中国経済新論:中国の産業と企業

技術よりも制度の重視を
我が国のハイテク産業の発展について

呉敬璉
中国社会科学院大学院教授 国務院発展研究センター研究員

1930年南京生まれ。1953年上海復旦大学経済学部卒業後、現在の中国社会科学院経済研究所に配属され、社会主義政治経済学などの研究に従事。80年代初めにオックスフォード大学やイェール大学で近代経済理論を学ぶ。1984年より中国の国務院発展研究センターで比較経済学、社会主義経済改革の理論や政策の総合研究に従事し、中国経済体制改革の理論構築や政策制定に直接携わっている。改革開放当初から一貫して競争原理に基づく市場経済の形成を主張、今日の中国経済改革はほぼ彼の提言通りに展開されている。70歳を超えたにもかかわらず、現在も中国経済体制改革の最前線で精力的に活躍し続けている。

ハイテク産業の発展は、長期にわたって中国政府が繰り返し強調してきた基本的な方針である。1950年代の半ば頃から、中国共産党がすでに「世界の科学技術の先進的な水準に追いつき、追い越せ」というスローガンをかかげ、「十五年科学計画」を策定し、科学研究の邁進にむけて総力を挙げてきた。そして新しい技術革命の波が起こり始めた1960年代の初めに中国の指導者は「工業発展に関する決定」を行い、電子工業などの「新興工業」の発展を速めるよう指示した。その後1970年代に四人組が失脚した後、工業、農業、科学技術と国防の「四つの近代化」が改めて唱えられ、なかでも科学技術の近代化が「四つの近代化」のカギであると見なされた。数十年来、確かに中国人民は近代的な科学技術を得るために巨大な代価と努力を払ってきた。しかし、今日まで科学技術の近代化の進展は満足できるようなものではなく、我が国と先進国間の科学技術における格差は縮小するどころか拡大さえしている。

「科学技術と教育により国を興す」という方針に基づき、様々な改革が展開された中、我々は今までの経験と教訓をまとめ、回り道をしないように今後の進路設計をしていかなければならない。

数十年にわたる我が国のハイテク産業発展のプラスとマイナス両方の経験を回顧してみると、ハイテク産業の特徴に適応した方法でそれを発展させていかなければならないという一語にまとめられる。ハイテク産業の最も主要な特徴は、諸生産要素の中で人的資本がその発展に決定的な役割を果たす点にある。そこで、ハイテク産業をより着実に、より速く発展させるには、全力を挙げて、人的資本がその創造的な才能を十分に発揮できるために必要な組織制度とその他の社会文化条件を整えるように努力しなければならない。本文の目的は、現在流行している四つの誤解を正すことによって、人的資本を重点に、各種の生産要素の作用をさらに有効的に発揮させ、わが国のハイテク産業の一層の発展を促すことにある。

1 技術発展をもたらした主な原動力は技術自身の進化か、それとも創造に有利な制度の確立か

これまでのハイテク技術と産業の発展を振り返ってみると、殆ど同じパターンが繰り返されてきた。すなわち政府主導で、科学技術の発展分野の重点を計画的に作成し、そして物的資源と科学研究の力を動員することによって、それらの課題に取り込みながら、新技術の商品開発への応用を図る。過去数十年の間、科学発明や技術自身の進化がハイテク産業を発展させる最も重要な原動力であるとの考え方が主流であった。そのため、ハイテク産業の導入や開発に十分な資金と人材さえ投入すれば、ハイテク産業の迅速な発展が保証できるという見方が流行っていた。

ハイテク産業を推進する主な原動力が科学的発明と技術自身の進歩にあるという見方は、一種の安易な推理にすぎない。つまり、ハイテク産業がハイテク技術をもとに成り立つ以上、ハイテク産業を推進する原動力の問題を議論する場合、自然に技術そのものの重要性を思い浮かべてしまう。こうした推理がある虚偽の「唯物主義史観」に支えられていたゆえに、いままでの政策の意思決定に大きな影響力を及んできた。我が国の指導者の多くは生産力が生産関係を決定し、経済的基礎は上部構造を決定するという歴史唯物主義の原理を熟知しているが、その一部の人たちがこの原理を誤って理解している。彼らは、技術の進歩と生産力の発展だけが本質的なものと見なし、また、技術進歩と生産力の発展は生産関係と上部構造の発展と変化に決定的な影響力を与えるものと思い込んでいる。確かに、歴史からみれば、技術自身の進化は産業革命をもたらし、そして産業革命は市場経済制度の確立をもたらしたように見える。こうした理解に立てば、ハイテク産業の発展が求められる今日、一番大切なのは当然、政府の力でハイテク技術の開発を組織、指導することになる。

