中国経済新論:中国経済学

市場経済の旗手:呉敬璉

関志雄
経済産業研究所

「一部の人は、市場経済さえ成立すれば、自然に経済が成長し、生活水準が上昇すると考えている。しかし、市場経済にも「良い市場経済」と「悪い市場経済」がある。…計画経済から市場経済への移行過程において、さまざまな分かれ道が待ち構えている。その一つは、規範的・法治的な市場経済の方向から離れ、クローニー(縁故)資本主義に導く道である。」

呉敬璉

はじめに

呉敬璉(Wu Jing Lian)は現代中国における代表的な経済学者の一人である。1930年1月24日江蘇省南京市に生まれ、1954年復旦大学経済学部を卒業した。同年中国科学院経済研究所に配属された。1984年より中国の国務院発展研究センター(1985年7月まで、その前身である国務院経済研究センター)で比較経済学と社会主義経済改革の理論や政策の総合研究に従事し、中国経済体制改革の理論の構築や政策制定に直接携わってきた。改革開放当初から一貫して競争原理に基づく市場経済の形成の必要性を主張し、今日の中国経済改革はほぼ彼の提言通りに展開されている。1990年代初頭に起こった市場経済の導入を巡る論争において、呉敬璉は計画経済を支持する人たちから「呉市場」と揶揄されたが、1992年の鄧小平氏の南巡講話以降は、市場経済は中国が国を挙げて目指す経済体制改革の目標となり、「呉市場」の名声は全国に知られるようになり、市場経済の旗手としての呉敬璉の地位は不動のものとなった。呉敬璉は、70歳を超えるというご高齢にもかかわらず、中国における「良い市場経済」の確立を目指し、現在も改革の最前線で精力的に活躍し続けている。

一、改革開放とともに歩んだ経済学者

改革開放以降、呉敬璉は経済学者として、中国の改革と発展に大いに貢献してきた。これを可能にしたのは、中国が改革開放に転換してまだ間もない頃から、彼はいち早くマルクス経済学と決別し、近代経済学の方法論を身に着けたからである。

1)マルクス経済学から近代経済学への転向

1950年からの4年間の大学生活において、呉敬璉はマルクス・レーニン主義の洗礼を受けて、社会主義に対して強い信念を持つようになった。しかし、大学卒業後、中国科学院経済研究所(1978年以降、中国社会科学院経済研究所)に就職した最初の頃、彼は現実の経済運営が旧ソ連式の社会主義政治経済学の理論とはかけ離れていることに気がついた。伝統的社会主義経済体制に対する国内外からの疑問の声が相次いでいた中で、呉敬璉は自身の体験から、旧ソ連から輸入された伝統的社会主義経済体制への信念が揺らぎ始めた。

「文化大革命」の期間は、社会と経済運営の面においても無秩序の混乱状態が続き、学者の研究と言論の自由も奪われていた。呉敬璉は多くの共産党幹部と同様に、農村に「下放」され、労働による思想改造を受けることになった。下放先では、同じ「反革命分子」という立場にあり、早くから計画経済の問題点を指摘し、市場化改革を提唱した中国科学院経済研究所の顧准氏(1915-1974年)を師として仰いでいた。顧氏は、文化大革命の終結を待たずに亡くなったが、呉敬璉は後に、顧氏のことを「自分にとって、人生の道を変えた恩師」であると振り返っている。

1976年に「四人組」が逮捕され、10年以上続いた「文化大革命」が終結した後、呉敬璉は職務に復帰した。彼は多くの論文を通して、左派の「封建的社会主義」と専制体制の本質を批判した。この時点において、呉敬璉は、他の中国の経済学者と同様に旧体制の弊害がわかっていても、改革を如何に進めていくべきかについてはまだ模索の段階にあったが、分権化を中心とするそれまで部分的に行われた改革の限界を誰よりも早く察知していた。

中国では、1958年に実施された「経済管理体制改革」により、中央政府が握っていた企業の管轄権およびその他の計画の権限が下位の地方政府に移管された。また、1970年代末からの改革内容は、国有企業における自主権の拡大から始まった。「放権譲利」(企業や地方政府に自主権を与え、利潤を譲渡する)が実施されてから、企業の活力や従業員の積極性は確かに向上していたが、従業員に対する賃金の伸びは生産性の上昇を大きく上回るようになり、企業の業績が悪化した。企業の赤字を補填するために財政赤字が大幅に拡大し、インフレ率も激しく上昇した。これらの問題を見て、呉敬璉は計画管理の緩和と利潤留保の実施などの手段だけでは経済運営の状況を改善し、経営効率を高めることは不可能であることに気づいた。

