あすへの話題

一心万宝

西水 美恵子
RIETIコンサルティングフェロー

国民投票を控えたブータンの憲法に、雷龍王四世即ち国王直筆の一条がある。「雷龍王は(中略)65歳にて退位とする」

国民は「永遠に玉座にとさえ祈るのに」と猛反対。ある農村の長老は「65歳をとうに超した私が現役だ。若すぎる」と怒った。しかし国王は淡々と説く。「憲法は民のため。100年先の国のため。王のために書くものではない。国家が喪に服すとき、王位継承はリスクを孕む。即位は皆が揃って祝える時が好ましい」。珍しく感情的になった某新聞の論説は「最も議論された一条が改訂不可能とは皮肉」と意見した。

地球の裏側にまでミエコ聞いたかと訴える友人たちに、ブータン人らしく落ち着けと笑った。「ブータンの政治改革は民の意識改革。リーダーの色に染まりすぎる欠点があるから、65歳でも遅いわよ」。冷たい人だと叱られた。冷たいのはどちら、王の身になってみろと怒った。「敬愛する父を失った悲しみのどん底で即位の祝いを受けねばならなかった、16歳の心を想え。大事の時に師と仰ぐ人を失った、若者の不安を想え。血の通う人間なら、我が子にあんな思いはさせたくないと考えるのが当たり前でしょう!」

そして昨年12月、建国記念日の祝典で、国王は「2008年に皇太子が雷龍王五世として即位する」と発表。65歳どころか、52歳で退位する決心を明らかにした。憲法発布で若返る国造りの節目にとの御意。衝撃に国民は言葉もなかった。「本物の指導者は、引き際を知り潔く去る。ご立派」と褒めて友人たちをまた怒らせた。

一心万宝。謁見を賜る度に思い浮かべる言葉だ。賢君の信念を継ぎ、民一心、世界の宝となる民主制の育成をと祈る...。

2006年12月16日 日本経済新聞に掲載

2006年12月16日掲載

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