RIETI海外レポートシリーズ 国際金融情報スーパーハイウェイの建設現場から

第十三回「投資銀行におけるオフショアリングとアウトソーシングの建設期(6)」

松本 秀之
コンサルティングフェロー

1980年代から始まったグローバル金融市場拡大の潮流は、突然、アジア経済に激しく襲いかかります。1997年5月、シンガポールの外国為替市場でタイの通貨バーツに対する売り圧力が高まり、これに対しタイ政府は必死の通貨防衛を実施します。しかしその努力虚しく、約2カ月後の7月2日、アジア通貨危機が発生。通貨、株式、不動産の暴落によってアジア経済は乱気流に突入します。この混乱は、地震によって発生した津波が遠く離れた国々に到達し地域全体に被害が拡大する現象に似ていました。今回は、このアジアを襲った通貨危機の経緯と、その原因を分析します。

アジア通貨危機前夜

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 (注1)の著者、ハーバード大学東アジア研究所所長のエズラ・ヴォーゲル博士が、「アジア四小龍」 (注2)と名付けた韓国、台湾、香港そしてシンガポール。この4カ国は、1960年代後半以降、工業製品輸出の急激な増加による高度経済成長を、第二次世界大戦後の日本の高度経済成長よりも速いスピードで、達成しました。また、1967年8月8日、「バンコク宣言」に基づいて、アジア地域の政治の安定と経済の成長、社会と文化の発展を目指して結成された、東南アジア諸国連合(ASEAN:Association of South-East Asian Nations)。原加盟国はアジア四小龍の一角を担うシンガポールと、インドネシア、マレーシア、フィリピンそしてタイの合計5カ国。1980年代に入りシンガポール以外のASEAN原加盟4カ国も、アジア四小龍に追随する形で高い経済成長を達成して行きます (注3)。因みにASEANは原加盟国5カ国に加えて、ブルネイ(1984年1月8日)、ベトナム(1995年7月28日)、ミャンマーとラオス(1997年7月23日)、そしてカンボジア(1999年4月30日)が加わり、現在、10の加盟国となっています。また本稿で議論する1997年のアジア通貨危機を契機として、日本、中国、韓国の3カ国が招待される形でASEAN+3という枠組みも確立されています。

さて前述のアジア諸国の経済成長に拍車を掛けたのが、1985年9月22日、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスそして日本の先進5カ国蔵相中央銀行総裁会議(G5:Group of Five)で採択された、協調的ドル安政策を推進するプラザ合意(Plaza Accord)でした。この合意により、日本円は約1年の間に1米ドル約240円の水準から約120円の水準まで急上昇。他方、タイとマレーシアは複数の主要貿易相手国通貨の加重平均である合成通貨と為替相場を連動させる「通貨バスケット制度」、インドネシアは対米ドル為替相場の変動幅を固定する「管理フロート制度」、フィリピンと韓国は対米ドル為替相場の1日の変動幅を一定の範囲内に制限する「バンド管理型変動相場制度」、そして香港は「対米ドル固定相場制度」を採用していたため、たとえばタイバーツは概ね1ドル25バーツ台で推移するというように、日本円以外のアジア通貨は対米ドル為替相場の変動幅が一定の範囲内に収まることとなり、アジア域内では日本円の独歩高という現象が起こります (注4,5)

その結果、プラザ合意以降、高度経済成長を成し遂げた日本円は高く、今後の経済発展を見込めるアジア四小龍やASEAN加盟国の通貨は、米ドル連動の恩恵から為替変動リスクが軽微であり、しかも日本円に比べて安価であるという状況が継続します。1990年代に入ると、多国籍企業は益々積極的にアジア諸国への投資を促進し、外国資本で潤うアジア諸国は高い経済成長を達成します。たとえば、タイでは年間平均経済成長率は9%に達し、不動産市場も活況を呈します。世界銀行は1993年に発表されたレポート (注6)の中で、この現象を東アジアの奇跡(East Asia Miracle)と表現すると共に、日本、アジア四小龍、ASEAN加盟国のインドネシア、マレーシア、そしてタイの合計8カ国を、アジアの高パフォーマンス経済国(HPAEs:High-Performing Asia Economics)として紹介しています。