1980~81年に、ポーランドの改革派経済学者W.ブルース(Wlodzimierz Brus)とチェコの著名な経済学者O.シーク(Ota Sik)は、相次ぎ中国で改革に関する講演を行った。彼らの講演は、呉敬璉を含む中国の経済学者に、東欧における経済改革の経験と新たな発想をもたらした。経済体制は補完しあう一連の関係によって構成されるため、バラバラに行われる部分的な改革を通じてでは体制全体を変えていくことができないという観点において、二人の経済学者は一致していた。全面的改革の必要性を訴えるこのような主張は、一部の政策調整にとどまる経済改革を考えていた中国の経済学者に大きな衝撃を与え、後に形成された呉敬璉の「全面的改革論(または「協調的改革論」)」の思想の芽もこの時点から萌えはじめた。

呉敬璉は東欧の経済学者の分析を通して、近代経済学に魅力を覚え、改革の問題を分析するために、比較制度分析の方法が必要であると痛感した。そこで、呉敬璉は劉国光、董輔?、趙人偉などの学者と一緒に比較制度分析の研究に没頭した。ブルースやシークの著作を大量に読んだが、呉敬璉は彼らによる社会主義経済体制改革に対する回答に満足していなかった。たとえば、現実にブルースの「分権方式」や「統制市場に伴う計画経済」(planned economy with regulated market)は、計画と市場を結合し、社会主義経済を効率よく安定させることを保証できないのである。

長い間、社会主義国家においては、経済制度に関する理解が間違っていたため、体制改革の正しい方向を見つけることができなかった。こうした反省に立って、呉敬璉は、(1)経済体制の機能は何か、(2)経済体制の優劣を判断する基準は何か、(3)経済体制はどのような条件の下で効率よく運営することができるのか、(4)経済体制を選択するにあたって、どの原則に従うべきか、という経済体制にかかわる根本的な問題に対する答えを求めて、留学するという道を選択した。

1983年1月、呉敬璉は53才の時、客員研究員として米国エール大学経済学部と社会政策研究所(ISPS)で海外での研究生活を始めた。エール大学において、呉敬璉は近代経済学を学びながら、東欧諸国の改革の歴史と現状を研究した。大量の近代経済学の文献を熟読した上で、呉敬璉はそれまでの近代経済学に対する認識が誤りであったと悟った。元来、経済学は、資本主義や社会主義といったイデオロギーとは区別しなければならない科学である。マルクスの『資本論』の出版から今日まで、経済学はすでに新古典派経済学とケインズ経済学の革命を経験してきた。中国は長期にわたり世界と隔絶していたため、国内ではそれらのことがほとんど知られていなかった。海外での研究生活を通じて、呉敬璉は自分の短所を補うために、他人の長所を取り入れるべきであると強く認識した。長年にわたった勉強や研究、そして思考を通して、呉敬璉はいかなる改革も、すべて市場志向に従わなければならないという結論に辿りついたのである。

2)市場経済化改革の水先案内人

米国での研究生活を終えて帰国した呉敬璉は、改革開放政策の立案の最前線に立ち続けた。以下、呉敬璉が参加した最も重要な研究課題を振り返ってみよう。

1984年7月に、国務院発展研究センターの前身である国務院経済研究センターで、馬洪氏(1920年生まれ、中国社会科学院院長、国務院発展研究センター主任を歴任)が研究リーダーとなっていた「社会主義商品経済に関する再考」の報告書の執筆に参加した。同報告書は中国共産党第12期中央委員会第3回全体会議(三中全会)において商品経済改革の目標を確立するための理論的根拠を与えた。

1986年4~6月、国務院経済改革方案室副主任であった呉敬璉は、グループ・リーダーとして、後に「協調改革論」と呼ばれるようになった考え方に基づいて、中国における初めての経済体制改革ロードマップを起草した。この方案の修正案は1986年8月に中国共産党中央委員会財政経済専門委員会によって批准された。この方案は最終的に実行されなかったが、改革に関する設計の先駆けとなり、1994年の改革の下準備ともなった。また、同方案の起草に参加した若手メンバーからは、周小川・中国人民銀行総裁をはじめ、李剣閣・国務院発展研究センター副主任、楼継偉・財政部副部長、郭樹清・中国建設銀行董事長など、高級官僚として経済改革をリードする人材が輩出されている(BOX1)。

