あすへの話題

マクベス卿婦人

西水 美恵子
RIETIコンサルティングフェロー

シェイクスピアが好きで機会があれば観劇するが、悲劇『マクベス』だけは残酷すぎて好まない。でも、血に染まった手の幻影に取り憑かれたマクベス卿婦人が両手を擦り続ける狂気の場面は、演技力の見せ所と固唾を呑む。「ここに血の臭いがまだ...。全てのアラビアの香水さえこの小さな手を甘く香らせぬ。ああ、ああ、ああ...」。彼女の狂気は、心理学で衝動強迫観念という症状と教わっても、解せなかった。まさかこの自分が、マクベス卿婦人と似通う目に遭うとは、思いもしなかった。

世銀が内部統制システムを新しくした時のこと。システムを提供した会社も副総裁数人も、準備期間が短すぎてリスクが多いと指摘した。しかし、Y2K問題(2000年になる時コンピュータが00年を1900年と誤作動する問題)に対処する目的があるからと、聞き入れられなかった。案の定、施行1年目の決済で知らぬ間に組織全体が予算を大幅に超過していたと判明。経費をどう切り詰めても人員整理を要する悪状態だった。辞表を出したら君に責任はないと却下。思い直して、管理職の大幅減給を勧めたら「考慮する」のみ。「意気地なし!」とかんかんに怒り、我が経営チームに「逆境にも、探せばメリットはあるはず」と慰められる始末だった。そのメリットを求めて、チームと共にビジネス戦略を改訂。「元気に痩せよう」をモットーに、700人中、140人の整理を3カ月で終えた。転職、早期引退などのケアを充分にして、全員気持ちよく去ってくれたのは不幸中の幸いだった。

問題ある部下を解雇することに抵抗など感じないが、あの時は違った。辛かった。未だ、血に染まった我が手の夢を見る。

2006年11月25日 日本経済新聞に掲載

2006年11月25日掲載

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