アジア通貨危機発生

1995年4月、日本円が外国為替市場で1ドル79.75円の対ドル史上最高値記録を更新した後、アメリカにおけるIT景気の影響を受けて外国為替相場は円安ドル高に転じます。これによって、米ドル連動型のアジア通貨は強めに推移することとなります。1996年に入るとアジア各国は輸出の停滞による経常収支悪化に直面しますが、米ドル連動為替相場の仕組みを維持していたアジア通貨は高止まりのまま推移します。この輸出低迷による経済成長の鈍化と通貨の高値維持という歪な経済状態は長続きしませんでした。アジア通貨危機発生プロセスの詳細を記述したバンコク週報水谷昇記者執筆の『タイ国通貨危機』 (注7)によれば、1997年1月頃から外国為替市場の歪みを虎視眈々と注視していたヘッジファンドがタイの通貨バーツに対する売り圧力を高めます。

その後、数カ月間、不安定になったり安定を取り戻したりという繰り返しであったタイバーツは、タイ中央銀行の為替変動幅拡大の噂が切っ掛けとなり、5月8日、再びロンドンとニューヨーク市場で売られ始めます。5月14日、シンガポールの外国為替市場で売り圧力が一層高まったことを受けて、タイ政府はタイバーツの買い支えを行うと共に近隣国の中央銀行に対しても支援を要請。シンガポールと香港の中央銀行は、それぞれ5億ドル、合計10億ドルの支援を実施します。翌5月15日、投機的な売り抑制を狙いタイ中央銀行がタイ国内の全商業銀行に対して、実需取引以外のタイバーツ取引を禁じる緊急措置を講じます。これにより一旦、外国為替市場におけるタイバーツの値動きは安定を取り戻します。しかし6月下旬、タイ政府内部の政治力学が不安定な状況となるとタイ中央銀行の方向性も不明瞭な状態となり、加えて外国為替市場でタイバーツの買い支えを行ってきたタイ政府の外貨準備は減少の一途を辿ります。

1997年7月2日午前、通貨防衛が限界に達したと認識したタイ中央銀行は、タイバーツを「通貨バスケット制度」から「管理フロート制度」に移行することを発表し即日実施。この発表当日だけでタイバーツは、1ドル24.5バーツから29バーツまで下落します(注8)。更に同日、タイ政府は国際通貨基金(IMF)に対して金融不安沈静化のための支援を要請。これに対し8月11日、国際通貨基金、世界銀行、アジア開発銀行、日本政府および中国政府は、タイに対する合計172億ドルの協調支援を約束します。変動相場導入後、1ドル約25バーツであったタイバーツは、1998年1月には1ドル56バーツ台まで下落。このタイバーツの暴落によって、外貨建ての借入れが多かったタイ企業は対外債務が膨脹すると同時に輸入コストが上昇し企業業績が悪化。タイの株式市場は暴落します (注4,5)

アジア通貨危機拡大

タイで発生した通貨危機は近隣アジア諸国にも拡大します。1997年7月2日のタイバーツ管理フロート制移行に伴い外国為替市場では、まずフィリピンペソとマレーシアリンギットの為替価値に対する疑念が募ります。タイバーツの管理フロート制移行実施から5日後の7月7日、シンガポール新聞紙上に公表されたフィリピンペソ切り下げ説の記事が切っ掛けとなり、バンド管理型変動相場制度を採用していたフィリピンペソが売られ始めます。2日後の7月9日、暫定的な通貨危機の沈静化を狙うラモス大統領は通貨切り下げ否定の発言を行いますが、更に2日後の7月11日、フィリピン中央銀行が為替許容変動幅拡大を発表すると同時にフィリピンペソの買い支えとフィリピンペソ金利の上昇を実施。しかし、この通貨防衛も虚しくタイバーツに連動しながらフィリピンペソも下落の一途を辿ります。この通貨下落に伴う経済危機を乗り越えるためIMFはフィリピンに対し11億ドルの支援を実施します。