1992年4月に、呉敬璉は中国共産党中央委員会に対して、社会主義市場経済の確立を中国における経済改革の目標にすべきだと提案した。この提案は同年10月に開催された中国共産党第14回全国代表大会(第14回党大会)で受け入れられた。

1992~93年の間に、呉敬璉が研究リーダーを務めていた「中国経済体制改革に関する全体的設計」研究グループは報告書をまとめ、後に『市場経済に向けた全体構想とその方案の設計』(中央編訳出版社、1996年)として出版された。また、財政、租税、金融、為替管理、国有企業、社会保障と市場システムなどに関する改革の方案をも提出した。これらの研究成果は、中国共産党第14期三中全会において制定された「社会主義市場経済体制確立の若干の問題に関する中共中央の決定」にとって、重要な参考となった。

1997年5月に、呉敬璉は国務院発展研究センターの研究グループを率いて、中国共産党中央委員会に、「国有経済の戦略的再編の実現」という研究報告書、および「社会主義の理論を新たなレベルに引き上げる――社会主義の再定義の問題について」という研究報告書を提出した。この2つの研究報告書は第15回党大会における国有企業の民営化を実質上容認する政策転換の理論的根拠を提供した。

1998年4月に、国有企業の一時帰休者の大量発生という厳しい情勢に直面し、呉敬璉は中小企業を支援し、発展させることを大きな戦略として確定するべきだと示した。この提案は有識者の共感を得、中小企業が急速に発展した。

1999年に、呉敬璉は国務院発展研究センターの「国有企業改革と発展」という研究グループを率いて、中国共産党第15期四中全会のために一連の重要な提案を提案した。そして、現代企業には有効なコーポレート・ガバナンスが重要であるという考えを四中全会の「決定」に書き入れた。

2003年、SARSの発生後、責任の所在が明確なサービス型の政府の建設を呼びかけ、政務は公開され、公共の情報は透明化されるべきだと主張した。

これらの研究と提案が高く評価され、「経済学原理を中国の現実と結び付け、国家発展・改革開放政策制定に貢献した」ことを理由に、2005年に、呉敬璉(75才、当時)は、改革開放の初期から90年代の前半にかけて「社会主義市場経済」の確立のために理論と実践の両面から尽力した薛暮橋(100才)、馬洪(84才)、劉国光(81才)とともに、第一回「中国経済学賞」(中国マクロ経済学会・中国経済体制改革研究会が共同で創設)を受賞した。

二、市場経済化を理論と政策面でサポート

市場経済を実現するために、呉敬璉は国有経済の縮小、民営経済の発展、多元的所有制度に基づく平等競争、共同発展を主張してきた。また、法治社会の確立や立憲政治と民主制度の実現も訴えている。呉敬璉によるこれらの主張の相当の部分は政府の政策に反映され、中国の経済改革に対して大きく影響を与えてきた。

1)市場経済化改革の必然性

中国では、計画経済かそれとも市場経済かという改革の目標をめぐって、激しい論争が繰り返されてきた。「計画経済が主となり、市場調節は補助的に行う」(1978~84年)、「公有制に基づく計画的な商品経済」(1984年)、「計画経済と市場調節の有機的結合」(1989年)、「社会主義市場経済」(1992年以降)など、改革の目標を表すさまざまな表現がその論争の過程において変化してきた。こうした中で、呉敬璉は終始「市場経済化」という改革方向を主張してきた。市場経済が計画経済より優れていることを論じる際、彼は、イデオロギーに拠るのではなく、二つの制度におけるそれぞれの資源配分の取引コスト(情報コストとインセンティブコストを含む)を比較しながら、持論を展開している。

