青木昌彦先生追悼コラム

青木昌彦先生の思い出

伊藤 隆敏
ファカルティフェロー

青木先生の比較制度の経済学の分野に関する業績、中国の経済学者との交流については、マスコミや経済学者の多くの方がコメントされているので、ここでは省略して、日米の経済学者交流、日米の学界への貢献について、思い出を記しておきたいと思います。

私が大学生(1970年代はじめ)のころ、ミネソタ大学でPhDを取得された青木先生は、スタンフォード大学やハーバード大学で教鞭をとられたあと、京都大学に戻られた時期でした。『組織と計画の経済理論』(岩波書店、1971年)を出版されて、理論経済学者として名声を高めつつありました。私からみると、当時アメリカでPhDを獲得して世界的な舞台で活躍する数名の経済学者の1人で、雲の上の存在でした。

その後、私がハーバード大学でPhDを取得して、ミネソタ大学で助教授として研究教育をするようになり、青木先生と時差をもつものの接点ができました。ハーバード大学でもミネソタ大学でも、青木先生の名声を聞きました。日本人でもアメリカの大学で教える人生の先達がいることを感じることができたのは幸運でした。その後、青木先生が開拓した日米を行ったり来たりしながらネットワークを広げて、研究の幅をひろげていくという人生のスタイルを、自分が踏襲することになりました。

青木先生は1980年代はじめに京都大学とスタンフォード大学を行き来しながらの研究をされていたと思います。私がミネソタ大学の助教授でありながら、1年間(1984-85年)の研究奨学金を得て、スタンフォード大学に滞在したときに、ようやく親しくお話する機会に恵まれました。1年間、研究の討論とともに、家族ぐるみのお付き合いをさせていただきました。それ以降、折にふれて、御指導いただきました。

青木先生の学界への貢献の1つが、Journal of the Japanese and International Economiesを1987年に創刊させたことでした。当時、経済力をつけてきた日本経済へのアメリカの学界での関心を捉えて、日本経済研究を推進するためのすばらしいイニシアティブとなりました。アメリカの学界における学者の価値は、専門雑誌(ジャーナル)への論文発表によって決まるといっても過言ではありません。総合論文数、特にランクの高いジャーナルへの論文数や、その論文が引用された回数で、学者の業績を客観的に計測する、というのは理科系に始まり、経済学にも応用されるようになっていました。このようなアメリカの学界での掟(ルール)を踏まえて世界で戦うには、日本人には発表の場が少ないというハンディがありました。日本経済に関する研究がたとえ英語で書いても、さまざまな理由でなかなか一流の論文には載らなかった時代です。それならば、欧米の基準からみても優れた業績ならば掲載されるという雑誌を作ってしまえ、というのが青木先生のお考えであったと思います。これは、学界への貢献としては、非常に大きなものであったと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

2015年7月22日掲載

2015年7月22日掲載