またフィリピンとほぼ同じタイミングで、マレーシアも危機に直面します。7月8日、マレーシア通貨当局のネガラ銀行は、タイバーツとフィリピンペソと同様に売り圧力が高まってきたマレーシアリンギットに対して、通貨下落を食い止めようと積極的に買い支えを行います。しかし、この為替介入も虚しく終わり、8月17日、マレーシアリンギットは変動相場制に移行。同月、マレーシア政府はIMFから合計172億ドルの緊急融資を受ける決定をします。その後、数ヶ月に亘りマレーシアリンギットは下落し続けます。この影響を受けてマレーシア企業の財務状況は急速に悪化し、金融機関の不良債権は急増。金融システムは全体的に劣化し、マレーシア株式市場が暴落します。これに対して、マレーシア政府は国境を跨いだマレーシアリンギット取引を厳格に管理すると共に、1998年9月2日、1ドル3.80マレーシアリンギットの固定相場制度を暫定的に実施しました。

さて、インドネシアルピアは他のアジア通貨とは異なり外国為替市場で毎年数%程度切り下げられてきた経緯があり、インドネシアの経常収支は健全な状態で理論的には通貨危機に陥る状態ではありませんでした。この様な背景からインドネシアルピアの値動きは、7月2日以降のタイバーツ、フィリピンペソ、マレーシアリンギットの急落とは様相が異なり、シンガポールドルと同様、比較的安定した動きを見せていました。ところがインドネシアにもアジア通貨危機は伝染して行きます。

7月11日、アジア通貨全般に対する売り圧力の高まりに対して、インドネシア政府はインドネシアルピアの許容変動幅を従来の8%から12%に拡大すると共に、7月21日から7月30日まで約10億ドルの市場介入を実施。8月14日、インドネシアは為替変動幅を固定する管理フロート制度から変動為替制度に移行。しかしこの通貨防衛も虚しく、インドネシアルピアは暴落します。米ドルベースの借り入れが多かったインドネシア企業は為替差損が増加。9月には企業業績悪化の予測から、インドネシアの株式市場も暴落。その結果、インドネシア国内経済も急速に悪化し食品などを中心としたハイパーインフレに直面します。10月8日、通貨危機に巻き込まれたインドネシア政府はIMFからの支援を仰ぐこととし、10日31日、IMFはインドネシアに対する約392億ドル緊急救済融資を決定します。

他方、シンガポールは外国資本誘致政策を推進し極めて健全なマクロ経済構造であった上、政府による厳格な為替レートの管理を行っていた為にアジア通貨危機の余波による壊滅的な経済の崩壊までには至らず、他のアジアの国々に比べて比較的軽微な約1割程度の通貨下落に留まりました (注7)

アジア通貨危機北上

前出のバンコク週報水谷昇記者 (注7)の調べによれば、6月末比の10月21日時点の各国為替相場下落率は、タイバーツ55%、インドネシアルピア49%、マレーシアリンギット32%、フィリピンペソ28%、シンガポールドル10%、台湾ドル8%。これに対して、韓国ウォンの下落率は3.8%、香港ドルはほとんど変化がありませんでした。1997年10月下旬、アジア通貨危機は東南アジア地域から北上し始めます。まず1ドル7.8香港ドルというドルペッグ制を堅持している香港ドルが大きく売られ始めます。これに対し、香港金融管理局は10億ドル以上の外貨準備を投入して香港ドルの買い支えを行うと同時に、金利を上昇させることによって香港ドルの防衛を実施します。これにより、香港ドルは他のアジア通貨とは異なり変動相場制への移行は回避しましたが、香港ドル金利の上昇の余波を蒙った株式市場は暴落します。

また、充分に整備された社会的インフラを持ち経済規模で世界上位に位置していた韓国の通貨ウォンも、中国、香港、東南アジアへの投資の資産価値の下落、経常赤字の増加、財閥の弱体化という諸問題に対する懸念から、1997年10月下旬、香港ドルの下落とほぼ同時期に売られ始めます。11月18日には、1ドル1139韓国ウォンまで下落。11月21日、韓国政府はIMFに対する緊急支援を要請。12月4日、IMFは210億ドル緊急融資を実施すると共に、12月18日には日本銀行も韓国に対する12.8億ドルのブリッジローンを提供します。1997年の12月末にかけて1ドル1800韓国ウォンまで下落する結果となり、IMFは韓国の経済構造変革にも介入。現代グループなどの財閥解体が実施されました (注7)