2)協調改革論

改革の方向と目標を明確にしていれば、次は改革戦略を選択しなければならない。1985年に、当時の「企業を活性化することは経済体制改革の出発点である」という主張に対して、呉敬璉は企業、市場およびマクロ調整という「三位一体の改革」の全体像を提示した。企業改革に関しては、新しい体制の下で、企業は旧体制の中での消極的な計画執行者から利潤の極大化を追求する市場主体に転換していくべきだと主張した。市場改革に関しては、商品市場だけではなく、生産要素市場も対象とすべきである。マクロ調整に関しては、旧体制では、マクロ調整は中央政府が指令的計画の下達を通じて、地域間、産業間および企業間での資源配分を直接決定するものであった。しかし、新しい体制の下では、社会資源が市場メカニズムを通して配分されるべきであり、政府による国民経済への調整は、財政政策、金融政策と所得再分配政策を通じて間接的に行わなければならない。

呉敬璉をはじめとする学者らの提示した上述のような主張は、「全体的改革論」あるいは「協調改革論」と称されており、1980年代半ば以降の改革理論と政策設計の中で最も代表的なものとなった。

3)国有経済の構造調整と現代企業制度の推進

国有企業改革に対する呉敬璉の考え方は、長期にわたって変化してきた。1950年代半ばごろ、国有企業の「管理体制改革」に参加して以来、呉敬璉はかなり長い期間において「放権譲利」という考えに沿って改革の方法を考えていた。「文化大革命」が終わってからも、最初の数年間は、孫冶方(1908-1983年、元中国科学院経済研究所所長)が提唱していた「大権独攬、小権分散」(大きな権限を握り、小さな権限を分散させる)という方式に従い、資源の計画配分という構造を維持しながら国有企業に自主権を与え、それによってそれらの企業のモチベーションを高めるメカニズムを模索し続けた。

80年代半ばから、近代経済学における企業理論に精通するにつれて、呉敬璉は国有企業改革の正しい方向が「放権譲利」ではなく、新たな企業制度を創設することにあると考えを改めた。特に、大中型国有企業は所有権と経営権が分離する現代企業に再編する方向に向けなければならないと考えるようになった。

1986年末から、中国は大中型国有企業に「株式制」を実験的に導入し、現代企業制度の創設を模索してきた。しかし、現代企業制度の本質についての理解が不十分であったため、目標は達成できなかった。80年代末から90年代初めにかけて、呉敬璉は「全体的改革論」の論者達と多くの時間をかけて現代企業制度とコーポレート・ガバナンス理論を研究した。多くの研究成果によって、彼らは国内において企業理論と現代企業制度に関する研究をリードするようになった。これらの研究は、企業による所有者の明確な人格化の確保、従業員による内部支配(インサイダー・コントロール)の防止、経営者に対する監督とインセンティブの重要性や、証券市場のコーポレート・ガバナンスの強化に果たす役割などを明らかにさせることを通じて、後に企業改革に多くの示唆を与えることとなった。

4)社会主義を実現するための前提となる多元的な所有制度

旧ソ連の政治経済学体系では、「国有制こそ公有制の最高形式であり、社会主義が目指すべき目標である」となっているが、これが教条となって、社会主義国家における市場経済体制への移行を妨げている。1997年の第15回党大会の前、呉敬璉は、社会主義の本質とは徐々に共同富裕を実現することであるという鄧小平の考え方に沿って、旧ソ連から受け継いだ上記の誤った認識を批判し、新しい社会主義理論を切り開いた。

社会主義市場経済に向けて、国有経済改革では、国有企業改革だけでなく、国有経済配置の調整も進めなければならない。1997年、呉敬璉が研究リーダーを務めていた国務院発展研究センターの「国有経済の戦略的再編」研究グループは、国の産業政策の指導の下で、資本市場の資金配置と再配置における基本的な役割を発揮させ、有力な民営企業の力を借りながら、国有資本を一般競争分野から退出させるという戦略目標を提案している。国有経済配置に対する戦略的な調整という理念は第15回党大会に提出され、国有経済改革を大きく前進させた。

5)民営経済の発展

90年代半ば以降、呉敬璉は民営経済の発展に対して特別な関心を寄せてきた。1998年、国有企業の一時帰休者問題をいかに解決するかが、政府と学界の関心事になっていたとき、呉敬璉は民営中小企業を国有企業の一時帰休者の受け皿として活かし、中国の直面する雇用問題を解決するべきであると主張した。それと同時に、民営中小企業の発展を支援する具体的な措置も提案した。国務院は呉敬璉らが提案した、民営中小企業の発展によって雇用問題を解決する案を受け入れ、中小企業への貸付を強化するよう一連の指示を打ち出した。その後、呉敬璉は浙江省の民営経済に対して詳細にわたって現地調査と考察を行い、その結果を国務院の指導者たちに報告した。その報告の中で、呉敬璉は「民営中小企業は巨大な潜在力を持っており、中国が直面している困難を克服し、新たな高成長に飛躍していくための頼れる力である」と指摘した。これらの意見も国務院の指導者たちの支持を得て、中央と省レベルの指導層に通達されていた。

