ガバナンス・リーダーシップ考

特別編「ブータン王国に学ぶリーダーシップの形」(平成18年10月10日学士会館における講演の要旨)

西水 美恵子
コンサルティングフェロー

はじめに

ご紹介頂きました西水でございます。私は海外に長く滞在しているものですから、日本語については浦島太郎のようになっています。言葉に間違いがあると思いますので、前もって、ごめんなさいと申し上げておきます。

世界銀行は、ご存じのように、銀行の使命が貧困解消ですから、声なき貧しい人々のためになる政策をいろいろな発展途上国の指導者層にとってもらう。それを促すのが世銀の職員の仕事です。ですから、喧嘩が商売のようなものです。23年間おりましたけれども、私のように喧嘩好きな者には、本当にあっという間にたった23年間でした。
ただ、いろいろな国を担当しましたが、一国だけ、喧嘩したくてもできなかった国があります。それが今お話ししますブータン王国です。

ブータンという国、特に指導者層からは、喧嘩どころか、こちらがいろいろなことを教えてもらい、ブータンと出会って本当によかったと思っているのです。今日は、ブータンで会った指導者層の人々のロールモデルである、ブータン国王から学んだリーダーシップの理想像について、少しかいつまんでお話ししたいと思います。

ブータンの国土と人々の暮らし

皆さんご存じだと思うのですが、念のためにブータンについて少々説明させて頂きます。ヒマラヤ密教を国教とする仏教国で、人口は67万人ですから、人口から見れば小さな国です。地図上の平面の面積は、九州とほとんど同じです。ただ、実際にブータンに行きますと、北は中国、チベット、南はインドにはさまれている国で、南のインド国境は熱帯ジャングルで、海抜200メートルくらい、北はヒマラヤ山脈で、7000メートル級の山々です。その南北の直線距離はいちばん長いところでたったの200キロ。ですから非常に険しい山国で、ヒマラヤの氷河の融け水やモンスーンの雨を受けた激流が、とうとうと流れる国です。そういう川々が年月をかけて彫り上げた山と谷が、非常に複雑に組み合っています。
初めて国王陛下から謁見を賜った時に、陛下が「ブータンは小さい国だけれども」と言われたので、私は「陛下、それは違いますよ。ブータンの立体地図にアイロンをかけてごらんなさいませ。そうすれば、たぶんインドくらいの面積になるのではないでしょうか」と申し上げたことがあります。

国民平均所得という物的な経済指標から見ますと、決して豊かな国ではありません。今のところ、国民1人当たりの年間平均所得は10万円を切っていますから、そういう測り方では貧しい国に入ります。

3~40年前は、車道などない、電気も水道もない自給自足の物々交換が殆どの中世経済的な国でした。ブータンに行かれた方は、もうご存じと思いますが、今日では近代国家の形をなしているわけで、エコノミストとしてブータンを見た場合、驚異的な高度成長を短い期間で遂げた国と言えるのです。

その驚異的な近代化をリードした人が、現国王、ジグメ・シンゲ・ワンチュク王です。即位なさったのは1972年だったと思います。先代が急に心臓の病気で亡くなられ、16歳で即位なさいました。もちろん大学教育は受けられなかったのです。それどころか、小学校の頃、イギリスの寄宿舎制パブリックスク一ルに送られたのですが、数年でもう来なくてもよいと言われた「問題児」だったそうです。大喪の礼の折、初めて日本を公式訪問された時のテレビの映像で、凛としたお姿を思い出される方が多いでしょうが、実物はなんて言ったらいいのでしょう...まるで、「暴れん坊将軍」の新さんにそっくりな方です。(笑)それが皆様にお伝えしたいブータン国王のイメージです。

ブータンの王制

次にブータンの王制のことを少しお話しします。ブータンの王制の歴史は浅く、来年で100年になります。1907年に当時のブータンの指導者層が集まって、意図して世襲の国王制を国家の政治制度として選択したという史実があります。