しかし、現実的には、技術と制度の変遷の歴史に関する現代の研究や、技術進歩と制度の形成との関係についての理論は、上述のような生産力と生産関係、経済的基礎と上部構造に関する硬直な理解を早々否定したのである。

例えば、D・ノースとR・トマスがその名著『西欧世界の勃興---新しい経済史の試み』において、次のように指摘している。すなわち、18世紀以後、西ヨーロッパの経済が速く発展し、一人当たりの収入が急増した状況は、これらの諸国家に、より効率的な経済組織と個人財産の安全を保障する法律体系が揃ったからである。また、このような条件の整った経済組織そのものが中世以来千年近くにわたって進化してきた結果である。とりわけ、オランダとイギリスの発展が素晴らしい。その原因は、この両国民は地元の政治、宗教、町のギルドの圧迫、独占、重税に対抗する権利をスペインやフランスなどヨーロッパの他の地域よりも多く享受でき、そこで自分の財産を保障し、自由に企業を経営することができたからである、という。

また、技術発展史の研究で有名なアメリカの経済学者N・ローゼンバーグとL・バードゼル・Jrは著書『西欧がいかに豊かになったか―工業化国家の経済変遷』の中で、適切な歴史事例に基づき、こう指摘している。すなわち、科学技術そのものからすれば、15世紀までの中国とアラビア諸国は明らかに西ヨーロッパより進んでいたにもかかわらず、西側諸国が速くも追いつき、経済面でアジア諸国を追い越した理由は、中世の後半から、イノベーションに有利な社会制度が確立したからである。それらの制度は中世の後半に起こった商業革命で次第に形成されたものである。例えば、複式簿記は13世紀に発明され、会社制度は17世紀の初頭に現れた。18世紀末、19世紀初頭における産業革命の発生は、まさしく成長に利する商業革命の制度に基づいたものである。

ここで得られる結論は、我々がわが国のハイテク産業の発展を望むならば、各種の改革措置を確実に実行すると同時に、ハイテク産業及びその関連産業の発展に有利な経済と社会制度の確立に努力しなければならないということである。このような制度の確立こそ技術進歩とハイテク産業発展の最も強い原動力なのである。

2 ハイテク産業の健全な発展を保障するカギは、人的資本の潜在力を十分に発揮することである

ハイテク産業と伝統的産業の最も大きな区別は、前者が知識を基にした産業であることにある。言い換えれば、ハイテク産業における生産の諸要素の中で、人的資本が一番大切な役割を果たしているということだ。こうした観点からみれば、人的資本の持ち主である専門家たちの積極性と創造力が十分に発揮できるかどうかこそが、制度を評価する最終的な基準である。

一国、一地域、一企業のハイテク技術の発展状況を決定する一番主な要因は、物的資本の量と質ではなく、人的資本の潜在力の発揮に関連する経済組織の構造と文化伝統などの社会的要因である。この結論はここ数年欧米のハイテク産業の発展に関する研究によって、明らかにされた。

アメリカの学者A・サクセニアンが『現代の二都物語-なぜシリコンバレーは復活し、ボストンルート128は沈んだか』という著書において、アメリカにおけるこの二つの主なハイテク産業地域の発展の違いをもたらした社会経済文化的要因を比較し、興味深い分析をしている。この本は1994年に出版されて以来、各地域の発展政策の策定者と関連業者に大いに注目されている。その原因は、ルート128地域とシリコンバレーが似たような技術を開発し、同じ市場で活動しているにもかかわらず、後者は日増しに発展を成し遂げたのに対して、前者はだんだん衰えていったことにある。作者は読者が納得できるように、このような違いが生じた根本的な原因として、その二者の置かれている制度的環境と文化的背景がまったく違うことに注目している。この本の中で作者はこのように書いている。「シリコンバレーの人たちは、シリコンバレーにおける協力と競争という独自な組み合わせとその他の要素からなる制度的環境が彼らの成功に寄与していることに殆ど気づいていないが、実にこのような地域優位こそがその企業に急成長を導く最も重要な要因である」。

