日銀当座預金残高の目標額の未達や引き下げは、金融引き締めへの政策転換という印象を与えよう。デフレ脱却に向けての強い決意を引き続き示しつつ、「札割れ」の頻発に対処するためには、金融政策の目標を量的緩和の指標から物価安定数値目標に切り替える必要がある。
残高目標の下げ 引き締めの印象
日本銀行の量的緩和政策が転換期を迎えている。政策目標である日銀当座預金残高30兆-35兆円の維持のためには、日銀が債券市場で政府の短期債務を入札購入して、マネタリーベースを大量に供給し続ける必要がある。ところが、「札割れ」を頻発している。思うように短期債の買い入れができない、つまり流動性を供給できないので30兆-35兆円の残高維持も難しくなってきたのではないか、といわれている。
そもそも日銀の当座預金は金利がつかないので、金融機関は本来、強制的に預けさせられる必要準備額(保有預金の一定比率、約5兆円)を超えて預けるインセンティブはないはずである。金融機関が必要準備を上回る当座預金を持つ(超過準備)ということは、他に良い資金の運用先がなく、金融機関同士の貸借(コール市場)でもほとんどゼロ金利となっていることを意味する。
次のような意見を最近よく聞く。札割れを起こすのは、金融機関が豊富な流動性を必要としなくなっていることの証左であり、粛々と目標残高を下げていけばよい。つまり、日銀当座預金残高を引き上げての流動性供給は「金融システム安定」のために行ったもので、いまや不良債権処理は峠を越え、金融システムは十分安定したので、超過準備は役割を終えたという見方である。
しかし、これは正しくない。30兆-35兆円の日銀当座預金残高は、そもそも「金融政策」として金融政策決定会合で決定してきたことである。決して金融システム安定だけのためではない。したがって、日銀当座預金残高の目標額の引き下げ、あるいは実績が目標を下回るようなことが続けば、これは金融引き締めの第一歩であると理解されたとしても仕方がない。
30兆-35兆円を20兆円にして、10兆円にして、最終的に5兆円(必要準備)まで引き下げて、それから政策手段を金利に戻して、いったんゼロ金利政策として、次に金利を引き上げるという道筋が見えてくる。景気は踊り場であり、潜在成長率を上回る成長が見込まれているわけではない。物価も、わずかではあるが下落し続けている。したがって、どのような経済理論からみても、現在、金融引き締めを始めるタイミングとは思えないのに、将来の金利引き上げを見越して、いま引き締めをしなくてはいけないことが問題なのである。
日銀は2003年3月に福井総裁が就任してから10カ月のうちに、日銀当座預金残高目標を4回も引き上げ、30兆-35兆円とした。この背景を思い出すことが大切だ。03年春は、株価が日経平均で8000円を割りこむなど、経済が危機的な状況に陥っていた。そのうえ外国人投資家による円買い圧力もあり、不況下の円高を阻止するため、財務省は躍起となって外国為替市場への介入を実施していた。
当座預金残高目標の引き上げは、為替介入を非不胎化するというシグナルでもあり、金融緩和の決意を示したものとして市場から歓迎された。また、少し景気が良くなったからといって、すぐには金利を上げないというシグナルとしても重要な役割を果たした。
さらに03年春から秋にかけて、福井総裁が講演などで、量的緩和施策の終結までは非常に忍耐強くなるという発言を繰り返して、日銀のデフレ脱却への決意を市場に送った。直接的には言わないものの、「2000年8月に行った、デフレ下の金融引き締めの愚を繰り返さない」というメッセージか込められていると受け取られた。こうした日銀の力強い姿勢が市場に安心感を与え、03年後半から04年初めにかけての急速な景気回復に貢献したことは間違いない。
量的緩和の効果について懐疑的な人たちは、「ゼロ金利のもとでは、非不胎化介入も不胎化介入と同様に効果がない」とか、「マネタリーベースを増やして超過準備を持たせても、マネタリーサプライが増えなくては経済活動に働きかかる経路がない」などと冷ややかに見ていた。しかし、巨額の超過準備になるほどの流動性の供給は、さすがに証券投資や実物投資でリスクをとる行動を促したと思われる。そして何より、ゼロ金利がかなりの期間継続するということを市場に信じさせた。
札割れ対処に 3つの選択肢
そこで、札割れの頻発にどう対処するべきかを考えてみよう。札割れを受け入れると、金融引き締めに転じたとの印象を与えることになるであろう。そうしないための金融政策手段として次の3つの選択肢がある。
第1に、金融緩和のシグナルを送り続けるために、30兆-35兆円の当座預金残高を死守する。そのために、長期国債、その他の債券の購入増額を考える。第2に、30兆-35兆円を掲げ続けるが、その達成を容易にするために、当座預金に日銀が利息を払うようにする。第3に、金融緩和のシグナルとしての量的緩和に代えて、物価水準目標を明示的に導入する。
第1の策では、01年10月以来据え置きになっている月額1兆2000億円の長期国債購入を増額することが考えられる。さらに長期国債以外の、社債や不動産投資信託(REIT)、株価指数連動型上場投資信託(ETF)などリスクを伴う債券の購入も考えられる。これにより長期金利を低めに保つことができるうえ、リスクのある債券の価格上昇につながる。したがって、この選択肢は景気に対して一番刺激的である。
しかし、このような買い入れ債券の多様化あるいは長期国債の購入増額は、景気が悪かった03年の春にも行っていない。現在のような景気の踊り場、かつデフレ幅が縮小しているなかで、日銀が決断するとは思えない。
当座預金に利息 シグナル不明に
第2の策の日銀当座預金への付利は、一般的ではないが、ないわけではない。余剰資金を日銀に預けるインセンティブが高まるので、当座預金残高の目標維持は容易になる。こうして、デフレからの脱却がはっきりして金融引き締めの時期がくるまで、30兆-35兆円を維持することは可能になるだろう。しかし、当座預金への付利により30兆-35兆円を維持していることが、量的緩和の継続としてのシグナルを出し続けることになるかどうかは、確実ではない。
第3の策では、デフレ脱却のための決意を示すシグナルを、量的緩和の指標から、「物価水準数値目標」にシフトし、デフレ脱却に向けてのコミットメント(約束)を強める。量的緩和は、金融引き締めのタイミングを通常よりも遅らせることにコミットしているというシグナルではあるものの、日銀がどの程度のインフレ率を物価安定と考えるかの具体的なコミットメントとはなっていない。
日銀にとってデフレ脱却に向けての一番強いコミットメントは、具体的な数値を掲げて物価安定を定義し、その目標の達成期限を明示することである。目標のインフレ率(例えば1-3%)と定義して、その達成期限(例えば06年度末)を明示すれば、その過程で当座預金残高を減額しても、市場から引き締めの第一歩とは受けとられないであろう。
現在の量的緩和からの「出口」の必要条件は、過去数カ月のインフレ率(生鮮食品を除く消費者物価指数の変化率)が平均でゼロ%を超え、政策委員の大多数が将来もデフレに逆戻りすることはないと判断する、というものである。しかし、インフレ率がゼロ%を少し超えただけで金融引き締めを開始するのだろうか、あるいは、中期的な目標はプラスではあってもゼロ%に近いような低位の数字なのだろうか、などと「出口」後の政策運営については様々な疑問がわく。
このような量的緩和からの「出口」後の金融政策運営を明確にしなければ、札割れによる当座預金残高の減少が金融引き締めの開始と受け取られる、という問題が発生する。このような問題を解決する切り札が、物価安定数値目標の導入なのである。
2005年3月29日号 日本経済新聞「経済教室」に掲載