その背景は2つあります。1つは17世紀、日本の江戸初期頃から、1907年(明治40年)まで、ブータンは1つの国としてまとまってはいましたが、いわば戦国時代のような時期でした。その理由は、チベットと同じように宗教政治で活仏が国を治めていましたから、お世継ぎ騒動などで、政治的に非常に不安定な状態が続いたこと。それからもう1つの背景は、19世紀の終わりから20世紀の初めにかける世界のジオポリティックス。大英帝国とロシア帝国が地球の面積を取り合う「大ゲーム」を盛んに行っていた頃で、ブータンはその真っ只中にいたわけです。大英帝国の支配がインドの南から北のほうにだんだんと競り上がってきた時代で、ブータンも1度、イギリスと戦争をしています。北方では、ロシア帝国がシベリアとチベットのほうに進出してきている状況でした。すでに、中国がチベットにいろいろな形で政治介入を始めた時代でもあります。そういうジオポリティックスを見極めて、ブータンが独立国として生き残るためにはどういう政治形態をとったらいいのかという指導者会議があって、世襲王制を選んだわけです。

一応選挙の形をとって国王第一世を選んだわけですが、戦国時代的な背景から頭角を現した豪族の1人、ワンチュク家の当主が、国王第一世に選ばれたわけです。第一世に関しては、歴史文書にもあまり残っていないのですが、私が勉強した限りでは、徳川家康にそっくりな人だったと感じます。

そういう背景から王制ができました。それ以来のブータンの政治の歴史は、絶対王制からゆっくり時間をかけて民主主義へと変わっていきました。その学習の道が100年間と考えるのが、最適だと思います。

民主主義への変化は、三代目である、現国王の父君の時代に加速化しました。第三世はまず国会を設置しました。政党制総選挙をベースにした議員の集まりではなかったのですが、まず立法機関を立ち上げたのです。それから、世界史に類を見ない農地改革を実施しました。国王が先導して、反対をされながらも断行したのです。同時に農奴解放も完全にやってのけました。さらに、農民に過酷なほど重かった税制も改革しました。その驚くべき指導者が三世だったわけです。

そういうような、歴史的に見て世にも不思議なことが起きたのが、第三世の時代でした。現国王(公式には雷龍王四世)が、その父君の遺志を引き継いで民主主義への学習の道をひたすら歩み、今や完成の時に至っているのが1907年以来のブータンの政治史です。

国王のリーダーシップと民主化

この民主化のプロセス、特に現国王の仕事の仕方に、私はリーダーシップの理想像を見ます。また、ブータンの人たちも同様に彼らのロールモデルを国王に見るわけです。その話をさせて頂きます。

国王陛下にはいろいろな形で、世銀時代もそれ以後もお会いしていますが、初めて謁見を賜った時の思い出は非常に深いものがあります。謁見を終わって外に出たとたん、私は老子の『道徳経』を思い浮かべました。もう高校時代からまるっきり読んでいなかった中国の文献です。老子は指導者が取るべき形を、『道徳経』でいろいろな形で伝えています。その指導者の理想像を思い出しました。

政策などを施行した時に、それを民に意識させないくらいの自然な統治形態が、リーダーシップの最も望ましい形だというようなことが、『道徳経』にあったと思います。現国王はまさにその道を地でいくリーダーだと感じたのです。

初めて謁見を賜った時と申し上げましたが、私はその頃、副総裁になりたてで、世界銀行の非常に官僚的な文化を改革しようと意気込んでいました。これは職員1人1人の意識改革から始めなければいけないことです。その仕事を始めて半年くらいして、ブータンを初訪問したのです。国王陛下がブータンの政治改革でなされていることと、自分が世銀で始めた仕事との内容が、組織と国という違いはあっても、よく似ていたところがあったため、その話になりました。その頃、いろいろな悩み事を抱えておりましたから、結果的にリーダーとしての自分の迷いや寂しさなどを慰めて頂けた謁見でした。世界銀行の職員の意識を変えて組織が持つ1つの文化を変えようとした時、自分が副総裁を辞めても、何かそのまま動的に成長していくものを残したい思いがありました。自分が辞めたらもう駄目になるという改革はしたくありませんでした。そういう気持ちで謁見に臨み、老子の『道徳経』のことを思い出したのです。その時、国王に見たリーダーシップの形を、もう少し突っ込んでお話ししたいと思います。

