1995年1月1日、関税と貿易に関する一般協定(GATT)の枠組みを踏襲する形で、世界貿易機関(WTO)が設立されます。このWTOという国際機関は、それまでGATTで議論されてきた物品貿易だけでなく、金融と電気通信を含むサービス貿易、知的所有権、加盟国間の紛争解決、加盟国の貿易政策まで視野に入れることになります。今回は、このWTOの設立に至るまでの経緯とその枠組み、そしてサービス貿易に関する一般協定(GATS)の位置付けと、その協定が与える投資銀行ビジネスに対するインパクトを分析します。
世界貿易機関(WTO)
1929年、ニューヨーク株式市場の暴落から始まった世界恐慌。これに伴う経済的不況の克服を狙い、広大な植民地を有する連合国側のイギリスやフランスはブロック経済圏化を推進。同じく連合国側のアメリカは国内の公共投資を軸としたニューディール政策を実施します。これに対し、植民地と天然資源が乏しいドイツ、イタリア、日本などの枢軸国側は、経済的に困窮することとなります。この国際経済の分断が、第二次世界大戦を勃発させた一要因であるとの反省から、1945年に発効したブレトン・ウッズ体制のスタートから3年後の1948年、「関税と貿易に関する一般協定」(英語略GATT:General Agreement on Tariffs and Trade)の枠組みが創設され、国際貿易における差別的待遇廃止を目的として、貿易体制自由化の協議が始まります。
このGATTの枠組みは、1947年、第1回交渉(23カ国:スイス・ジュネーブで開催)、1949年、第2回交渉(13カ国:フランス・アヌシーで開催)、1951年、第3回交渉(38カ国:イギリス・トーキーで開催)、1956年、第4回交渉(26カ国:以下第4回から第8回まで、全てスイス・ジュネーブで開催)、1960年から1961年まで、第5回デイロン・ラウンド(26カ国)、1964年から1967年まで第6回ケネディ・ラウンド(62カ国)、1973年から1979年まで第7回東京ラウンド(102カ国)、1986年から1994年まで第8回ウルグァイ・ラウンド(123カ国)と、先進国のみならず発展途上国の参加を受け入れることで、徐々に拡大して行きます。第1回から第5回までは、主に関税引き下げが議論の焦点でしたが、第6回からはアンチ・ダンピング、第7回からは非関税措置も議題として加わり、第8回のウルグァイ・ラウンドでは、物品貿易だけでなくサービス貿易や知的所有権にも論点が拡大。この協議の積み重ねは、大戦終結から丁度50年後の1995年1月1日、国際機関としての世界貿易機関(WTO:World Trade Organization)の設立として、結実しました (注1,2)。
WTOは、1995年1月1日に発効された、「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(Marrakesh Agreement Establishing the World Trade Organization:以下、WTO協定)により、定義付けされています。このWTO協定には、国際機関としてのWTOの設立(第1条:Establishment)、権限(第2条:Scope)、任務(第3条:Functions)、構成(第4条:Structure)、他の機関との関係(第5条:Relations with Other Organizations)、事務局(第6条:The Secretariat)、予算及び分担金(第7条:Budget and Contributions)、地位(第8条:Status)、意思決定(第9条:Decision-Making)などを規程する全16条の骨格に加えて、協定の附属書(Annex)が存在します (注1,2)。
WTO協定の附属書1には、1A「物品の貿易に関する多角的協定」(Multilateral Agreements on Trade in Goods)、1B「サービス貿易に関する一般協定」(GATS:General Agreement on Trade in Services)、および1C「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS:Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights)が存在。更に附属書2に、「紛争解決に係る規則及び手続に関する了解」(DSU:Dispute Settlement Understanding)、附属書3に、「貿易政策検討制度」(TPRM:Trade Policy Review Mechanism)、附属書4に、「複数国間貿易協定」(PTA:Plurilateral Trade Agreements)が、定義付けられています (注1,2)。WTOで取り交わされる合意は、附属書2で規程されている紛争解決手続が存在することにより、加盟国に対する拘束性が強く、この点が伝統的な多数国間条約体制とは、異なっています (注3)。