6)体制移行期に生じた腐敗問題に関する分析

呉敬璉は、最も早い時期に体制移行過程における腐敗問題の深刻化を警告した経済学者の一人である。彼による腐敗行為への批判は道徳的な義憤からの非難だけではなく、経済学の理論に基づくものである。

1988年、呉敬璉と一部の経済学者は当時広く行われるようになった「役人の不正取引」を論じる際、現代政治経済学における「レントシーキング」の理論を導入し、分析を行った。その理論分析に基づいて、「役人の不正取引」という行為の本質は権力の濫用にあることを暴き出し、腐敗行為をなくすためには権力の制限が必要であると結論した。

体制移行期における腐敗行為のもう一つの形式は、非規範的な市場や制約されていない権力を利用して、中小投資家から財産を略奪し金持ちになるというものである。呉敬璉は中国の証券市場におけるインサイダー取引や株価操縦といった不正取引が横行している原因を経済学的方法で分析した。このような彼の学問に対する科学的な態度と弱者の利益を守りたいという精神は多くの人々から尊敬され、「中国経済学界の良心」と呼ばれている。

体制移行期における社会関係と政府機能に対する呉敬璉の分析は独特である 。改革に対するさまざまな社会集団の態度に関して、呉敬璉は次のように分析している。一つ目は、市場志向の社会集団である。彼らは大衆の利益に合致するような市場経済を作り上げることに努め、それによって社会公正と共同富裕の実現を得られる。二つ目は、計画志向の社会集団である。彼らは市場経済が資本主義に属しているものと認識し、国家所有が社会主義経済の土台であり、強化するべきであると考えている。三つ目は、計画経済体制に戻りたくないが、規範的、平等競争のできる市場経済の確立もしてほしくない社会集団である。彼らは、現段階の二重体制の維持を図り、行政による経済活動への関与を拡大させ、それによって自分達の特殊な地位を利用し、レントシーキングを通して私腹を肥やす。これらの中で、三つ目の社会集団の影響は、市場経済の改革方向を歪めてしまうかもしれないと呉敬璉は警告を発している。

呉敬璉は、「どのような市場経済を作り上げるか」ということが体制移行期における重要な課題であると考えている。その中心は改革において如何に社会公正を維持していくかという問題である。経済体制の移行過程において政府の役割は特に重要である。そのため、政治改革を加速しなければならず、民主政治および法治国家を確立するべきである。

7)新しい工業化への道

投入量の拡大による粗放型の経済成長から、生産性の上昇による集約型の経済成長への転換を実現すべきであると第9次五ヵ年計画(1996~2000年)は明確に提起している。しかし、残念ながら、この目標はいまだに実現されていない。呉敬璉は、その原因は旧体制の4つの遺産が解決されずに残されたままであるからだと考える(『中国成長モデルの選択』、上海遠東出版社、2006年)。第一は、各級の政府が依然として土地や資金などの重要な経済資源を多く握っていること、第二にGDPの成長率を政策目標にすること、第三に政府の財政収入が主に生産型の増値税に頼っていること、第四に生産要素価格が歪められていること、である。

したがって、経済成長のパターンの転換を実現するには、旧体制の影響を取り払い、市場経済体制を完備しなくてはならない。それに向けて呉敬璉は、次の4つの方策を提案している。まず、第一に、科学技術が各経済領域で利用されることを促進し、教育事業を強化する。第二に、サービス産業、特に生産性サービス産業の発展を急がなければならない。市場経済を建設するからには、市場活動のための基礎を構築する必要がある。また、サービス産業の発展は取引のコストを下げ、全体のコストも大幅に下げることになる。第三に、1950年代以降、先に工業化を行った先進国は情報化を進めている。中国は発展途上国で工業化も終えてはいないが、先進国の情報化技術を利用して、各産業の情報コストを下げ、経済全体の効率を上げるべきである。最後に、効率の悪い大量の農業従事者が、相対的に効率のよい工業とサービス業の従業者に転換するのを援助しなければならない。