国王がいろいろな言葉でおっしゃることは、権力にこだわるなということです。指導者として成功したいのならば、自ら進んで権カを放棄せよ。指導者の成功とは、自分がリーダーとして必要なくなる時である。それを目指して、権力には絶対にこだわるなといつもおっしゃる方です。

その考え方は、国王の主導のもとに今まで40年近くなされてきた、民主化のプロセスを見るとよくわかります。歴史的に見て、民主主義はたいてい民が悪い権力者から奪い取るものです。そのプロセスで戦争や動乱があったり、または戦争に負けてどこかの国から民主主義を頂いたり、というのが世界史の常です。ブータンの場合はまったく逆さまなのです。絶対権力を持つ国王が、「王制は国のためにならない、国づくりは民がするべきだ」と、国民を説得し続ける。自分の改革に対する姿勢を示して実行し、学習し続けるのが、現国王のリーダーシップの形だと思います。

どういうことをなされたかというと、即位なされてすぐに、中央集権型の制度をやめられた。そして県、さらに市町村と、選挙制度を基にした地方自治体をつくられたわけです。それから制度を叩き上げて、それが滑らかに動き始めるまでの経験学習を数十年間なさいました。国会も、政党はなくても総選挙による議員の集まりに改革して、ここでもいろいろな制度がありますから、その制度を叩き上げるのに数十年間の経験学習を意図してなさったのです。

経験を通して、民主主義の立法府の形、習慣などができあがった頃、国王は、国会が決議した法案に対して王が持つ絶対拒否権を自ら進んで放棄されました。国会の議決を最高議決とする議案を国王が提出され、喧々囂々となったそうです。また、議会が国王を弾劾できるという法律も国会に提議され、それも2年をかけた議論となったそうです。それはほんの数年前のことです。ブータンは今でも大臣は選挙で選ばれた政治家ではなくお役人ですが、国王が首相の役割も果たしていたのを、その首相の役割も放棄なさいました。大臣5人が毎年交代で首相を兼任する制度にしたのです。たとえば、今年は農林大臣が、農林大臣の仕事をしながら首相を務める。来年は、大蔵大臣が首相を務める。そういう制度に変えたのが7年前だったと思います。

そのように、いろいろな形での民主化の制度改革を、自ら進んで30年以上かけておやりになって、その道が成熟してきた頃に、学習してきたことを成文憲法にしようとされた。全国各県から代表者を選んでもらって委員会をつくられ、成文憲法の草案づくりを依頼されたのが3年前だったと思います。国王自身はその委員会にパラメータを提供して、ほかは自由に思う存分やってくれと言われたわけです。そのパラメータは、立憲君主制の基に、二政党制の議会制民主主義にすることでした。「国民のために書け。国王のために書いてはいけない」。それが命令でした。

国王と民の対話

憲法草案ができてから、各県各村の国民の批評会が行われました。全国民に成文憲法の草稿を配り、説明会などを開いたあと、国王と皇太子がおでかけになって国民と会議をされました。いろいろな意見を聞く仕事をなさってこられて、それがやっと終わりました。予定として、2008年に、成文憲法が国民投票にかかるところまできています。今は総選挙を控えていろいろな制度の準備にかかっているところです。憲法の草稿の中に、国王が自ら筆をとって書かれた一章があります。ブータン国王の定年制です。国王は、65歳で定年とすると書かれたのです。これには、無責任であると国民が怒りました。国王たるや死ぬまでやる仕事なのだからという議論が国中で起こりました。そして、去年の12月、国王は、議論の結果を待たず「2008年、憲法が成立した時点で、自分は王位を退く」と発表なさいました。まだまだ定年には遠いお歳ですが、皇太子が雷龍王五世として、国の若返りのために新しい政治制度を引っ張っていってもらいたいお気持ちを、国民に伝えられたのです。

