ディベート経済

経済学で何がわかるのか

小林 慶一郎
RIETI上席研究員

最近の経済政策では、経済学の枠外の問題が主要な争点になりがちだ。たとえば、格差問題では経済というより社会のあり方が問題になる。では、経済学では、何がどこまでわかるのだろうか。

効率性を高める基準だ

現代の経済学には、新古典派の経済学や、価格の改定が遅れがちになるという「価格の粘着性」を仮定したニューケインジアン経済学がある。いずれも人間や資源のもっとも効率的な使い方を探求することを目的にしている。

効率性を高める政策を考える際に経済学が提供する基準はいくつかあるが、その代表例は3つだ。

1つは「分業」の重要性である。経済学の創始者アダム・スミスは、ピン工場で工程を分業すると、生産性が飛躍的に高まったという実例を示した。工場、企業や家庭など、どんな人間集団でも分業することによって仕事の効率が高まることは普遍的な真実だ。製品開発と経理を同じ人がやっているような会社は効率が悪い。

次に、分業によって生産されたものが無駄にならずに社会全体に行き渡ることを保証するのが、いわゆる「市場原理」だ。自由な取引が保障され、価格に規制やゆがみがない完全な市場では、資源がもっとも効率的に配分される。これは「厚生経済学の第一定理」という名前で呼ばれている命題で、経済学最大の発見と言える。

この定理は、自由貿易体制の推進や、規制緩和や官業の民営化という政策の理論的根拠にもなっている。自由な市場メカニズムは、(条件が整っていれば)もっとも無駄の少ない効率的な資源配分をもたらす。だからこそ、世界に自由貿易を広げ、規制を緩和し、民間の自由な活動を広げるべきだ、という考え方が支持されるのだ。

しかし、現実の市場経済では完全な市場は実現できない。価格の粘着性や情報の非対称性などによって、「合成の誤謬」が起きることがある。たとえば、個々人が豊かになるために貯蓄すると、社会全体でものが売れなくなり、不況になって全員が貧しくなる、というようなことだ。合成の誤謬を解決するためには、財政政策や金融政策が有用になる。最近では、先進国と途上国の格差拡大は、金融技術の制約による合成の誤謬が原因だという理論もある。

公平性の問題は語れず

公平性や正義という概念に関わる問題になると、経済学は科学というより思想の色彩を強くする。

経済問題には、効率性と公平性の2つの側面がある。効率性については、現代の経済学の考え方はほぼ確立していて、異論は少ない。

一方、公平性の問題は数量で判断しにくい問題である。しかも、公平性を高める所得再配分の政策は、市場の効率性を低下させる。市場の効率性を犠牲にして、どの程度の所得再配分を行うことが望ましいか、という問題は、各人の正義感覚に大きく依存する。その結果、公平性をめぐる経済思想が並び立つことになる。

公平性の問題については、新古典派などの経済理論は多くを語ることができない。効率性を高めるために経済学が示した処方箋を、公平性の観点からも望ましいと強弁すると、多くの人の正義感覚に反するし、強い反発を招く。

また、経済学には、利己主義や拝金主義を唱道するというイメージもある。経済学は、性悪説に立って社会を考える。「仮に人間がすべて利己主義者だったとしても、市場経済があれば社会全体の厚生が高まる」ということを示すのが経済学だ。決して利己主義者や拝金主義者になるべきだ、と言っているわけではない。自分の所得を弱者のために寄付をする博愛主義者が増えれば、その方が公平な社会を作れることは明らかだ。

また、不二家などの企業不祥事や地球環境問題など、利潤最大化を目指す経済活動が大きな社会的弊害をもたらすことも、経済学が信用を落とす原因だ。

しかし、これらは、外部不経済の問題として経済学の体系で解決策を与えることができる。ただ、何が外部不経済問題を引き起こしているか、を経済学者があらかじめ知ることはできない。様々な社会問題が起きてはじめて、外部不経済の問題が認識されるわけだ。地球温暖化などその典型だが、問題が問題として合意されるまでに長い時間と労力がかかる。ここに難しさがある。

生活の知恵から政策技術へ

現代の経済学は、アダム・スミス以来、たかだか230年ほどの歴史しか持たない新しい学問だ。経済学が生まれたのと同じころに起きた産業革命で近代資本主義が始まった。そのため経済学は近代資本主義を擁護する学問と考えられがちだが、必ずしもそうではない。経済学の対象となる市場経済という仕組みは人類の歴史と同じくらい古いものだからだ。

近代の産業文明が始まる以前からある市場経済とは、広い意味で人間社会そのもののことだ。

「故事成語でわかる経済学のキーワード」(梶井厚志著、中公新書)は、古代中国の古典に題材をとって、経済学の様々な概念を分かりやすく説明している。

「他山の石」は分業と交易の重要性を示す故事で、「臥薪嘗胆」は、決意の強さを部下に見せることでやる気を高めるシグナリング戦略の実例だ。

最新の経済学のキーコンセプトが故事成語の中にあるというのは、目からウロコが落ちるような楽しさである。しかし、この本が示しているのはそれだけではない。経済学の対象は古代中国から変わることのない人間社会の普遍的な性質だ、ということなのだ。

人は誰でも生活していくうえで、家族や友人だけではなく、見知らぬ他人と何らかの交流をせざるを得なくなる。見知らぬ他人同士の交渉の場が「市場」であり、知らない人同士の間でのコミュニケーションや協同作業は、すべて市場経済活動だといってもよい。

見知らぬもの同士の交流を円滑にする生活の知恵が故事成語だとすれば、経済学はその生活の知恵を理論化し厳密化しようとする試みだと言えるかもしれない。最新の経済学用語が、故事成語の中に起源を持つのはもっともなことなのだ。 言いかえれば、分業や市場原理の重要性は古代中国でも現代の日本でも変わることのない人間社会の普遍的な教訓といえる。見知らぬ他人が人間社会を作っている以上、他人同士が交流する市場経済という仕組みはなくならない。

規制緩和や民営化などの政策を考えるとき、それらは一時的な流行ではなく、人間社会の本質に根ざした政策課題であることを再確認することは重要だ。

一方、財政政策や金融政策といったマクロ経済政策の分野では、経済学の役割についての合意はなかなかできないようだ。米国ハーバード大学のグレゴリー・マンキュー教授は、過去半世紀のマクロ経済学の発展を振り返って次のように批判した。マクロ経済学は、理論の厳密化に傾倒しすぎて、現場で役立つ政策技術としての有用性は半世紀の間ほとんど高まっていない、と。

古来の生活の知恵をいかにして科学的な政策技術にまで高めるか。これからの課題も大きい。

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2007年2月26日 「朝日新聞」に掲載

2007年6月18日掲載

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