成長パターンの転換の観点から、呉敬璉は、重工業化を推し進めるべきだという一部の経済学者の主張に対して、異論を唱えている。その論点は次の五つにまとめることができる。

まず、現段階では資本集約型の重工業の発展は、豊富な労働力という中国の比較優位に沿っていない。国際分業の観点から見れば、たとえ中国国内で重工業の製品に対して需要が増えたとしても、必ずしもこれを国内で生産する必要はなく、海外からの輸入によって賄うことが可能であるだけでなく、効率的でもある。比較優位に反して無理やり重工業化を推し進めていくと、中国は1950年代の重工業化と同じ失敗を繰り返しかねない。

第二に、重工業は資本集約型産業に当たり、労働集約型産業と比べて、同じ投資金額を投じても雇用創出能力が限られている。これは、近年、中国が高成長を遂げたにもかかわらず、失業問題が一向に解決されていない原因の一つでもある。雇用を促進するためにも、呉敬璉は、サービス部門の重要性を強調している。

第三に、重工業は、エネルギーをはじめとする大量の天然資源の投入が必要である。中国は、そのような資源の賦存量が乏しい上、その利用効率も悪いために重工業が国際競争力を持つに至っていない。また、中国の重工業化による需要の拡大は、資源の国際価格の高騰に拍車をかけかねない。

第四に、重工業は、大気や水の汚染などを通じて環境を悪化させかねない。このような「外部効果」を企業は負担しておらず、一種の市場の失敗を起こしている。環境を犠牲にした経済発展は、政府が提唱している、自然との調和を強調する「科学的発展観」と矛盾しているだけでなく、諸外国から「不当な競争」という批判を招きかねない。

最後に、近年の重工業の発展は、純粋に市場における企業の意思決定によるものというよりも、国有銀行による融資などにより政府に誘導された結果である。しかも、投資が失敗しても、企業がその責任を負うことはなく、融資が不良債権になれば、最終的には国民の税金をもって処理しなければならない。

三、市場経済を完備させるための政策提案

中国経済に関するこのような洞察から、呉敬璉は、クローニー資本主義への道を回避しながら、高成長を持続させていくために、狭い意味での「市場化」を越えて、所有制や政治体制を含む「全面的かつ協調的改革」を提案している(『中国当代経済改革』、上海遠東出版社、2004年)。

第一に、非国有企業はすでにかなりの発展をしているとはいえ、国有企業はいまだに最も重要な経済資源、特に、資金を支配している。そのため国有経済の配置と調整、国有企業の株式会社への転換のほかに、さらに積極的な試みを行い、その時代に適合した、生産の社会化に則した公有制の実現はどうあるべきかを模索していかなければならない。同時に経済計画や国民に利益をもたらす民営経済の発展方針を奨励し、民営企業を差別する規定をすべて取り消し、彼らの成長を促進しなければならない。

第二には、ごく少数の業種で国有企業が特殊法人として政府の規制を受け継ぐケースを除いて、「国家控股企業」(国が大株主になっている国有支配企業)と「国家参股企業」(国が出資している企業)に対しては、これまでのすべての特権を排除し、統一された法律環境の下で、その他の所有制企業と平等に競争させる。計画経済の下での国有企業は、引き受けるべきではない社会的機能を引き受けていたが、それと同時に政府から多大な優遇政策をも得ていた。新しい所有制構造の下で、国有企業(国有独資企業、国有支配企業、国が出資している企業が含まれる)は、政府の行政機関との癒着を断ち切らなければならない。行政指令と企業経営の分離を成し遂げた上で、企業は自ら経営方策を決定し、損益に自ら責任を負わなければならない。

第三に、法律の下、すべての合法的な方法で得られた財産権利は保護される必要がある。また、異なる所有制の企業を平等に扱い、国民待遇を与えなければならない。こうした法律法規を整備し、差別待遇をなくし、非国有経済が価格、税収、金融、市場への参入および法律上の地位と社会的な身分の上で、差別を受けることがないようにし、競争的な環境を作り、市場のルールの前ではすべての人が平等であるようにし、誠実に働き、合法的に経営を行うものはすべて国家統一の法律の下でその能力が発揮できるようにしなければならない。