この一貫したプロセスの中でも、特にここ7~8年はそういうさまざまな政治改革の内容などを、直に聞いたり、見たりする機会が多くありました。国民の反応を間近に見て感じたのですが、自ら意図して権力を放棄する指導者は、真の力を民から授かると確信しました。これが、ブータン国王に代表されるブータンの指導者層から習った指導者の形。私が最も重要視するリーダーシップの理想像の1つの形です。

2つ目の形は、これも国民と国王ないし大臣たちとの対話を聞きながら学んだことですが、民の声をとにかく深く聞く耳を持つことです。どういうことを指しているのかと言いますと、人間ですから先入観があり、その先入観を抑える努カを常に怠らないこと。言葉を深く聞くのみではなく、言葉にならない気持ちを汲む努力をすることです。

謁見を賜るたびにいつも思うのですけれども、ブータン国王とのコミュニケーションは、言葉で10%、心で90%だと思います。人の言葉と心を聞くという耳をお持ちなのです。その背景には、超人的な謙虚さがあり、人間同士腹を割って平等に話し合うという御姿勢が窺われました。

特にいつも意図しておられることがあります。権カ者の周りにはイエスマン、イエスウーマンが集まりがちですが、そのリスクを熟知され、意図して避けておられるのがわかるのです。率直な反対意見を始終求められ、批判を喜ばれます。イエスマンが生存しにくい雰囲気をいつも一生懸命つくっておられるのです。そのことを初めて見た時に、国王陛下に「普通の権力者にはできないことをなさっておられますね」と申し上げたら、陛下は、自分は普通の人間だと言われるのです。普通の人間なのに国王の第一子として生まれただけで、国家を司る職につかなくてはならなかった。これは非常に恐ろしいことだ。だから、努力をしなくてはいけないと肝に銘じているだけと、おっしゃいました。

普通の人間だから簡単にはできない、ということをおっしゃったわけです。自分にも先入観がある。人にほめられることは嬉しい。謙虚さを常に持つことは非常に難しいことで、努力が必要なことであると。実際、国王と国民の対話の場には、いろいろな村のおじいさん、おばあさん、それから憲法の批評会議では小中学校の児童・生徒の代表や、高等学校の学生の代表も参加したのですが、国王の前で一章ずつ、一条ずつ吟味しながら正々堂々と反対なり批判なりをするのです。

そういう姿を見ていて、この国には権力者が恐れるべきことは起こりにくいという印象を持ちました。つまり、国民が指導者に盲従すること。これは、悪い王なら悪い王で、恐ろしいから盲従するし、尊敬された王は尊敬された王で、王様を尊敬しているから、王様の言っていることは正しいだろうと盲従する。そういう心配が少ない国だと感じました。それを「政治的な指導者としての国王と国民との信頼関係の資質が高い」という言葉で、国王陛下に申し上げたこともありました。

定年制度の議論の時はすごかった。喧々囂々の反対があり、国王陛下がそんなことを言うのは無責任だ、と小学校の児童が言うわけです。その時に国王陛下はどう国民を納得させたかといいますと、自分の身になって考えてくれとおっしゃいました。16歳の時に父をなくして、自分は悲しみのどん底にあったが、その時に新しい王の即位という、国にとっては喜ばしいことも経験しなければならなかった。涙を飲んでの即位のお祭りごとは、誰にもさせたくないとおっしゃったのです。それをわかってくれと批評会議でおっしゃいました。そのことがブータンの新聞に堂々と発表されて、やっと国民が納得したのだと思います。それが国王とブータン国民の会話の形です。

国民総幸福量と精神的な和

そのブータンの草の根を歩いて、そういう会話を聞きながら感じることですが、国王をはじめブータンの指導者は、ビジョンと価値観を非常に明確に持っています。ただ持つだけではなく、そのビジョンと価値観を、動的に国民にいつも伝えるように努力をしています。また、そのビジョンと価値観は、自分たちが指導者として頭で考えたことを上から下に示唆するのではなくて、国中を歩きまわって、国民との会話から民が持つ英知を聞き取る。それにリーダーシップの付加価値を足して、次元を高めながら、また国民と会話を続ける。その動的な仕事が常時なされているのです。

