円ドルレートは、2012年の1ドル/=約80円から最近では約120円へと、第2次安倍晋三政権の下で5割円安になった。米国以外の主要貿易相手国も対象として物価変動による競争力変化を考慮した実質実効為替レート(国際決済銀行作成)で見ると、円は現行の変動レート制に移行した1973年2月以降、最も安い水準にある。歴史的円安と、これに寄与したアベノミクスをどのように評価すべきだろうか。
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円安は日本で生産された財(サービスを含む)を割安にし、内外の需要を外国財から日本財にシフトさせ、国内の需要不足解消と国内総生産(GDP)の拡大をもたらす。ただ、このメカニズムの実現には時間を要する。また後述するように、貿易構造の変化などによって円安が国内生産を拡大する効果は弱まっている可能性が高い。それでも、十分な円安が日本の需要不足解消に寄与することを疑う経済学者はほとんどいない。
GDPギャップに関する内閣府推計によれば、日本は現在、GDP比2.7%(14兆円)の需要不足(供給過剰)が生じている。リーマン・ショック後の先進諸国の対応に見られたように、巨大な供給過剰に対しては迅速な需要創出で対応するのが世界の常識である。現在、物価や賃金の上昇が弱いことから判断しても、日本で生産された財に対する需要創出が必要なことは明らかであろう。
日本にとって輸出拡大が必要なことは、貯蓄投資バランスの動向(図参照)からも確認できる。日本では、企業部門の旺盛な貯蓄により民間貯蓄率が相変わらず高い一方、民間投資は低迷しているため民間の貯蓄超過が極めて大きい。ケインズ経済学が教えるように、民間の貯蓄超過が多額の場合、それに見合うだけの経常収支黒字か、一般政府赤字が生まれないと、現在の日本のように供給過剰とGDPの減少をもたらす。
(対名目GDP比率、4四半期移動平均)
日本ではリーマン・ショック以後、海外の景気不振と円高によって経常収支黒字が急速に減少した。このため現在は、図が示すとおり多額の政府赤字(アベノミクス第2の矢の財政政策)によって民間の貯蓄超過を吸収し、何とか需要を支えている。
しかし、政府債務の累積によって財政再建は待った無しの状況にあり、政府赤字は今後削減せざるを得ない。アベノミクス第3の矢である成長戦略が成功すれば、投資収益率上昇による民間投資拡大や、企業統治(コーポレートガバナンス)改革による配当性向引き上げや実質賃金上昇による消費回復を通じた民間貯蓄削減が見込める。だが、この効果で民間の貯蓄超過がすぐ大幅に減るとは考え難い。こうしてみると、日本は円安を通じた経常収支の大幅黒字化を、今後当分の間ぜひとも必要としている。
標準的な国際マクロ経済学(経常収支と為替レート決定に関する貯蓄投資バランス論)によれば、日本のように変動レート制を採用し国際資本移動が活発な先進国では、財の需要不足は実質金利を低下させ、通貨が安くなることで需要不足は解消していく。為替レートには自国財の需給調整機能がある。
過去20年間ほぼ一貫して需要不足に苦しんできた日本は、残念ながら為替レートのこの機能をほとんど生かせなかった。その原因としては、貿易黒字による経済摩擦問題や、金融緩和が不十分であったことが指摘できる。またリーマン・ショック後、他の先進国が一斉に金融緩和を進めた一方、日本は当初からデフレ下で名目金利がゼロの下限にほぼ張り付いていたため、内外金利差が縮小して円高が進んだことも指摘できる。
現在、米国が堅調な景気回復により量的緩和を解除したこと、および日本が貿易赤字国になったことで、日本は従来のような障害なしに為替レート調整を享受できる機会に直面している。このチャンスを逃すべきではない。
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それでは、12年末以降の円安下で、なぜ日本の輸出は拡大しなかったのだろうか。しばしば指摘されるように、(1)中国など新興工業国や欧州の経済停滞(2)自動車産業を中心に急速に進んだ生産の海外移転(3)日本からの輸出が汎用品からシステム製品・高品質製品に移行し、輸出企業全体が直面する需要において、その価格弾力性が低下したこと(4)自動車などのブランド品ではモデルチェンジをしないと現地価格を引き下げないこと(5)中小企業を中心とする生産性の停滞、などが指摘できよう。
10月の貿易統計では、現地販売価格の引き下げや輸出数量の増加など、円安による輸出持ち直しの兆しもみえてきた。また、旅行収支の黒字化などサービス貿易でも円安の効果が見られる。
人口減少による国内需要低迷の見通しのため、海外に生産を移転したトヨタ自動車など日系多国籍企業の大幅な国内回帰は難しいかもしれない。しかし、多国籍企業は生産・研究開発・本社機能などを世界の最適地で進める傾向を強めており、円安は日本の立地誘因を高める。また、生産を国内に残した素材・部品産業や中小輸出企業では円安の生産拡大効果が見込める。
円安は、輸入物価上昇による実質賃金の停滞や、輸入中間財を投入する企業の生産コスト上昇といった副作用を持つ。しかし、財の需要不足を解消するためにはやむを得ない。我々が恨むべきは、歴史的円安を甘受しなければ輸出を拡大できない状況を生んだ過去20年間の生産の海外移転や生産性上昇の停滞である。
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2%程度の物価上昇を継続することは、日本がゼロ金利の制約から解放され金融政策の有効性を回復する上で重要である。先にも述べたように、米国が景気回復で量的緩和を解除したため、日銀は一段の量的緩和で円安を進行させることが可能となり、この意味で金融政策の有効性は一時的に回復した。だが、米国の景気回復が続く保証は無いから、デフレ脱却を急ぐことが望ましい。
ただ、安倍首相の最近の記者会見からうかがわれる「デフレ脱却後はバラ色の経済状況が待っている」というような幻想は捨てた方が良い。
需要拡大に一時的に成功しデフレから脱却しても、堅調な需要が続く保証はない。デフレ脱却後は、ゼロ金利政策を続けることにより名目金利からインフレ率を引いた実質金利をマイナスとし、設備投資を促進する政策も可能となるが、マイナスの実質金利は無駄な設備投資や資産投機を拡大し、バブルと不良資産を生み出す危険が高い。需要の維持には、成長戦略を成功させて、国内の投資収益率向上を通じた民間投資促進や、家計の実質所得拡大を通じた消費刺激を進める必要がある。
財政への信認回復も急務となる。米プリンストン大学のポール・クルーグマン教授が指摘するとおり、デフレ下で日銀が国債を大量購入している限りは、財政への信認低下による日本売りは円安と緩慢な輸入インフレをもたらすだけであり、デフレ脱却の助けとなる。しかし、デフレ脱却後、ひとたび財政への信認が低下し日本売りが起きると、円安によるインフレ高進を抑制するためにも日銀は金利引き上げを余儀なくされる。これは国債金利を高騰させる危険を高める。このような状況で日銀が金融引き締めに躊躇すれば、円安と高インフレの悪循環に陥る危険も否定できない。
政府・日銀はデフレ脱却後に向けて、財政再建と量的緩和解除の工程表作成や、日本売り・高インフレ・国債金利高騰などに備えた危機対応シナリオを作成すべきである。
2014年12月11日 日本経済新聞「経済教室」に掲載