WTO協定の意思決定(第9条)では、GATTからの慣行を継承する形で、「コンセンサス方式」による意思決定を謳い、そのプロセスは4つの階層によって行われています。第1レベルには、少なくとも2年に1度開催される閣僚会議(Ministerial Conference)、そして第2レベルには、スイス・ジュネーブのWTO本部で定期的に開催される一般理事会(General Council)があります。この理事会は、閣僚会議の代行機関としての役割を演じると共に、貿易政策検討機関(Trade Policy Review Body)及び紛争解決機関(Dispute Settlement Body)としての機能も併せ持ちます。第3レベルには、WTO協定の附属書1に規定されている、GATTに基づく物品(Council for Trade in Goods)、GATSに基づくサービス(Council for Trade in Services)、TRIPSに基づく貿易関連知的所有権(Council for Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights)の各理事会があます。そして、第4レベルに、各専門分野に関する議論を行う委員会および作業部会があります。WTO協定の第6条で規程されている、約600名の職員を擁するWTO事務局は、意思決定機能ではなく、加盟各国に対して協議の場を提供することを主たる目的とし、加えて国際貿易に関する研究およびマスコミなどに対する広報活動を行う機能として、定義されています (注1,2)。
サービス貿易に関する一般協定(GATS)
農林水産業を中心とする第1次産業、製造業を中心とする第2次産業、そして、情報通信、金融、運輸、販売、コンサルタントなどのサービス業を中心とする第3次産業。産業構造の変化を予測したペティ=クラークの法則によれば、経済が近代化する課程で、収益性および就業人口の観点から、産業構造の中心が、第1次から第2次、そして第3次産業へとシフトします。この法則に符合し、1970年代から先進諸国では、サービス業を中心とする第3次産業の占める割合が上昇する、「サービス経済化」 (注4)という現象が起こります。
1980年代に入ると、アメリカでは貿易収支が悪化する共に、国内経済が不況に直面します。当時、第1次産業と第2次産業のから生産される産品が、アメリカの輸出の大半を占めていましたが、アメリカ企業は、既に第3次産業であるサービス業の国際展開を、推進する体制が整っていました。そこで、サービス貿易拡大を推し進めることとしたアメリカは、先進国だけでなく発展途上国を含めた、物品貿易の議論の場として機能していたGATTに着目します。他方、1980年代初頭、サービス貿易自由化に対して、インドやブラジルなどの発展途上国側は反対の立場、また欧州も消極的な立場をとっていました。これに対しアメリカは、サービス業の貿易を東京ラウンド後のラウンドで、「新しい分野」として、議論に加えるように強く主張します (注4)。1986年からスタートした第8回ウルグァイ・ラウンドで、サービス貿易は議題として取り上げられることとなり、1995年のWTO設立に伴い、WTO協定の附属書1Bとして、「サービス貿易に関する一般協定」(GATS:General Agreement on Trade in Services)が、採択されました (注5)。
さて、GATSにおけるサービスの定義は、「政府の権限の行使として提供されるサービスを除く、全ての分野におけるサービス」とされています。このGATSの枠組みを確立する際に、どのようなサービスの取引形態まで網羅するのかを、明確に定義付けする必要がありました。その理由は、物品貿易の場合、貿易される物品が有形であるため、国境を越えた取引実態を把握することは容易ですが、サービス貿易の場合、サービス事態がそもそも無形であり、取引の実態把握が困難であったためです (注6)。そこでGATSでは、サービスの需要者と供給者が、どのように移動して、サービス貿易を行うのかという観点から、以下の4つのモードを定義しています (注3,4,6,7,8)。
第1モード)「国境を越えるサービスの取引」(日本語略:越境貿易、英語略:Cross-border trade)、サービスの需要者と供給者共に移動せずに、サービス自体が国境を越える貿易の仕組みであり、物品貿易にもある形式。
第2モード)「海外におけるサービスの消費」(日本語略:在外消費、英語略:Consumption abroad)、サービスの需要者が、国境を越えて移動し、サービスの供給者の国内で、サービスの消費を行う形式。
第3モード)「業務上の拠点を通したサービスの提供」(日本語略:拠点設置、英語略:Commercial presence)、サービスの供給者が、国境を越えて移動し、サービスの需要者の国内に拠点を構え、サービスの提供を行う形式。