これは会社のリーダーでも、国のリーダーでも、非常に大事なことだと私は思います。そうしてできたそのビジョン、価値観で最近広く知られてきたことは、国民総幸福量という、ブータンの公共哲学的な考え方に代表されると思うのです。少し、その国民総幸福量とは何か、ブータン国王をはじめとした指導者が三十何年間も国中を歩き続けて、民の意を汲んで編み出した公共哲学とは何か、というお話をさせて頂きたいと思います。

哲学としては、非常に簡単なのです。つまり、人間が最も望むことは幸せである。それ以外にはない。その幸せの定義は個人個人で違う。けれども、その幸せを追求していくことが、人間が望むことだというものです。それから、幸せは物質のみでは得ることができない。国民の幸せを考える時に必要なものは、最低限の物の豊かさは必要であるけれども、それプラス、国民個人の精神的な和が大切である。民を取り巻く家族の和、地域社会の和、それから、人間と大自然との和、そして、国民1人1人が自覚して、アイデンティティとして共有できる歴史、文明、文化が大事であるというものです。世界中の国のほとんどは、国家の目的、政策の目的を経済成長で豊かになることに置いていますが、ブータンは、それは目的ではないとはっきり断言しています。経済成長は目的ならず、経済成長は国民が幸せを追求するための手段のひとつである。手段と目的を取り違えてはいけない。大きな間違いの元になる。成長の速度ではなくて、いろいろな形の人の和を大切にする経済成長の質を、いつも考えなくてはいけない。

そういう基本的で、聞けば非常に常識的な哲学から始まって、だんだん具体化していきます。まず、政治とは何か。政治は国民の幸福追求を可能にすることにつきる。社会政策でも、教育政策、経済政策でも、国がとる政策の目的は、1人1人の国民が、幸福を追求する時に現れうる、公の性質を持つ障害を取り除くことである。それこそが政策の役割である。行政、司法などの責任を持つ人々のいちばん重要な姿勢は、民の視点から司ること。上下関係の上から国を司ってはいけないということです。

哲学としての締めくくりは、不安定な国は、歴史的に見ていつも何らかの形で国民が不幸で、不満な国だということ。国民が幸せか、今幸せでなくても、幸せを追求できるという満足に浸っている国は、安定した国である。だから、ブータンの国家安全保障の源は、国民の幸せにつきる。だから、これは真剣勝負で、単なる哲学ではないということになります。長い目で見れば、国が滅びうることなのだから、まじめにやらなければいけないという覚悟が出てくるわけです。

環境保護政策と行政の形

もう少し具体的に説明しますと、そういう国民総幸福量的な哲学から国を治めた場合、何が違ってくるのかという質問をよく受けますが、1つは、政策で何を優先するかが違ってきます。ブータンの場合いろいろありますけれども、いちばん有名なのは、環境保護政策がもう40年程前から世界的なレベルにあることです。誰の助けも受けないで、自分たちのカでつくり上げて、実践してきたのです。

たとえば、物々交換から近代経済へ移り変わる時に、外貨が非常に不足しているわけです、のどから手が出るほど外貨が欲しいのです。いちばん近道だったのは、国に豊富にある、特に高価な熱帯のチーク材などの木材を輸出すれば、外貨が入ってくるわけです。けれども、それは国王と官僚が侃侃諤諤と話し合いをしたあとで、輸出禁止となった。

それプラス、国民が家を建てる時や燃料に、木を切らなくてはいけないわけですから、そういう時の森林伐採の管理をしっかりしなければいけない。また、その頃、ブータンの全国土に占める森の割合が4割くらいだったのを、国の目標として6割5分にすると決めました。今はもう増えすぎて、7割以上になっています、そういう環境保護政策を、世界銀行やアジア銀行などが、まだそういうことを考えない時から、すでに実行していました。だから、何を優先するかというプライオリティが違ってくるということが1つです。

