あすへの話題

おねしょ

西水 美恵子
RIETIコンサルティングフェロー

「残業は生産性が低い証拠」と、夫が仕事中毒ぎみだった私に示した結婚の条件は、退社時間6時。約束は厳守したが、例外があった。感謝祭の前日やクリスマス・イブと大晦日には、沈没寸前の船長だと夫に笑われながら職場を見回った。寂しそうに残る部下を見つけると、もう帰ったらと話しかける。たいてい家庭問題など、悩みの相談話になる。泣き出す部下もいた。救済行為ではない。私生活が不幸では、よい仕事は期待できない。心底そう信じたから。

ある小学生にそれを教わった。元気がなくなった部下に理由を聞くと、息子の成績が下がり、海外出張の度に寝小便をすると言う。勘で「出張に連れて行ったらいい」と補助金を出した。忘れた頃、その子から「出張報告書」が届いた。「母が飛行機で飛び立った後のことが解って嬉しい。母はインドの貧しい人を助けている。僕みたいな子が学校へ行けるように立派な仕事をしている。母を誇りに思う。僕も母のようになりたいから、一生懸命勉強します」。幼い文字を辿りながら、溢れる涙が止まらなかった。もちろん、おねしょはぴたりと止まり、成績は親子揃ってうなぎ登り。部下に明るい笑顔が戻った。

恥ずかしかった。人は職場でも家庭でも同じ人間。どちらかで不幸せならもう一方に響く。こんな簡単なことが解っていなかった。以来、給与体系から出張規則や産休制度などまで、人事全てに職員のみを対象とする思考を捨てた。部下の家庭を対象に、人間としての幸せを考えるようになった。

減らない労働時間、増える自殺、未成年の凶悪犯罪、人口減少...。そして女性の労働力に目覚めた日本。そんな母国を憂う今日この頃、あの子の報告書を思い出す。

2006年8月12日 日本経済新聞に掲載

2006年8月12日掲載

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