アジア危機10年後の教訓 IMFの監視機能強化を

伊藤 隆敏
ファカルティフェロー

アジア通貨危機は、国際通貨基金(IMF)の対処が厳しすぎ、対策や見通しが誤っていたことで拡大した。一方、その後の通貨危機では融資条件が緩く、モラルハザード(倫理の欠如)が生まれた。IMFの役割としてはサーベイランス(監視機能)を強化する方向が望まれる。

問題起きる共通の素地

1997年から98年にかけて東アジアを吹き荒れた経済危機は、国際金融の歴史に名を刻む大事件である。ちょうど10年前の97年7月2日、タイバーツの変動相場(フロート)制移行から始まったアジア通貨危機は、その後の6カ月で、韓国も含むアジア全域に拡大。アジア経済だけでなく、政治体制にも大きな影響を与えた。

タイから周辺国への危機の伝播をなぜ食い止めることができなかったのか。10年を経過しても、政策担当者、学者の見解は一致していない。本稿では、日本経済研究センターが中心になって編集し、6月に刊行されたAsian Economic Policy Reviewで特集された「アジア通貨危機から10年」での研究成果も踏まえ、原因を改めて検証し、その教訓についても考えたい。

危機前のアジア経済には、通貨危機を誘発するような共通の素地があった。すなわち事実上のドルへの固定相場制(ドルペッグ)、銀行など金融機関のバランスシートに満期と通貨の大きなミスマッチ(ダブルミスマッチ)と、巨額の短期資本の流入の存在である。

タイでは経常赤字幅が国内総生産(GDP)比で8%と巨大だったが、資本流入がそれを上回り外貨準備が増加。一見健全な経済のように見えていた。タイの通貨危機はその短期資本が急激に流出したために起きた資本収支型だったといえよう。

一方、各国間での相違点もある。タイの通貨危機が外国のヘッジファンドや金融機関など投機筋による通貨投機であったのに対し、他国ではヘッジファンドの影響は限られたものだった。インドネシアでは、居住者による資本逃避が他国よりも大きかった。また、同国では、IMFの融資条件(コンディショナリティー)により通貨危機が政治危機に発展し、大統領の辞任につながった。

経済構造でなく流動性が引き金

また、韓国の通貨危機は外国の銀行による韓国の銀行に対する貸し出しの引き揚げ(ロール・オーバーの拒否)が大きな要因であり、これに伴う財閥の再編も起きた。

タイ、インドネシア、韓国いずれもIMFの実質的な融資総額は危機の増幅を食い止めるには不十分だった。タイの危機では、IMFと東アジアの国が協調融資を行い、IMFの融資制限を超える融資を実現したが、それでも市場の信頼を回復するだけの必要額には達していなかった。

特に、172億ドルにのぼるIMF・アジアの協調融資パッケージ実施の表明と同時に、中央銀行が負う将来のドル売りポジションが234億ドルもあることが発表され、IMFプログラムが市場での信頼の回復(バーツの増価)につながらなかった一因になった。韓国やインドネシアの場合には、IMF以外の国の融資約束は、「第二線準備」と位置づけられて、見せ金的なものであることが市場に見破られて、市場の信頼回復にはつながらなかった。事実、第二線準備は1ドルも実現しなかった。

IMFは、タイの通貨危機の可能性が高いことは予知していたが、タイが為替制度の弾力化のアドバイスを聞きいれず、外貨準備が枯渇するまで通貨防衛を試み大失敗した。半面、インドネシアや韓国では、通貨危機が深刻化する直前までは、IMFも市場も危機の可能性があることには気づかなかった。タイの通貨危機が早期に収拾されなかったことによる危機の伝播が起きたといえる。