第四に、中国は2001年12月に正式にWTOに加盟した。これは5~6年の過渡期の期間において、中国がWTOのルールにのっとり、自由貿易の原則を実現し、グローバル経済での協力と競争に全面的に参与しなければならないことを意味する。しかし、中国の政府組織、企業、一般市民にいたるまで全てが、世界市場と国際間で通用するルールや法律規定にのっとって行動することに慣れていない。全面的な開放という新しい情勢に適応するために、中国はWTOルールに抵触する法律や法規を廃止し、公平な競争ができる秩序と規則を作らなければならない。同時に中国がWTO加盟時に承諾した外国企業および外資への制限をなくし、また、一部の外資に与えていた優遇措置も廃止し、国内外の企業に同一の国民待遇を与えるべきである。

第五に、公正な社会の実現とともに、国民が共に豊かになるという社会主義原則の実現を目指す。現在、中国の国民の間では、所得格差がすでに社会の安定を脅かすレベルにまで拡大している。国は法律や政策によって、構造調整のプロセスにおいて公共財産が少数の人間に向けて流出してしまうのを避け、資産が二極分化するのを防がなくてはならない。同時に政府は国民の生活水準を普遍的に引き上げるということを基礎に、社会的弱者を救済しながら、貧富格差の拡大を防止し、社会主義の共同富裕という目標を実現させるべきである。

第六に、市場における各種経済主体の行為を規範化し、良好な市場環境を形成するために、政府はまず自身の行為を規範化しなければならない。現在、政府の機能転換はすでに市場改革より遅れている。市場経済において政府は公共財・サービスの提供者にすぎず、企業や国民に対して威張って指示をする立場ではない。コーチやプレーヤーではなく審判の役に専念すべきである。各レベルの政府は自分の権力範囲を越え、本来、企業自身が決めるべきである人材採用、資金調達、および生産販売などの問題に関与してはならない。その一方で、政府は自己がなすべき仕事を行い、社会に低コストで公共財・サービスの提供をすべきである。

第七に、「封建制の伝統が色濃く、民主法制の伝統が薄い」国家である中国では、憲政と民主制度の下での法治の実現は非常に大きく重要な任務である。時は人を待ってくれない。このような不断に進歩し続けている現代にあって、中国が世界の民族のなかで自立できることが重要である。全面的に完備された法治に基づく市場経済体系という新しい歴史において、政治文化をレベルアップし、民主制度と法治社会を確立することこそが、改革のテーマなのである。

BOX:中国人民銀行行長(総裁)・周小川

1948年1月生まれ。1975年に北京化工学院を卒業。1985年清華大学経済学部システム工程で博士号を取得。1979年から1985年、経済体制改革における政策分析および経済課題研究で多くの業績を残す。1986年から1987年、国務院体制改革方案起草グループのコアメンバー兼中国経済体制改革研究所副所長。1986年から1989年、対外経済貿易部部長助理。1986年から1991年、国家経済体制改革委員会委員。1991年から1995年、中国銀行副行長。1995年国家外貨管理局局長。1996年中国人民銀行副行長。1998年中国建設銀行行長。2000年中国証券監督委員会主席。2003年中国人民銀行行長、貨幣政策委員会主席。

周小川の学術的なスタンスは、市場を信じることにある。これは周小川の早期の体制改革に関する著作からもうかがうことができる。彼はその後、対外経済貿易部、人民銀行、建設銀行および証券監督管理委員会にいたる職務のなかで実行に移している。古くは対外経済貿易部での部長助理時代には、徹底した対外貿易体制改革を行った。中国銀行副行長と国家外貨管理局局長を務めていたときには、人民元の自由兌換について推進した。建設銀行行長時代には、商業銀行を国際基準に合わせることに務めた。 証券監督管理委員会主席であった2年間には、投資者の利益を守り、審査認可制から認可制への変換など市場を規範化する措置を実施し、国際的な会計基準を取り入れ、株価操作などの違法行為に処罰を課すなど中国証券市場の改革を深化させ、監督管理や規範化の進展に尽力した。人民銀行総裁になってからも、金利の自由化や、人民元の管理変動制への移行、資本取引の自由化などに積極的に取り組んでいる。

2006年10月11日掲載

文献
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