RIETI海外レポートシリーズ 国際金融情報スーパーハイウェイの建設現場から

第八回「投資銀行におけるオフショアリングとアウトソーシングの建設期(1)」

松本 秀之
コンサルティングフェロー

1970年から1989年までの「胎動期」、1990年から1994年までの「黎明期」に続き、今回から1995年から1999年までの「建設期」に起きた現象をレポートします。あるエコノミストは、IT革命とグローバリゼーションによって現代資本主義の仕組みが劇的に変化しはじめたのが、「1995年」であると指摘しています。本シリーズでも同様に、「1995年」が投資銀行業界におけるグローバル情報システムマネジメントの劇的なパラダイムシフトが始まった年と捉えています。このパラダイムシフトは日米欧で異なった方向に進みました。そこで今回は、このパラダイムシフトの原動力となったアメリカの金融および通信分野の規制緩和、そして同時期の日本の金融行政と金融機関の変化を分析します。

アメリカの金融行政のパラダイムシフト

昨年2007年3月に出版された、エコノミスト水野和夫氏の著書『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(注1)。この中で著者は、IT革命とグローバリゼーションという2つの要因によって国家と資本との関係性が劇的に変化しはじめたのが、「1995年」であったと捉えています。この変化の素地を作ったのが1993年の1月に誕生したアメリカのクリントン政権でした。クリントン政権は発足当時から「金融とIT」を経済政策の中心に据えることで、オールドエコノミーからニューエコノミーへのパラダイムシフトを推進して行きます。

2001年にノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツが著書『人間が幸福になる経済とは何か』(注2)の中で指摘しているように、クリントン政権時にニューエコノミーへのパラダイムシフトをもたらした中心的な改革は、電気通信の分野と金融の分野における規制緩和でした。まず、1996年2月に電気通信法が約60年ぶりに改正されることで、従来の電話だけでなく先進技術のインターネット接続を含む通信分野全般に亘るユニバーサルサービス政策が推進されます(注3)。また1999年11月に金融制度改革法(GLB法)が成立することで、1933年6月以来60年以上に亘りグラス・スティーガル法によって規制されてきた、商業銀行と投資銀行の相互参入が可能となりました。

このグラス・スティーガル法による規制の淵源は、1929年10月24日に起きたウォール街ニューヨーク株式市場における株価の大暴落が発端となった、1930年代の世界恐慌時に遡ります。世界恐慌の影響によって多くの銀行が次々に破綻したことを受けて、当時のフランクリン・ルーズベルト政権は、預金と融資を中心業務とする商業銀行と、債券や株式などの証券の発行を中心業務とする投資銀行の業際とを分断する、グラス・スティーガル法による改革を行います。このグラス・スティーガル法の実施によって商業銀行から分離された投資銀行は、企業に対する投資顧問業を中心としたビジネスを確立。1940年代にはモルガン・スタンレー、ファースト・ボストン、ディロン・リード、クーン・ロエブという4大投資銀行がマーケットシェアを拡大していきます。

1960年代、商業銀行は預金と融資だけに頼る伝統的な商業銀行のビジネスモデルだけでは、収益を伸ばす事が困難になり、投資銀行業務への進出を企てます。1970年代には、先駆けとして投資銀行業務参入を行った、商業銀行ファースト・ナショナル・シティ・バンク(現在のシティ・バンク)のケースに対する見解が、通貨監督官局、米国投資会社協会、裁判所との間で分かれます。しかし1980年代に入ると、商業銀行による投資銀行業務への参入を認めるとするFRB(連邦準備制度理事会)の認可を裁判所が支持するケースが相次いだことで、グラス・スティーガル法の規制は、事実上FRBによる裁量に依ることが多くなり徐々に緩和に向かいます。1980年代後半からは、米国の議会においてグラス・スティーガル法の改廃に関るいくつかの法案が提出される過程で、規制緩和に関る議論が継続的に行われ深まって行きます。そして遂に1999年11月に金融制度改革法(GLB法)が成立したことによって、商業銀行による投資銀行への参入が認められました(注4)

日本の金融行政のパラダイムシフト

1995年を挟む前後数年の間、日本は政治の分野において与党・自由民主党と野党・日本社会党の二大政党が対立するという所謂55年体制の枠組みから、多党連立によって政権が運営される枠組みへと、大きな転換が行われていきます。1993年8月誕生の細川内閣、翌1994年4月組閣された羽田内閣まで、自由民主党は一時的に下野しました。しかし同1994年6月、それまでイデオロギー対立をしてきた日本社会党、そして新党さきがけと連立することで村山内閣を誕生させ、自由民主党は再び与党に返り咲きます。

