な論者は、それぞれ市場経済の異なる側面を見ている、ということだろう。市場競争には、経済学者が言うような素晴らしい側面もある一方で、評論家が指摘するような負の側面(ダークサイド)もある。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校の経済学者だった故ジャック・ハーシュライファー教授は、市場競争のダークサイドが生み出される原因は、競争に使われる技術の違いであると指摘した。
市場競争で使われる、と経済学者が想定するのは、当然、生産技術である。原料を加工し、部品を組み立てて製品やサービスを作るのが生産技術である。さらに、商品やサービスを消費者に行き渡らせる技術も生産技術に入れて良いかも知れない。
一方、経済活動の中には、生産とは無縁な技術も存在する。社内の権力闘争で勝つ技術、顧客の無知につけ込んで不必要な商品を売り込む技術、政治家に取り入って利益誘導(レントシーキング)をする技術......。ハーシュライファーは、これらをまとめて闘争技術と呼んだ。それは資源を無駄に消耗し、社会全体としては損失しか生まない。既に存在する資源を、ただ単に他者から奪い取る技術が闘争技術なのである。
市場経済に批判的な論者は、この闘争技術の弊害を問題視しているのではないか。
現実の経済社会には、生産技術と闘争技術が混在し、企業も個人も状況に応じてそれらを使い分けている。議論がかみ合わない大きな理由は、現在の標準的な経済学では、生産技術以外の技術がまったく無視されていることだ。
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格差論議など最近の経済を巡る論争が提起しているのは、市場で闘争技術が使われること害悪の問題といえるのではないだろうか。
だとすると、生産技術のみを仮定した経済学の議論では説得力のある反論にならない。闘争技術を分析対象に加えた新しい経済学を作る必要があるのかも知れない。
政治の意思決定や行政プロセスを経済学的に分析する「公共選択論」という分野は以前からあった。そこでは政治や行政の場での闘争技術が経済学的に分析されている。しかし、市場経済活動の広い範囲で闘争技術を分析する経済学はまだない。
格差論争自体を一種の闘争活動と見ることもできる。過去10年の企業のリストラによって生活水準が下がった人々にとっては、現在の格差論争は政治的闘争だ。
ハーシュライファーによれば、持たざる者にとっては生産活動にいそしむよりも、政治的な闘争に参加する方が合理的な選択肢になる。自分で生産できるものはたかが知れているが、闘争によって政府の再配分政策を変化させ、利益を手に入れることができればずっと割が良い。かくして、格差論争に多大な時間とエネルギーと才能が費消される。
こうした分析は、再配分政策に新しい意義を与えるかもしれない。再分配政策は、一般に、効率を犠牲にして公平性を高める政策だと言われる。しかし、競争のダークサイドを考慮するならば、再分配で格差への不満を解消することは、格差をめぐる政治的闘争に資源が費消されることを防ぐ。それは、社会全体の効率を高めるうえでも望ましいのかもしれない。
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2007年8月18日 「朝日新聞」に掲載