ディベート経済

首相の保守思想と市場主義

小林 慶一郎
RIETI上席研究員

教育基本法改正案の審議が参院で始まり、安倍政権が掲げる保守政治が政策面でも本格化した。そもそも、安倍首相の保守思想は、経済政策における市場主義的改革と矛盾しないのか。論点を整理する。

従来型の価値観では相反

安倍政権は、憲法や教育の問題では、保守的なスタンスを取ると同時に、経済面では市場主義的な改革を続ける姿勢を示している。

この組み合わせは、従来の保守の枠組みでは理解しにくい面を持っている。

日本の保守思想は、市場主義と対立する傾向があったからだ。

安倍政権が目指すのは国民が郷土を愛する心と、国への誇りを持つことであり、そのために自主憲法を制定して、誇りを取り戻す必要があるということだろう。

言い換えれば、村落共同体の伝統的な価値観に基礎付けられた強い国家を目指す、ということだ。

しかし、伝統的な共同体の価値観は、市場の価値観とは、しばしば衝突する。たとえば、共同体は閉鎖的で、内部の調和が重んじられるのに対し、市場は誰でも参加でき、調和よりも競争の中でベストを尽くすのが美徳だ。

共同体的な秩序を壊し、市場の競争を持ち込む考えに反発するのが、従来の保守系政治家の大勢だった。その典型が外資に対する批判だ。過去10年、金融分野での護送船団行政の秩序が崩れ、外資への市場開放が進んだ。これに反対して、保守系の論客は愛国心に訴える議論を展開した。

構造改革は、米国が自国の利益を守るために日本に押し付けた、という議論だ。最近では、郵政民営化についても外資の陰謀だ、という説が流れた。

外国人嫌いは、どの国にもある共同体的本能といえる。そこに訴える外資陰謀説は、各国の保守派が多用する戦術だ。

市場は、外国人も含めて誰に対してもオープンでなければ、正しく機能しない。外資は日本人を雇うし、日本企業も刺激を受けて改革すれば日本の利益にもなるはずだが、そういう論理は共同体の価値観では受け入れ難い。

従来の保守派が改革に反対しがちだったのは、彼らが代表する共同体的価値観が、改革の思想を支える市場的価値観と相反する傾向を持っているからだ。

建前論だった「自由競争」

一方、保守と対立していた革新思想の側も、市場メカニズムに不信感を持ち、市場を嫌う点では変わらなかった。

マネーゲーム批判やハゲタカ外資批判ということでは、保守系の論客も革新系の論客も同じことをいっている。保守と革新(大きな政府による福祉国家を志向する社民主義など)は、どこが同じでどこがちがうのか。

保守が伝統文化や慣習に重きを置くのに対し、革新は独立した個人の理性の力を信奉する。

全然違うようだが、実は重大な共通点がある。それは、社会の運営の方法として、計画と統制による再配分が、市場メカニズムよりも優れている、と暗黙のうちに考えている点である。

従来の保守が共同体の伝統的価値観による再配分を望ましいと考えるのに対して、革新は、為政者(合理的で公正なエリート)の理性による再配分が望ましいと考える。だが、どちらも、計画と統制による再配分を志向する点では同じなのである。

計画と統制による再配分を求めるのが共同体的心性の本質だ。徹底した自由主義者だった経済学者ハイエクは、共産主義を評して「部族社会への先祖がえり」といったが、それは革新思想の本質に古い共同体的心性があることを看破していたからだ。

市場メカニズムには様々な欠点はあるが、それでも計画と統制よりは、市場での自由な取引によるほうが望ましい結果をもたらす、と信じるのが自由主義(または市場主義)といえる。

しかし、日本の政治思想の中では、自由主義の考え方は、保守でも革新でも、単なる建前のような扱いをされ、まじめに真正面から主張されることは少なかった。

自由主義は、市場の中での行動様式として、そもそも政治と無縁な市民生活の中にあったというべきだろう。それは、日本人のいわば生活の作法として定着しているが、政治思想として深められてこなかった。

改革路線との調和、歴史的な試み

これまで、真正面から主張されることのなかった市場主義の思想を、政治の中心に据えたのが小泉政権の改革路線だったといえる。

安倍政権は、この改革路線と伝統的な保守の思想を調和させることを目指そうとしている。

日本の政治の伝統ではこれまでなかった組み合わせだ。

しかし、米国や英国をみると、80年代の新保守主義路線に代表されるように、保守思想と市場重視の自由主義が強固に組み合わさった政治思想もありえることが分かる。

英米では、保守政治が守るべき伝統的価値とは「自由な市場社会」のことであるわけだ。英国には啓蒙主義や経験主義哲学の伝統があり、それを受け継いだ米国社会でも、自由な市場が社会の根幹にある。

計画や統制に流れがちな共同体的文化ではなく、自由と公正な取引を重視する市場を、保守政治が守るべき価値とすることができた点に、英米文化の強みがあったともいえる。

共同体も市場も世界中の国に存在するが、政治思想として市場主義的な考えが幅広い支持を受けた国は少なかった。大陸ヨーロッパでも、共同体主義を脱した政治思想は現れなかった。

戦後、ハイエクが自由主義の政治思想を「アメリカで始まった新しい文明」と評したように、市場を(保守)政治が守るべき価値と考える思想は歴史的に珍しい。だが、その思想がオープンな市場を支え、近代以降の世界の経済成長をもたらしている。

安倍政権の保守主義と市場改革の組み合わせは、日本が新しい政治思想に踏み出す歴史的な試みとなるかもしれない。

市場の競争は暴力的で、そのまま放置するとひどい結果をもたらす、という市場への不信感がこれまでの政治思想の前提にあった。

しかし、市場ルールがひ弱で未成熟だったり、政府の規制が競争をゆがめたりする社会でこそ、コネやわいろが横行する。

その結果、たとえばアンフェアな格差の固定化が生じる。厳しい競争社会では、成功者の子孫も能力がなければすぐに没落し、格差が固定化することはない。

市場の弱さと腐敗しやすさをよりよく理解し、市場を公正で力強いものにする改革思想を、保守政治が守るべき価値にできるか。安倍政権はそれを試されている。

これまで「市場の欠点を政府の介入と再配分によって正すのが政治だ」というのが、保守にも革新にも共通する認識だった。

これからは「市場自身の発展によって市場の欠点を正していく。それを助けるのが政治の役割だ」という認識を、保守と革新の双方の共通土台とする政治文化が求められているのではないだろうか。

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2006年11月27日 「朝日新聞」掲載

2007年6月18日掲載

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