それから、もう1つは行政の形ですが、行政とは民の視点からなすべきだということです。そうしなければ国が滅びるという考え方からすると、縦割り行政はできないわけです。国民の生活は、大蔵省の生活と農林省の生活に分けられませんから、すべて横割りになるわけです。ブータンでも、役人の縦割りや、わが省の損得という考えは、気をつけていないと出てくるものですから、大臣、内閣のチームワークが重要です。とにかく国王がそれを叩き込んだのです。トップがチームワークをしっかりしないと、役人はついてこない。横割りの行政を常に努カして実践してきました。

ですから、たとえば森林保護政策は農林省だけのお役目じゃないわけです。環境省の役目だけでもないわけです。道路建設などにもかかってきますから建設省や大蔵省、国民の教育の観点から文部省も関わります。木を燃やすと森林伐採につながるので、電カ開発も必要です。配電を早くしなければいけないということで、電力会社などもチームに加わっています。トップから下まで横割りで物事を進めようとするその姿勢が常にある国だということが、2つ目の具体的な例です。

地方自治体の育成と教育政策

3つ目は、地方自治体の育成に本当に真剣に取り組んでいることです。上から下ではなくて、必ず下から上へ。それが政治、行政の正しい形だということを叩き込む国です。中央集権型をひっくり返して三十数年間ですから、そろそろ定着して来たのかなと思う時期に入っています。

何が違うのかということの4番目。これは行政、政策の内容ですが、同じ政策でも目の付け所が違います。たとえば、教育政策です。ブータンの教育制度の要は、教師の育成です。教育とは何かということに対しての考え方は、知識を与えるものではない。教師が、生徒の人間としてのロールモデルとなるべきである。教師とは人格者でなければいけない。教師はブータンの将来をなす人間をつくるモデルなのだから、人格者を育てて、そういう人たちに教壇に立ってもらうという考え方から始まるわけです。

数学の教師が教えるマニュアルのようなものがあるのですが、その第1ページにこう書いてあります。「君は数学を教えるために教壇に立つのではない、ブータンの将来を担う人間をつくるために教壇に立つのだ。それを忘れるな」と。

教育のことでもう1つ、目の付け所が違うところがあります。ブータンの教育用語が英語であることです。近代教育を受けたブータン人は英語がぺらぺらです。なぜその選択を三十数年前にしたかというと、ブータンは人口は少なくても多民族の国だからです。主な言語を数えただけでも20から25くらいの違った言葉がある国です。注意をしないと、言語の違いが国をばらばらにしてしまう要素にもなるわけです。

未来をつくる子どもたちを、同じ教室で同じ言葉で勉強させる時に、誰の言葉を使ったらいいのか。その政治決断を現国王がなされた時に、それは英語でなければいけないとされたのです。ブータンで使われている言葉以外の言葉でなければ、理想的にならない。また、国際的な感覚を身につけるにも、英語がいい。国語、それから小民族の言葉もちゃんと学校で教えますが、教育用語は英語です。それがもう何十年間もなされてきました。余談ですが、国際会議に出ると羨ましいのです。ブータンの発言力は、とても大きいものがあるからです。英語が上手だということが、国家にとって大きなプラスになっています。

もう1つ、行政政策の内容で違ったところは、思いやりがある政策、行政と言ったらいいかと思います。日本と比較すると、たとえばハンセン病のことです。日本のハンセン病患者に対する政府の対応は、非常に恥ずかしく、悲しい歴史だった。その悲しい歴史は、いまだにいろいろな形で国民を苦しめています。ブータンの場合は、ハンセン病は最近まであったわけで、その対応の仕方は見事で、立派でした。

まず、隔離はいけないとされました。幸せを追求する時に、家族の和、地域社会の和が大切だから、その和を使って、患者が普通の生活をしながら治療を受ける状態をまず作らなければいけない。その決断から始まりました。患者がいる村なら、どんなに不便なところでも出かけていって、ハンセン病とはこういうものだという説明をする。そして、その村の理解を得て、患者さんが普通の生活をしながら治療を受けられる状態を作って、薬を届ける。そういう対策をしてハンセン病を消滅させた国です。