立ち上げの条件

ルート128地域の新技術産業はアメリカで最も古い工業地域であるニューイングランド地域に誕生した。ルート128の新技術産業の後ろ盾であるマサチューセッツ工科大学(MIT)の教授と卒業生たちが第二次世界大戦時代にワシントンで獲得した高い地位をルート128地域の技術産業の形成に生かしたことは明らかである。シリコンバレー地域の工業も全米科学基金(The National Science Foundation: NSF)と軍需の恩恵を受けたとはいえ、所在地のカリフォルニア州はさすがに首都から遠く離れているため、MITが政府と成熟した大企業を志向するのと対照的に、シリコンバレーの中心であるスタンフォード大学では、中小企業に重要なチャンスを提供する伝統が形成されていた。

企業モデル

ルート128地域の大企業は分散した自給自足の組織構造を持っていたため、企業内での孤立的な技術革新に偏り、市場の情報の大切さを無視しがちで、実験と学習における自由で全面的な討論が不足していた。これに対して、シリコンバレーの企業家たちは伝統的な企業モデルを捨て、企業を社会的差別のない共同体にし、社員に共同の目標を追及するようインセンティブを与えた。大部分の会社は柔軟な人事制度をとり、社員に会社の一定の株式を持たせていた。上述した様々なメカニズムは人的資源をルート128地域からシリコンバレーへ流れ込ませた。後者の地価は前者よりずっと高かったが、このことがシリコンバレーの巨大な魅力を減らすことは全くなかった。

文化的伝統

ニューイングランド独特の伝統が残るルート128地域は等級観念が厳しく、硬直で保守的である。一方シリコンバレーでは伝統やしきたりを無視したため、進取とベンチャーの精神に富んだ人材が育成された。等級制度は何ら意味がなく、企業も柔軟な人事制度をとり、人々はささいなことに固執しない。こうした感覚によって、人々が同じ理念を共有し、また素早く行動するようになれた。シリコンバレーの企業家たちは彼らの情報伝達の速度をアメリカのどの地域よりも速いものにした。今でも「変化」はシリコンバレーの最も重要な文化的特徴の一つである。多くのエンジニアにとって、大企業よりイノベーション精神の溢れる中小企業が魅力的である。

ここで得られる結論は次のものである。

ある地域のハイテク産業の盛んな発展を望むなら、物的資本自体または技術自体ばかりに気を取られてはいけない。人的資本の役割が十分に果たせるような経済体制と社会文化環境の構築に精力を注ぐべきである。

第一に、ベンチャー企業を起こす能力と起業願望を持つ人を支援すべきである。同様に、大胆に中小企業を発展させるべきである。所有権関係が曖昧で、行政と管理の職責が分けられておらず、内部管理が混乱しかつ自身の能力の強化に腰を入れていないような現存の「経済単位」を真の企業に改造しなければならない。

第二に、ゲームのルールを制定し、フェアプレーと適者生存の市場環境を作り出さなければならない。

第三に、中国の伝統的文化における人的資本の潜在力の発揮に不利な評価基準と時代遅れの習慣を捨て、才能のある人がその力を発揮し、ハイテク産業の発展に創造的な貢献ができるように、伸びやかで、自由かつ寛容で、個性の発展と創造を奨励する文化的環境の構築に努めなければならない。

3 イノベーションに有利な融資メカニズムを如何に確立するか

人的資本がハイテク産業の発展のカギであることを強調してきたが、その他の生産要素の役割を無視してもいいというわけではない。実際に、あるハイテクが研究の段階から開発の段階に入ると、物的資本に対する需要は日増しに増えていく。その時、適切な融資メカニズムがなければ、技術が開発、モデル化、普及などの段階を経て、産業化を実現することはなかなかできない。

計画経済の伝統的なやり方によれば、ハイテク産業の発展は基本的に国家の投資に頼り、ハイリスクの投資プロジェクトも国有のベンチャー投資基金(又は会社)によって賄われる。しかし、このようなやり方の大半が失敗に終わることは今までの経験によって証明された。1986年に設立された国家科学技術委員会直属の中国ベンチャー投資会社がその一例である。近年来、ベンチャー投資のブームが起きている中、一部の人は政府機構が国民の国有銀行に預けた預金をベンチャービジネスに投資することを提案している。目下、多くの人がベンチャー投資基金の設立の難しさに対して誤解しており、政府が十分な資金を出さなかったのがそのネックだと思い込んでいる。実は問題のカギは投資資金の供給ではなく、どのような制度に基づいて投資するかということにある。ここの主要問題はカネでもなく、ヒトでもなく、現存の投融資メカニズムが根本的な欠陥を抱えていることである。ベンチャー投資の特徴はハイリスク(失敗の比率が高い)とハイリターン(少数の成功したプロジェクトによって、高い利益が得られる)であり、有効なベンチャー投資制度は運営者の説明責任(accountability)の確立や収益の保障を前提にしているのである。

