円ドル相場が85円台を付けた8月以降、ニュースやさまざまな紙面で円高が話題となっている。戦後の円ドル相場の最高値は1995年4月に付けた79円75銭だが、現在の相場水準はそれに迫る勢いとあって、政府に迅速な円高対策を要求する声も高い。しかし、そもそも1ドル85円は連日騒ぎたてるほど極端な円高水準なのだろうか?
為替相場の判断基準は米ドルだけではない
財務省が7月に公表した平成22年度上半期の貿易統計によると、対米輸出額は輸出額全体のおよそ15%を占めるにすぎず、対米ドルの為替相場水準だけで円の為替相場を判断するのはバランスを失する。そこで、日本との貿易関係が強いさまざまな国との為替レートを貿易取引のウエイトで加重平均した実効為替レートの推移と比較してみよう。グラフ1は、1990年1月から2010年7月までの円ドル為替相場と名目、および実効為替レートを表したものである。これを見ると、名目実効為替レート指数は1995年4月の史上最高値を付けた時期の水準よりも円高に推移している。しかし、各国のインフレ格差を調整した実質実効為替レート指数を見ると、当時と比べて現在の85円は約25~30%の円安水準であることがわかる。すなわち、実質的には現在の円相場水準はそれほど極端な円高ではないということだ。
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さらに、前述の貿易統計によると、対アジア輸出は全体の約56%を占めており、日本にとっては対米ドル相場のみではなく、対アジア通貨に対して円相場がどのように推移しているかを注視することも重要である。グラフ2は、経済産業研究所(RIETI)で公表されているAMU乖離指標である。これを見ると、確かに円のAMU乖離指標は2008年9月のリーマンショック以降プラスに転じ、東アジア通貨の中で上位の通貨となっているが、基準年(2000年~2001年)と比較すると10%ほど円高になったに過ぎず、直近の水準は2009年1月に1ドル90円を割り込んだ時期と同程度の円高水準であることがわかる。
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したがって、今後の政策論議を対米ドルの名目為替相場だけで語るのは不十分である。中長期的な視野に立てば、実体経済や貿易構造に影響を与える実質実効為替相場を注視すべきであるし、多くの日本企業が生産拠点を展開する東アジアの国々との関係を重視するのであれば、東アジア通貨と比較可能なAMU乖離指標などを参考にして為替政策を考えるべきだろう。
日本企業はなぜ円建てで輸出しないのか?
そもそも、円高がただちに経済的、政治的に問題になるのは、多くの日本企業が米ドル建てで輸出をしているためである。もし円建てで輸出していれば、少なくとも短期的には、円高でも業績に影響がでないはずであろう。日本は先進国であり、日本円は国際通貨であるにもかかわらず、なぜ日本企業の円建て輸出が進んでこなかったのだろうか。
日本企業の貿易建値通貨(インボイス通貨)選択の要因についてインタビュー、およびアンケート調査を行った伊藤、鯉渕、佐藤、清水(2009, 2010)は、日本の主要輸出企業の代表的なインボイス通貨選択に影響を与える3つの特徴を明らかにした。
第1は、大企業を中心に行われている企業内貿易である。大半の主要輸出企業は主要な海外市場に海外現地法人を設立しており、日本からの輸出はこうした海外現地法人向けとなる企業内貿易が占めている。日本の本社は海外現地法人との取引を輸出相手国通貨建てにして、為替リスク管理体制の整った本社の財務部にグループ企業内の為替リスクを集約することを基本方針としている。第2に、電気機器産業を中心として構築されたアジア地域の生産拠点である。これらの生産拠点はアジア地域以外の市場、特に米国市場への輸出拠点にもなっている。アジア生産拠点から米国への輸出は主に米ドル建てで取引されている。そこで、日本とアジア生産拠点との取引も米ドル建てで行うことによりアジア生産拠点の為替エクスポージャーを可能な限り相殺し、日本の本社に為替リスクを集約する方針を持っている。第3に、輸出する財の競争力である。差別化された財を生産し、世界市場で支配的なシェアを獲得している競争力の高い輸出企業は、先進国向け輸出においてさえ、円建て取引を希求する傾向が顕著である。
グラフ3は、アンケート調査の回答結果に基づいて、日本から各国・地域向け輸出に占める円建てインボイスのシェアを示している。輸出先別に示された数値は、全回答企業、回答企業の連結売上高を基準とする大規模企業(上位3分の1)および小規模企業(下位3分の1)の回答の平均値をそれぞれ示している。このグラフからは、全ての国・地域向けにおいて、大規模企業の円建てシェアは小規模企業を大きく下回っていることがわかる。取引コストの低い主要通貨を持つ先進国向け輸出においては、円の代わりに相手国通貨がインボイス通貨として選択される一方、アジア向け輸出においては取引コストの高いアジア現地通貨はほとんど選択されず、第三国通貨の米ドルが円と拮抗あるいは凌駕するシェアを占めている。これらの回答結果は、日本のインボイス通貨選択が大規模な輸出企業の特徴に由来するものであることを強く示唆している。また、企業内取引を行っていない小規模企業は総じて大規模企業より円建てインボイスの比率が高いが、海外現地法人向け輸出が多い大規模企業は円建てインボイスにこだわらない、という企業規模による明確な違いが読み取れる。
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政策インプリケーション
以上の研究結果は、グローバルな生産・販売ネットワークを構築している日本の輸出企業が、自らを取り巻く環境を所与として明確な為替戦略に基づいた合理的な判断の結果として、円建てではなく米ドル建てを選択している、ということを示している。日本の代表的な輸出企業にとって、円建て、米ドル建ては単に本社が為替リスクを負うか、子会社がリスクを負うかの違いであり、連結ベースでの為替リスク管理は徹底していると考えられる。
したがって、(9月3日)現在の「円高」に直面して政府がすべきことは、短期的に円高を阻止する介入の検討ではなく(今後の相場展開では必要となる場合もあるが、それはいくつかの条件がそろったとき)、長期的に日本経済が円相場に振り回されない環境を創出する政策を明確にすることである。具体的には、世界に冠たる技術を持って円建てで貿易する企業の育成を図るとともに、円高でも円安でも業績が影響されないようなグローバルなビジネス(海外生産、海外販売、輸出に見合う輸入、為替リスクのグローバル管理)の構築を支援するため、日本企業が効率的な為替戦略を遂行できる自由な市場環境を整備することである。昨今の円高による海外生産拠点移転の増加が日本国内の産業の空洞化を招くことも危惧されているが、グローバルなビジネス展開は(企業にとっては)必ずしも成長の阻害要因ではない。確かに、国内のビジネス比率は低下するが、それが失業率の上昇に結びつくというのなら、人材、特に若年層能力のグローバル化も視野に入れた教育政策も必要となってくるだろうし、国内からの輸出が不利にならないように、自由貿易協定(FTAまたはEPA)の早期締結により貿易相手国の関税を引き下げることを目指すべきである。