ディベート経済

「脱デフレ」と残る課題

小林 慶一郎
RIETI上席研究員

政府の月例経済報告からデフレの文字が消えた。デフレ脱却宣言はなかったものの、「デフレは終息した」との判断は政府内で強まっている。何がデフレを終わらせたのか。デフレ再来を防ぐには。

改革後の景気回復で終息

デフレ(デフレーション)とは、商品やサービスの価格が全体として低下することである。日本では98年から10年近くデフレが続いてきた。いまでは不況とデフレは同義語のように使われている。デフレの終息は不況の終わりを意味すると受け取られがちだが、必ずしも2つは同じことではない。

不況は、経済の生産高が低下し、企業の倒産や失業が増える状況のことだ。経済の供給能力に対して、需要が小さすぎる状態と言い換えてよい。

これに対して、デフレとは、あくまで名目的な物価水準が低下することで、生産高や倒産や失業がどうなるかは関係ない。アメリカの経済学者によると、デフレの時期に生産が拡大した国の方が多い、という研究もある。

日本では、生産高は02年には回復しはじめ、倒産や失業も改善してきている。つまり、日本経済も物価以外の面では、すでに長い回復局面にあった。

この景気回復に引っ張られる形で、デフレ終息が数年遅れでついてきた。

つまり、景気が回復したからデフレが終わったわけだ。一時期よく言われていた「デフレを脱却できなければ、景気回復は実現できない」という主張は間違いだったということだ。

そして、景気が回復したのは不良債権処理などの改革が進んだからだ。海外への輸出など、需要が増えたことを景気回復の要因とする意見もある。しかし、それなら、90年代の公共事業で需要を増やしたのに景気が回復しなかったことを説明できない。やはり、改革によって金融不安が消えたために、景気が回復したのだろう。

デフレ脱却の主因は改革による不況脱出だった。つまり、ゼロ金利政策や量的緩和政策のような異例な金融緩和は、あくまでも補助的な役割しか果たさなかった。金融政策は、たしかにデフレが加速して経済が崩壊することを防いだかもしれないが、しぶといデフレを終わらせることはできなかった。

日銀の金融政策が重要に

しかし、日本銀行の金融緩和政策を重視する意見は根強い。いったんデフレになると、それを金融政策の力で終わらせることは至難の業だが、デフレになる前なら有効だ。これは経済学者のコンセンサスだろう。

ITバブルが崩壊した後の01年に、アメリカの連邦準備制度は、矢継ぎ早に金利を引き下げ、経済がデフレに陥るのを防止した。これは、90年代前半の日銀を反面教師として学んだ成果だった。

デフレになる前、あるいは、デフレから脱却した後に行うべき金融政策として、インフレ・ターゲット政策が経済学者の支持を受けている。インフレ・ターゲット政策とは、日銀が実現したい目標インフレ率(インフレ・ターゲット)を設定し、それを実現するよう金利の調節などを行うことである。

数年前までは、デフレから脱却するためにインフレ・ターゲットを設定するべきだ、という議論が多かった。

これは、デフレが不況の原因だという見方に立ち、景気を回復させるためには、日銀が極端な政策を行って、デフレをまず終わらせなければならない、とする意見だった。しかし、デフレより先に景気が回復したことで、こうした主張は尻すぼみになったようだ。

むしろ、今後の論点は、デフレ脱却後のインフレ・ターゲット導入の是非だ。

平時の経済では、理論的には、裁量的な金融政策よりも、明確なルール(インフレ・ターゲットなど)に従う金融政策の方が望ましい。また、インフレ・ターゲットを導入した国は、少なくとも今までのところ経済状況が比較的に良い。そのため、インフレ・ターゲットは経済学者に人気が高い。

90年代のアメリカで好況を支えたのは、緊縮型の財政政策と緩和型の金融政策の組み合わせだった、とも言われている。

デフレ後も、日銀は金融緩和の基調を続けざるを得ないかもしれない。

賃金や雇用 ゆがみ正し再来防げ

物価以外の面で景気回復が続いたのに、なかなか物価の下落は止まらなかった。また、景気回復が続いているといっても、実感が乏しく、経済成長率もさほど高くない。景気はいわば低空飛行だ。

こうした景気回復の弱さの背景にある問題は、賃金が上がらないことだ。

賃金が上がらないために、商品価格にも上昇圧力がかからず、なかなかデフレが終わらなかった。

また、賃金が上がらないことは、消費者の所得が増えない、ということでもある。そのため、消費が思ったほど伸びず、景気回復が力強さに欠ける状況が続いているのだ。

企業の収益が増えているのに、賃金が上がらない、という状況は、格差問題について大きな関心が集まり、論議が巻き起こった原因にもなっている。

景気の回復局面では、一時的に賃金の格差が広がることがある。だから、回復が続けば賃金も上がるはずだ、という見方もある。

しかし、かならずしもそのように楽観できない可能性もある。

筆者の研究によると、バブル崩壊以降、「労働投入のゆがみ」を示す指標が増え続けていることがわかってきた。これは賃金格差の拡大や、求人と求職のミスマッチが広がり続けていることを示している。企業の資金制約の強まりや、労使の力関係が変化したことなど、様々なが原因が考えられる。

心配な点は、労働のゆがみが拡大する傾向が、大恐慌後のアメリカ経済と似ていることだ。

アメリカの大恐慌も、日本のバブル崩壊後の不況も、株価の崩壊がきっかけで起きた大きな不況だった、という点でよく似ている。また、全国的な銀行危機が起きたことも共通の特徴だ。

最近の研究によると、大恐慌の時期のアメリカでも、この「労働投入のゆがみ」が悪化し、大恐慌の回復期になってからも、10年以上にわたって、この指標は悪化したままだったという。

日本の現在の景気回復が、アメリカの大恐慌の回復期とよく似た経過をたどるとすると、これからも「労働投入のゆがみ」は長く続く可能性がある。

大恐慌の後で労働のゆがみが、なぜ続いたのか。ニューディール政策で、労組の力が強くなりすぎて、労働市場の働きが阻害されたことが原因だとする研究者もいる。

日本の労働市場についても、非正規社員の問題など、様々なゆがみが出てきている。正社員の利益を守るだけでは、このゆがみは構造的に続くかもしれない。

景気の回復をもっと力強くし、デフレの再来を防ぐためには、市場の改革をさらに進めて、労働投入のゆがみを解消することが必要だ。それは、格差拡大の解決にもつながるはずだ。

筆者及び朝日新聞社に無断で掲載することを禁じます

2006年9月25日 「朝日新聞」に掲載

2007年6月18日掲載

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