各国のハイテクに対する融資が成功した経験
  • シーズ期において、初歩的な研究を進めるハイテク企業の大半は、内部融資という方法で、独資か共同出資などの法律形式で個人のリスクと収益を緊密に結びつける。
  • 創業期と拡大期におけるハイテク企業にとっては、資本の増資が求められ、経営管理の難しさも増してくるため、ベンチャーキャピタルの参与が必要とされる。ベンチャー投資する際の基本的な形式は有限共同経営制(昔中国では"両合公司"と呼ばれていた)である。このような企業形式は会社制度から見れば、有限会社と無限会社の混合体であり、有限責任会社の性格を帯びた共同経営制度である。すなわち、その会社の運営に携わる経営者が無限責任を負うパートナーであり、その他の投資者、例えば銀行、大手会社、投資基金などは有限責任を負う株主に過ぎない。
  • ハイテク企業は普及と成熟の段階に入ると、証券市場における株式の上場と株式の増発による増資が必要である。その時、ベンチャーキャピタルは上場などを通じて利益を得て資金回収する。そして、その次のハイテク企業の育成に取り掛かる。

我が国のハイテク産業の融資メカニズムを設計するに当たって、他の国の経験を十分念頭に入れなければならない。ベンチャーキャピタルの資金回収ルートと上場会社の融資の場所を提供するために、我が国の証券の一部市場の健全な発展を目指すとともに、二部市場の開設に向けて努めていかなければならない。大陸の二部市場を開設する前は、香港の二部市場を積極的に利用すべきである。

4 ハイテク産業の発展に政府が果たせる役割は何か

ハイテク技術の開発とハイテク産業の振興を論じる際、政府の役割を過大に評価する傾向がよく見られる。本来、政府の主な機能は、企業とそこに働く人々のために良好な制度と社会環境を構築することにある。しかし、多くの人々が、政府の資源を動員する能力を頼りに、そして政府が策定した計画に基づき、大量のヒト・モノを関係分野に投入さえすれば、科学研究が早く成果を収めることがほぼ保証されると勘違いをしている。また、独占的な地位にある国有企業が計画された重点分野の生産に新技術を応用すれば、ハイテク産業の高度成長が保証されると思い込む傾向も見られる。さらに、科学研究の成果の製品開発への応用が遅れたり、企業が技術イノベーションへの意欲が欠けたりするような従来の難問にぶつかったら、企業の制度とインセンティブ・メカニズムの欠点を克服する発想から問題への解決を図るのではなく、「イノベーション意識の向上」、「技術進歩の評価基準の強化」によって、技術進歩と技術改革のプロセスを速めようとする。さらに、当局がどの民間企業がハイテク企業に属するかを認定し、その科学研究と経営活動も国家計画に収め、政府が厳しく管理をしようとしている。

政府が十分な情報とインセンティブを持って経済資源を最も有効に配置できるという考え方は、計画経済の時代から受け継いだものである。しかし、こうした考えが近代的経済の発展に合致しないことは、社会主義諸国の計画経済の実践によって、繰り返し証明された事実である。ハイテク産業のイノベーションという特徴からすれば、政府による過度の関与はハイテク産業の発展に対して、特に有害である。

各国の歴史的経験から見れば、後進国が先進国を追い上げ、工業化を実現する過程において、一部の国は政府の力で資本の原始的な蓄積を速め、市場メカニズムの形成を促進し、自国の幼稚産業を守りながら、潜在する比較優位の発揮を促す面で、強い力を見せていた。第二次世界大戦後のアジアにおいて、こうした市場経済+力強い政府の関与というモデル(韓国はこれを政府主導型の市場経済と呼ぶ)は一部の経済学者に「アジア太平洋モデル」と呼ばれている。国際経済界では、このモデルを採用したことが戦後アジア太平洋諸国と地域に高度成長をもたらした最も重要な要因としている。それは中国にとっても魅力的であった。日本政府の通商産業省(MITI)は戦後の機械工業及び電子工業に対する振興運動や、大規模集積回路に対する開発において、重要な役割を果たした。これは「アジア太平洋モデル」の手本と見なされた。通産省による産業の発展への力強い指導と関与は、日本の電子工業の発展を大いに促進したが、皮肉にもその後の通産省による指導と関与が日本産業界のデジタル技術の開発を大失敗に導いてしまったのである。その二つの典型的な例を比較してみよう。