その後1996年1月橋本内閣、1998年7月小渕内閣、2000年4月森内閣、2001年4月小泉内閣、2006年9月安倍内閣そして2007年9月福田内閣の誕生の過程で、自由民主党は連立する相手をさまざま変化させながら政権を運営します。この間、金融問題は政治運営上の最重要課題の1つとして取り扱われます。1996年発足した橋本内閣の時期には、日本の金融市場の活性化のために「フリー、フェアー、グローバル」の3原則を掲げ、英国サッチャー政権が行ったビッグバン改革を参考とした、日本版ビッグバン改革が推進されます。

他方、行政の側面では1868年の明治維新以後に近代日本の枠組みを構築し始めた時代から1990年代に至るまで、大蔵省が国家の財務行政および金融行政を統括してきました。この100年以上に亘る長い期間、大蔵省は都市銀行、地方銀行、信用組合、信託銀行、証券会社、生命保険そして損害保険などの日本の各種金融業界全般に対する金融行政を、所謂、護送船団方式によって行ってきました。

1990年以後のバブル経済崩壊の後始末に取り組む過程で、不良債権処理が遅々として進まない原因の1つとして、民間金融機関と大蔵省との癒着の存在があることが指摘されたことを受けて、財務行政と金融行政との分離が政治の論点として浮かび上がります。そして橋本内閣から引き継いだ小渕内閣設立の年である1998年以後、日本の金融行政では「大蔵省主導の護送船団方式から金融庁主導による競争原理導入へ」という歴史的パラダイムシフトが起こります。

その結果、まず1998年6月に新たに金融監督庁が、民間金融機関などに対する検査や監督あるいは証券取引等の監視を行う行政機関として、総理府の外局に創設されます。同年12月に金融監督庁は、金融再生委員会の設置に伴い、金融再生委員会の管理下に移行します。そして2000年7月に金融監督庁は、大蔵省から金融制度の企画立案業務を受け継ぐことで、金融庁に改組されます。翌2001年1月に金融庁は、金融再生委員会の廃止および中央省庁再編に伴い、内閣府の外局となり、他方、大蔵省は財務省に改組され、現行の金融財務行政の枠組みとなります(注5)

日本の金融機関の破綻、縮小そして統合

終戦後から約7年に亘ったアメリカの占領時のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本の銀行業界解体は、商業などの他の産業の解体と比較すると軽微なものでした。その結果、戦前の財閥系銀行はGHQによる財閥解体の波にのまれること無く存続します。日本の政府は戦後復興を推進するために金融業界を保護すると共に、外国為替専門銀行や長期信用銀行などの政府系金融機関を創設します。高度経済成長の過程で日本国内では財閥が息を吹き返すと同時に、グループ内の企業同士で株式を互いに持ち合う系列関係が形成されていきます。

日本の政府の金融保護政策のもとで銀行、生命保険、損害保険、証券会社などの金融業界は固定手数料を稼ぐ事ができる仕組みを活かし資本力を増強すると共に、外国資本から日本の産業を保護する事を目的として日本企業の主要株主となります。特に日本の財閥系都市銀行はグループ内企業の主要株主という立場から財閥系列組織の頂点に位置し、財閥グループ内のリーダーとしての役割を担います。戦後、日本経済は安定的そして継続的に成長を続け金融資本が日本の国内市場に蓄積された結果、1980年代後半まで日本の銀行業界は高収益を稼ぎ出す事のできる安定した産業でした。

しかし1995年以降、日本の金融機関は劇的に変化します。この変化は端的に「破綻、縮小、統合」という言葉で要約できると思います。1990年代に入りバブル経済が崩壊すると、日本の金融機関は今まで経験をしたことの無い経営判断を迫られることになります。特に銀行業界は不良債権処理に戸惑い、また証券業界も株価下落から収益性が悪化。その結果、いくつかの伝統的な長期信用銀行、都市銀行あるいは証券会社が破綻への道を進んで行きました。