第4モード)「自然人の移動によるサービスの提供」(日本語略:人の移動、英語略:Presence of natural persons)、第3モードと同様、サービスの供給者が国境を越えて、サービスの需要者の国内に移動し、サービスを提供する形式。この場合、サービスの供給者が自然人である点が、第3モードと異なる点。
サービスの取引は、生産と消費がほぼ同時に行われるために在庫は困難である点、また地理的に近隣な場所で行われる点に、物品の取引とは異なった特質がありました。そこでサービス貿易を規定するGATSでは、第3モードとして拠点設置を通してのサービスの提供も、枠組みの中に取り込みます。この外国資本の拠点が、他国で行うサービスも視野に入れるとしたところに、GATSの特徴があります (注3,4)。高澤氏 (注6)のモード別比率の予測によれば、第3モードの形式が占める割合が約50%と最も高くなり、第1モードが約35%程度、第2モードが約10%から約15%程度、第4モードが残りの数%程度となります。
投資銀行ビジネスとGATS
GATSの基本原則は、最恵国待遇(第2条:加盟国が他の全ての加盟国に対して、差別無く平等に取り扱う原則、英語表記:Most-Favoured-Nation Treatment)、透明性(第3条:加盟国が他の全ての加盟国に対して、一般的に国内で適用されている措置を、公表する原則、英語表記:Transparency)、内国民待遇(第17条:加盟国が自国民と同様の権利を、相手国の国民に対して保障する原則、英語表記:National Treatment)、市場アクセス(第16条:加盟国が他の国からのサービス提供者に対して、制限を加えない原則、英語表記:Market Access)です (注3,7)。GATSで定義付けされている義務には、3つのレベルがあります。第1レベルは、加盟国全てが無条件に一律に従う義務、第2レベルは、約束した分野で一律に従う義務、第3レベルは、約束した分野で内容に応じて従う義務です。その中で、最恵国待遇と透明性義務は、第1レベルの義務であるのに対し、内国民待遇と市場アクセスは、第3レベルの義務として分類さています (注4)。
サービス業は、各国の歴史、伝統、文化、風習に根差した、生活者の日常生活に密接な関係があるため、本質的に急進的な変化は許容しない傾向があります (注7)。そこで、GATSによる貿易自由化は、漸進的に進めていくことを謳っています。その為GATSでは、自由化しないと約束表に掲載されていないもの以外、自由化の義務を負う「ネガティブ・リスト方式」ではなく、自由化すると約束表に掲載されているものに対して、自由化の義務を負う「ポジティブ・リスト方式」を採用してます。これは、GATSへの発展途上国の参加を促進するために、先進国側の主張である「ネガティブ・リスト方式」ではなく、発展途上国側の主張である「ポジティブ・リスト方式」を採用したことが背景にあります (注8)。
サービス貿易自由化の議論の過程で、金融サービス分野は、第8回ウルグァイ・ラウンドでは議論が紛糾し、1995年1月1日のWTO設立時には合意に至りませんでした (注8)。1995年7月、欧州と日本による第2議定書 (注9:Second protocol to the General Agreement on Trade in Services)による暫定的妥結が行われ、2年後の1997年12月、アメリカを含む70カ国の参加を得て、ようやく第5議定書 (注10:Fifth protocol to the General Agreement on Trade in Services)の合意に漕ぎ着けた、という経緯があります。
さてGATSに附属する、「金融サービスに関する附属書」(Annex on Financial Services)の中の、第5章の定義(a)では、
「金融サービス」とは、金融の性質を有するすべてのサービスであって加盟国の金融サービス提供者が提供するものをいう。金融サービスは、すべての保険及び保険関連のサービス並びにすべての銀行サービスその他の金融サービス(保険及び保険関連のサービスを除く。)から成り。。。」としています (注5)。
そして、この定義が列挙している、(i)から(xvi)までの具体的な金融ビジネスを参照すると、本シリーズ第1回 (注12)で分析した、投資銀行のフロントオフィス、ミドルオフィス、そしてバックオフィスで行う、全ての業務を含むことが解ります。
このGATSの枠組みは、理論的には国内金融機関と国内に進出してきた外資系金融機関を、あくまでも同等に取り扱うことを謳っていますが、その際、ホールセール(卸売り)部門である投資銀行ビジネスと、リテール(小売り)部門である商業銀行ビジネスとは、切り離して考慮する必要があると考えています。何故なら、ホールセール金融サービスとリテール金融サービスとの間には、今日、国際標準化の達成レベルに大きな乖離があるからです。