  • 1976-1979年、超大規模集積回路(VLSI)の分野でアメリカを追い越すため、日本政府は半導体メーカーの上位5社を協調させ、VLSIの技術研究「軍団」を編成しただけではなく、研究開発に積極的な資金上の援助を行った。資金と人力の集中的な投入により、1980年、日本はアメリカより半年も早く64KのDRAMの開発に成功した。政府の指導をうけた巨大企業集団がこうしたDRAMの生産と販売にも直接関与していた。1981年には日本産の64KDRAMの世界市場におけるシェアはすでに70%に達した。そして1986年になると、日本の半導体製品の世界市場におけるシェアは45.5%で、アメリカの44.0%を抜き、さらにDRAMの世界市場のシェアは90%にも達し、世界最大の半導体生産国にのし上がった。
  • 世界半導体産業ナンバーワンの地位を獲得してからも、日本は政府による「行政指導」を中心としたやり方を継続し、通産省とNHKが定めた技術路線に沿って、アナログ式を基に"高精細度テレビ"―ハイビジョンテレビ(HDTV)を開発させた。1986年に新型のHDTVテレビシステムの開発が成功した後、1991年、日本のHDTV番組の放送が本格化した。その間に、アメリカでは統一した形ではなく、各会社がそれぞれ競ってAV技術の研究を進めた。1988年、アメリカでは個別に開発された、併用できない24のHDTVの案があった。1991年、日本人がアナログ式のHDTV番組の放送開始を祝う時、あるアメリカの会社がデジタル式のHDTVの開発計画を米国連邦通信委員会に提出した。

1993年、あるアメリカの会社がデータの圧縮と圧縮解除技術の開発に成功し、ひとつのチャンネルで10のテレビ番組を転送できるようになった。こうして、アメリカは一気に日本を追い越し、日本の20年にわたったアナログ式HDTVへの投資が一瞬のうちに水の泡になってしまった。1996年、米国連邦通信委員会は最終的にデジタル式HDTVの技術標準を批准し、2006年までのすべてのテレビのデジタル化の時間表も制定した。さらに、デジタル化の発展に伴い、テレビがコンピューターネットワークと通信ネットワークと一体化し、いわゆるブロードバンドの体系が徐々に形成されつつある。この中で、アメリカはマルチメディア産業における揺るぎがたい王者の地位を確実なものに築き上げたのである。

それでは、通産省が前後の二つの時期において、産業の発展に「行政指導」を行った結果はなぜこれだけ違ったのであろう。私の見方では、昔の「追いつき、追い越せ」の段階においては、先進国が歩んだ道がはっきりしており、政府が相対的に十分な情報を持っていたため、民間の力では及ばない資源の動員能力を発揮し、成功の確率を高めたのである。ところが、技術のイノベーションの課題に臨み、未知の物事を探求する時、政府は決して情報の優位性に立っていない。逆に政府の反応能力と運営効率は疑いなく民間機構より立ち遅れている。しかも政府がハイテクの技術開発や生産の組織と管理に直接に関与することは、必ず個人の創造力を抑圧してしまうので、結果的に90年代、アメリカとの情報技術産業の首位争いで日本の失敗を招いてしまったのである。

ここで、我々は日本政府の役割に関するプラスとマイナス両方の経験から有益な教訓を汲み取るべきである。

第一に、直接の生産と商業活動に対して、政府が民間企業のように市場に対する適応性と競争力を持っていないことは政府の性質と構造によって決められている。従って、政府はできるだけ市場活動から脱退すべきであるし、また企業経営や企業のヒト・カネ・モノ・生産・供給・販売などの意思決定に直接に関与すべきではない。

第二に、政府の役目は市場原理の働かない分野にある。政府の役割は、例えば、市場秩序の確立や、公共財の提供、また重大な共通技術の開発を組織することなど、まさしく市場原理の機能しない分野の不足を補うべきものである。

第三に、政府は上述した原則によって自身の役割を明確にし、自身の短所を避けながら長所を発揮し、責任範囲内の仕事を立派にやり遂げ、我が国のハイテク産業の発展に貢献していかなければならない。

出典

銭穎一、肖夢編、『歩出誤区―経済学者論説硅谷模式』(『誤解を正す:経済学者によるシリコンバレ-論』)中国経済出版社、2000年。原文は中国語で、和文の掲載に当って、編者の許可を頂いた。

2001年8月6日掲載

2001年8月6日掲載

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