1997年11月には、北海道拓殖銀行と三洋証券が経営破綻し、また山一證券が自主廃業します。翌1998年には前述の小渕内閣が発足当初の7月から約3カ月間に亘り、所謂、金融国会と呼ばれる臨時国会を開き、金融再生法を10月に成立させます。これを受けて同月中に日本長期信用銀行が、更に2カ月後の12月に日本債券信用銀行が、この金融再生法によって特別公的管理下に置かれ一時国有化されました。また財務的に体力不足に陥った都市銀行や証券会社で経営健全化が行われる過程で、収益性の低い部門は縮小あるいは廃止されることになりました。そのなかにはニューヨーク、ロンドン、ブリュッセル、フランクフルト、チューリッヒ、香港、シンガポールそしてシドニーなどの各拠点を閉鎖し、海外の市場から撤退する例がありました。

加えて、1996年4月の三菱財閥グループの中核的都市銀行である三菱銀行と外国為替専門銀行であった東京銀行との合併による東京三菱銀行の誕生の後、金融機関の統合の流れが一気に加速して行きます。2000年9月みずほホールディングスの設立によって第一勧業銀行、富士銀行そして日本興業銀行が統合、2001年4月には三井財閥グループと住友財閥グループの中核的都市銀行である三井銀行と住友銀行が合併することで三井住友銀行が誕生します。その結果、商業銀行、信託銀行そして証券会社という3業種を傘下に収める、現在の3大金融グループの基礎が出来上がります。

日系と欧米系の情報システム戦略の方向性の違い

1993年に発足したクリントン政権は、「金融とIT」を中心としたニューエコノミーへのシフトを狙い、世界恐慌後の1930年代に作られた通信と金融の分野の伝統的な規制を、約60年ぶりに大幅に緩和する方向性に踏み切ります。アメリカの実業界では金融の中心地ニューヨーク・ウォール街と、IT革命の電源地カリフォルニア・シリコンバレーの交流が活発になります。また学術界でも東海岸の「金融の智恵」と西海岸の「ITの智恵」のコラボレーションが起こります(注2)。新たに創造された金融におけるIT活用の智恵は、金融工学分野におけるデリバティブ取引手法の研究のみならず、グローバル金融ビジネスモデル、マトリックス組織構造、異文化マネジメント、ビジネスプロセスリエンジニアリング、ITプロジェクトマネジメント、オフショアリングそしてアウトソーシングなど広範囲に亘りました。そしてアメリカ系投資銀行はグローバル情報システム戦略を、経営の最重要課題の1つと位置付け、アメリカ、ヨーロッパそしてアジアの各拠点間を情報通信ネットワークで繋いで行きます。またヨーロッパ系の投資銀行も、アメリカ系が先導したグローバル情報システム構築の流れに追随します。

他方1995年以降、日本の金融グループはバブル経済崩壊以降の不良債権処理、大蔵省型護送船団型行政から金融庁型競争原理型行政への変化、海外からの撤退そして金融再編という荒波の中で、情報システム部門では「合併にともなうシステム統合」と「金融制度改革に対するシステム変更」に人的資源を吸い取られて行きます。このことから日本の金融グループは、海外拠点に情報システムネットワークを拡大する時期を逃し、結果としてグローバル情報システム戦略の分野で欧米系投資銀行の後塵を拝することとなります。そして2003年に日本では金融機関の経営悪化に伴う金融危機が再燃します。

さて次回は、1995年からのオフショアリングとアウトソーシングの建設期に、欧米系投資銀行が取り組んだグローバル情報システム戦略のケースを、ご報告いたします。

2008年4月16日
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脚注
  1. 水野和夫 (2007), 『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』, 日本経済新聞出版社, ISBN:9784532352455
  2. ジョセフ・E・スティグリッツ (2003), 『人間が幸福になる経済とは何か』, 鈴木主税翻訳, 徳間書店, 2003年11月25日出版, ISBN: 4198617619
  3. 清原聖子 (2003), 『近年のアメリカ電気通信政策をめぐる政治過程 ― 公共利益の表出メカニズムを中心に ー』, 電気通信普及財団研究調査報告書第20号, 5.電気通信に関する国際関係からの研究調査, pp. 224 - pp. 231
  4. 林 宏美 (2000), 「米国の金融制度改革法の論議」, 知的資産創造, 2000年3月号, pp. 36 - pp. 47
  5. 金融庁 (2008), 「金融庁パンフレット」, 金融庁ホームページ

2008年4月16日掲載

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