通貨危機の発生メカニズムの変化

1973年、先進各国が変動相場制へと移行する際、「為替相場は各国の経済状態に応じて時々刻々と小刻みに修正されるため、固定相場制の時代と比較して為替相場はより安定する筈である」という見解に対して、異議を唱えるマクロ経済学者は稀少でした (注9)。しかし通貨危機に直面したアジア各国は実質的な米ドル連動為替相場を採用していたことから、実体経済と為替相場との歪みが発生するメカニズムが温存していました。その結果、1997年7月、タイから始まった通貨暴落は近隣ASEAN諸国のマレーシア、フィリピン、インドネシアにも連鎖的に拡大。更に同年10月には、アジア四小龍の香港と韓国にも飛び火します。

これらのアジア諸国では通貨防衛に対する政治的意思決定を積極的に行ったものの、その努力虚しく通貨の暴落、株式の暴落、不動産価格の暴落が発生。通貨危機から金融危機へ、そして経済危機から社会全体の危機にまで至りました。金融機関を含む多くの企業は破綻に追い込まれ、通貨危機が発生した1997年、アジア地域の経済成長率は鈍化。翌1998年、大幅なマイナス成長となりました。さて、アジア通貨危機の発生によってマクロ経済の分野では通貨危機の発生メカニズムに対する研究が活発になります。たとえば岡本至博士 (注10)は、インフレ率の観点から1980年代の通貨危機と1990年代の通貨危機を区別して以下のような分析をしています。

(1)1980年代の通貨危機
アルゼンチン(1981年第2四半期と1989年第2四半期の2度)、ニカラグア(1985年第1四半期と1988年第1四半期の2度)、ボリビア(1982年第4四半期)、メキシコ(1982年第4四半期)、ベネズエラ(1989年第1四半期)などのラテンアメリカを中心とした地域で発生した通貨危機。これらの通貨危機が起こる前の四半期のインフレ率は、低いものでさえ30%台(ベネズエラ1989年37.5%、最高のものはアルゼンチン1989年383.9%)となっている。

(2)1990年代の通貨危機
メキシコ(1994年第4四半期)、インドネシア(1997年第3四半期)、タイ(1997年第3四半期)、韓国(1997年第4四半期)、ロシア(1998年第3四半期)などのメキシコ、アジア、ロシアで発生した通貨危機。これらの通貨危機が起こる前の四半期のインフレ率は、低いものが韓国の1997年第4四半期4.0%、高いものですらロシアの1998年第3四半期の7.3%となっている。

このことから1980年代の通貨危機では各国のマクロ経済構造の不健全性が通貨危機の原因に深く関っていると考えられるのに対し、1990年代に入ると各国のマクロ経済構造は基本的に健全である状況下で、1980年代とは全く別のメカニズムによって通貨危機が起きたと捉えるのが自然であると考えられるのです。この点に対してマサチューセッツ工科大学(MIT)経済学部教授のレスター・サロー博士 (注9)は、1990年代にフランスやイギリスで起きた通貨危機も、経済状態が健全であったところに、突然、降って湧いたような危機であったと指摘。また、小川英治博士(注11)は、1990年代以降の通貨危機が起こる原因およびそのメカニズムは「金融のグローバル化」によって変化していると指摘しています。

通貨危機理論の変化と投資銀行のグローバル情報システム

国宗浩三博士 (注12)は、通貨危機発生メカニズムを説明する経済理論を、為替投機(speculative attack)の理論、伝染(contagion)の理論、そして群衆行動(herding behavior)の理論という3種類に分類しています。まず「為替投機の理論」は政府の為替政策の将来的な変化を予測して投機行動に走る為替投機家の行動に着目する理論から誕生し、為替投機家による投機行動に対応する政府の行動も考慮に入れる理論へと発展。為替市場が「良い均衡」から「悪い均衡」へと飛躍する時点で通貨危機が発生すると説明する理論があります。

