あすへの話題

心をこめて

西水 美恵子
RIETIコンサルティングフェロー

英領バージン諸島には、ひとつの礼儀がある。朝なら当然「おはようございます」で始めて、必ず「ご機嫌いかがですか」と続け、肝心なのはそのあと。しばらく世間話をする。話の種は何でもいいし、1分前後の会話で結構なのだが、ただ、心をこめて世間話をすること。怠ると、礼儀知らずのよそ者になってしまう。散歩で出会った人、店の売り子、銀行の窓口係、友人でも見知らぬ人でも差別なしに、目と目を合わせて心をこめて...。易しそうで難しい。

この島国に移って間もなく友人が遊びに来た時。飛行機はずいぶん前に着いたのに、到着ロビーに現れない。案の定、税関にひっかかり、贈り物の包装を解け解かないで押し問答になったそう。いったいどこに泊まるのかと聞かれて家の名を言うと、役人の態度が一転。「ああ、背の高い英国人と日本人の奥さんの家だね。なに、迎えに来ている? もたもたせず早く行きなさい!」。君たちは有名人と感心する友に、世間話のおかげと笑ったが、それ以来、関税はもれなく申告している。

車検の時。今朝はいい海風ですねと世間話を始めたら、運転免許を見た検査官が誕生日が同じだと喜ぶ。あれまあと、星座のことや同月生まれのマーティン・ルーサー・キングのことなど、話が弾んだ。さて車検だと車をじろりと睨んで、はいオッケー。検査なしですかなど問うのは野暮。あら、ありがとう、整備はきちんとしますからと礼を言う。「お互い信頼しあっていくことが、この小さな島国の和平に繋がるのだよ」と、検査官が微笑んだ。

人間、心をこめて信頼されたら責任感が湧く。車検の帰り道、日本も昔はそうだったのにと、ちょっぴり物悲しかった。

2006年8月26日 日本経済新聞に掲載

2006年8月26日掲載

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