リテール金融サービス業には、他のサービス業同様、それぞれの国々で、異なった歴史、伝統、文化、風習に根ざした特有の仕組みが存在します。特に、銀行業や証券業のリテール金融サービスの分野には、そのサービスの大半が国内で消費されてきた長年の歴史があり、各国の国内生活者の日常生活に密着している部分が多くあります(日本の証券業の歴史は第四回 (注11)、銀行業の歴史は第八回 (注12)で分析しました)。他方、投資銀行を中心とするホールセール金融サービスの世界は、言わばプロ対プロの取引が主であり、前述のリテール金融サービスの分野とは異なり、1980年代からの金融市場グローバル化の潮流の中で、標準化された国際的なルールに準拠して、取引および決済が行われている市場となっています。
加えて、GATSの4モード分類の枠組みの中で、投資銀行の業務を分析すると、リテール金融サービスとは異なった性質が浮かび上がります。まずフロントオフィスの業務の中では、国内機関投資家が海外の投資銀行と直接取引を行う形式(第1モードの越境取引)や、外資系投資銀行の国内支店と取引を行う形式(第3モードの拠点設置)は、1990年代半ば以降、加速度を増して拡大して行きます。これは、リテール金融サービスには見られない傾向です。また、バックオフィスの業務では、本レポート第九回 (注13)で解説したケースのように、アジアパシフィックの事務処理を全て請け負う、巨大なグループ内オフショアリング拠点を構築するケースなどから見て取れるように、第1モードのサービス越境取引と第3モードのサービス拠点設置の、両面を供給するものが出現しています。これも、リテール金融サービスには見られない現象です。
金融サービス輸出競争の時代における日本の金融市場戦略
GATSが推進する金融サービス貿易自由化の方向性は、前回のレポート (注14)で説明をした、バーゼル銀行監督委員会が推進する、国家間の金融規制調和による、競争不平等縮小の方向性と一致しています (注7)。つまり1990年代半ばから、BISとWTOという国際的な協議の場ができあがったことによって、国際金融の枠組みは、「国内の規制緩和」と「国際的な規制強化」という方向性に向って、進んで行くことになります。また金融サービスに加えて、1997年2月、GATSの枠組みは、電気通信の分野で、69カ国が通信市場自由化を妥結し、1998 年までに長距離通信などの基礎的電気通信サービスの自由化を合意しました。
このように金融と電気通信の分野が、貿易自由化の方向へ動き出したことにより、国際経済の分野では、「サービス輸出競争の時代の幕」が切って落されたと捉えることができます。この「物品輸出競争」から「サービス輸出競争」へのパラダイムシフトに、逸早く国家戦略を対応させたケースが、第十回 (注15)でご紹介したシンガポールです。国際通貨基金(IMF)の調査によれば、昨年2007年、シンガポールの1人当たり国内総生産(GDP)は3万5000ドル超となり、日本の約3万4300ドルを抜くことになりました (注16)。加えてシンガポールは、昨今の商品市場の活況から、商品先物市場におけるアジア地域の中心拠点としての地位の確立を目的とした、シンガポール・マーカンタイル取引所(SMX:Singapore Mercantile Exchange)を設立し、2009年第1四半期中に取引を開始すると発表 (注17)。このニュースから、金融サービス部門における積極的な外資誘導政策に対する、シンガポール政府の強い意志を感じ取ることができます。
他方、日本は第二次世界大戦後、加工貿易による外貨獲得を軸とした産業構造を作り上げ、1980年代にはジャパンアズNo.1と言われる経済大国になりました。しかし、この第2次産業を中心とする産業構造は現在も変わらず、1990年代半ばから始まった、「物品輸出競争」から「サービス輸出競争」へのパラダイムシフトに、乗り遅れている感があります。1995年から2002年の間、アメリカのみならず、イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国、そしてインド、中国、ブラジルなどの主要発展途上国は、全てサービス輸出を伸ばしています。これに対し、日本のサービス輸出はマイナスとなっています (注6)。
上述のペティ=クラークの法則を再考するまでも無く、国内経済および国際経済の両面で、金融を含むサービス産業の占める割合は、高くなってきています。このことから、金融を含む「サービス輸出」に焦点を当てた経済産業政策を実施する事によって、日本経済のポテンシャルが再開発される余地は、まだまだ充分にあると考え、「大都市東京は、アジア地域における国際金融市場の一角を担い、地方都市には、国際金融サービスの事務処理部門を誘致する」、という日本経済復活のアイデアを、2007年9月25日付けのコラム (注18)で、説明させて頂きました。この点に関する具体的な施策を見出す為に、本レポートでは、投資銀行におけるグローバル情報システム戦略を中心に据えて、関連する国際経済の動き、金融市場と金融行政の変化、新しい経営手法の確立などを織り交ぜながら、引き続き分析を致します。
さて、次回は、GATSにおいて金融と電気通信の分野で貿易自由化の枠組みが妥結した1997年に、グローバル金融の拡大の過程で、乱気流に突入したアジアを解説致します。