わずかな例ですが、いろいろな面で他の国とは違っています。ふと見ただけでは見えないのですけれども、少し掘り下げていくと、とにかく姿勢が違う。目の付け所が違う。内容が違うことに気がつきます。その源は何なのかを考えると、国民総幸福量という考え方が、根本的に浸透しているということに気づきます。

価値観の浸透と根本的な解決

こういうことをしないと国が滅びるという思考を、役人なり、国を司る人たちが、自分の考えとして消化しているのです。ですから真剣勝負です。何事も、問題が起きた時に表面的な解決ですませようとしない国なのです。根本的な解決をしようとします。ごまかせないからごまかさないのだと、ブータン人はよく言います。当たり前のことですが、それをしっかりやる国です。たとえば今の日本では、私はあまりよく知らなかったのですが、地方でお医者さんが不足している状態があるらしい。それに対する政府の対策を、興味があって調べたのですけれども、私に言わせればみんな癌に絆創膏というようなことをやっていらっしゃる。ブータンでは何をやるかというと、結局価値観から浸透させますから、教師や医者は、まず辺鄙なところにいきたいと考える。だから、どんな離れた寒村でも診療所があり、最低でも小学校があり、ちゃんと教師が教え、医師が治療を行っています。それ相応の手当はつきます。でも、厳しい状態での仕事です。そういう人たちに、本当にここに来たくてやったのか半信半疑でインタビューなどをしたこともありましたが、いつも涙が出るようなよいお話になります。そのように、国民1人1人の価値観が、相当変わってきています。これをやらなければ、国がいつか滅びるかもしれない。それに、中国とインドという世界第1、第2の人口を持つ国にはさまれた、小さな国の危機感が常にあります。それが、ある意味では、プラスになっているのではないかと思います。本当に真剣勝負をする国で、ごまかせないからごまかさないのだという姿勢のようです。

どこに行って何を見ても、この国はとにかく頭とハートと行動がつながっている国だと感じます。指導者だけではなくて、誰を見てもそういう国です。矛盾がないし、信用できる。間違ったことがあっても、自分たちの力で頭とハートと行動をつなげて、自分たちの糧にして学習をしていくという姿勢のある国民であり、指導者たちであると思います。その頂点に立っている理想像が、国王陛下なのです。

外から見たブータンの姿勢

最後に、ブータンの外から見たブータンの姿勢についてお話しします。特に、国王を含むブータンの指導者層が、インドや中国に国境問題の交渉などで訪問する時、いつも思うことがあります。インドはもう長いこと、最近は中国でさえ、ブータンと接する時には、大国として接していると感じます。これは外交の形、取り方、歓迎様式でわかります。中国はもちろんですけれども、インドでさえ、日本の首相が考えもつかないような接待の仕方を、ブータン総理大臣なり、教育大臣なりが受けているわけです。

私は、中国はあまり仕事をしたことがないのでよく知らないのですが、インドの場合は、国王のカウンターパートという人たちも知っていますから、どうしてこういう接待の仕方をするのかと聞く機会がありました。こういう指導者が大勢いる国はあまり見当たらない、とにかく尊敬をしているからだ、と言うのです。ブータンを小国とは思っていないと、インドのシン首相もはっきりしていました。

ブータンはこれからもいろいろな形で変わっていくし、人間の国ですから完璧な国ではありませんし、間違いも起こしていくとは思います。しかし、こういう指導者層が多くいて、そういう指導者層を理想像として見ながら育っていく子どもたちが将来をつくっている国ならば、国の大小は国民総生産や人口などで決まらないという現実を維持していける国です。日本人として、いつも羨ましいと思う国です。

最後に、去年、ブータンは久しぶりに国勢調査をしたのですが、その国勢調査の中に、「あなたは今幸せですか」という質問があったのです。国民の97%が「幸せです」と答えたそうです。羨ましいことです。今日はこの辺で、終わらせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

『学士会会報862号』より転載

2007年1月25日

2007年1月25日掲載

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