しかし、これだけではアジア通貨危機のような近隣諸国の通貨への危機の拡大は充分に説明できないことから「伝染の理論」といわれるものが出現します。さまざまな新興市場諸国に対する貸付ポートフォリオを抱える「共通の貸し手」としての先進国の投資家や銀行は、ある国で通貨危機が起きた時点で資金運用に何らかの問題を抱えることとなり、それを解決させる為に他の国に対する貸し付けも絞りこむ行動に向かうことによって通貨危機が伝染するとする理論です。それとは別に、投資家はマーケットと立ち向かう時に必ずしも合理的な判断を行うわけではないとする投資家心理に着目する理論や、ファンドマネージャーがマーケットと立ち向かう時に、行動のプライオリティは運用成績ではなく組織内評価に置かれるとする組織行動学的な理論、あるいはファンドマネージャーがマーケットが変動した時点で、情報未確認状態のままでもマーケットの動きに合わせた行動を起こすとする群集行動に着目した理論などがあります。

このように通貨危機を説明する経済理論は未だ議論の渦中にあり (注12,13)、これといった一定の理論が確立されている訳ではありません。しかし、投資銀行がグローバル情報システムを構築し、それを活用して国境を越えた巨額の資金移動を開始した時期と、アジア通貨危機が発生した時期とが見事に符合していること、通貨危機を説明する理論として伝染の理論や群集行動の理論などが出現してきたことなどから、本シリーズで着目している投資銀行のグローバル情報システムの構築と通貨危機のメカニズムの変化とは深い関係性があると見ています。さて次回は、アジア通貨危機前後からグローバル金融市場で巨額投機を行う組織として注目を集め始めたヘッジファンドについて分析します。

2008年9月4日
写真
脚注
  1. エズラ・F. ヴォーゲル(1979)、『ジャパンアズナンバーワン―アメリカへの教訓』、阪急コミュニケーションズ、ISBN: 9784484000497、1979年6月
  2. エズラ・F. ヴォーゲル(1993)、『アジア四小龍―いかにして今日を築いたか』、中央公論社、ISBN: 9784121011244、1993年4月
  3. 国際機関日本アセアンセンター(2008)、『ASEANに関する基礎知識』、www.asean.or.jp
  4. 三浦潔(2001)、『第3章 タイの通貨バスケット制度』、財団法人国際通貨研究所、「通貨バスケット制実施国の実態調査」、pp. 23 - pp. 31、2001年2月
  5. 本多正勝(2000)、『アジア通貨危機と外国為替システム』、会計検査研究、第22号、pp. 81 - pp. 98、2000年9月
  6. 世界銀行(1994)、『東アジアの奇跡』、東洋経済新報社、ISBN:9784492441664、1994年5月
  7. 水谷昇(1997-2000)、『タイ国通貨危機』、バンコク週報、www.bangkokshuho.com
  8. 日本経済新聞(1997)、『タイ、変動相場制に シンガポール市場 バーツが暴落』、日本経済新聞、1997年7月2日、夕刊
  9. レスター・C. サロー(1996)、『資本主義の未来』、阪急コミュニケーションズ、ISBN: 9784484961125、1996年10月
  10. 岡本至(2006)、『国際金融制度の非連続性と通貨制度論』、文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要、pp.273 - pp. 295
  11. 小川英治(2004)、『第12章 通貨危機と国際通貨制度改革』、有斐閣コンパクト、「現代外国為替論」、pp. 253 - pp. 277、2004年12月
  12. 国宗浩三(2006)、『第5章 通貨危機の理論-マクロ経済学の潮流との関係を中心として-』、独立行政法人日本貿易振興機構アジア経済研究所、「発展途上国のマクロ経済分析序説」、pp. 89 - pp. 114、2006年3月
  13. 副島豊(2000)、『金融・通貨危機が残した課題-市場参加者の行動様式と取引情報の透明性-』、日本銀行金融市場局ワーキングペーパーシリーズ、2000-J-1、pp. 1 - pp. 44、2000年1月

2008年9月4日掲載

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