インドネシアでは11月のIMFの融資条件にあった16銀行の閉鎖と預金のカットが金融不安を悪化させた。12月に韓国が危機に陥ったときは、IMFが融資の制度を変更して融資限度をそれまでの融資額の5倍から20倍に引き上げた。ようやくIMFが大規模な流動性供給による国際的な「最後の貸し手機能」(LLR)に目覚めたといえよう。だが、この金額でも国際金融市場の不安を払拭することはできず、最終的には12月24日に、韓国に対する貸し手の銀行(先進国)に対して融資残高維持をG7とIMFが説得するという異例の対応でようやく危機は収拾に向かった。

これは民間に貸し手責任を問う新しい手法であり、結果的に成功した。韓国はその危機の発生の状況(マクロ経済は良好だった)、危機の収拾の仕方(融資残高維持の要請)、その後の経済急回復からみて、危機の原因が、経済構造に本質的な問題があるのではなく、貸し手が同時にパニックに陥り、融資引き揚げたことによる「流動性の危機」であったといえる。

危機の後、インドネシアを除くアジア各国の経済は、99-00年に急回復、その後も順調な成長を続けている。一方で、世界的には資本収支型の通貨危機は続いた。98-99年にはブラジル、01年にトルコ、01-02年にはアルゼンチンが通貨危機に見舞われた。

興味深いのは、これらの危機では、アジア通貨危機に比べて、IMFが方針を変えたとみられる点だ。すなわち、アジアの国に対して変動相場制を推奨していたのとは対照的に、これらの国の固定相場制度(トルコはクローリングペッグ)を守るために1回目の融資を行っている。

組織的な矛盾も露呈する結果に

固定相場制度堅持は根本的に無理であると考えられていたにもかかわらず、「まず切り下げ」という強い改革条件をつけなかったことに、意外に思った政策担当者や経済学者が多い。当時IMFは、アジア通貨危機の経験にかんがみ、急激な通貨の下落は融資を受ける国の銀行危機を招きやすく、また融資を受ける国の意向を尊重しないとコンディショナリティーを守れないと考え、固定相場制度を容認したと説明していた。

ところが案の定、これらの国は、数カ月後にIMFプログラムが破綻、切り下げを余儀なくされた。最初のIMFのプログラムによる融資は、単に投資家にその国からの逃避の時間を与えたに過ぎない。アジアの国々に対するコンディショナリティーの厳しさに比べると、ポストアジアの国々への対応は確かに甘かったように見える。IMFが学んだアジア通貨危機の「教訓」は間違ったものだったといえよう。

基本的には財政赤字がなく、健全なマクロ経済を保っていたタイを除くアジアの国には厳しい融資条件を課し、基本的なマクロの問題が山積していたポストアジアの通貨危機には融資条件を緩めるというはまったく対応が逆であった。貸し手と債務国双方にモラルハザードを引き起こした。国際通貨体制を考えるとき、なぜIMFがポストアジアの通貨危機で、モラルハザードを引き起こしてまで条件を緩めたのか、という政治経済学を考えることが必要だ。

アジア通貨危機から10年を経て、東アジアの危機経験国は、再び高い成長を実現している。さらに、経済改革が進み、危機の前に比べて経済構造、特に金融部門の体質も強化された。各国とも危機の翌年以降、経常収支の黒字が保たれ、外貨準備は、これまで考えられていた基準からは十分すぎるレベルである。二度とIMFの世話になりたくないという意識から各国は外貨準備の積み上げに走っているといえそうである。確かに、今後、アジアでは外貨準備不足に起因する通貨危機に陥る可能性は低い。

さらに、アジア危機やそれ以降の通貨危機に見舞われた国も、トルコを除き、IMFの借入金をほぼ返済し、IMFは支出をカバーする収入(貸し出しによる金利収入)を得られなくなった。

通貨危機のない世界ではIMFは不要なはずだが、通貨危機をなくすためにはIMFは必要ともいえる。そもそも危機を未然に防ぐとIMFは収入がなくなってしまう。こうしたIMFの組織的矛盾も露呈している。

今後のIMFは、各国のマクロ経済政策が地域的、世界的な面で見て、中期的に維持できるようなサーベイランスを存在意義とすべきであると思われる。

2007年7月11日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2007年7月31日掲載