やさしい経済学―「真」の貯蓄率と統計のクセ

第7回 無職世帯の行動

宇南山 卓
ファカルティフェロー

本シリーズの最後として、家計調査の誤差を補正した貯蓄率で、日本の貯蓄率の低下の原因を考察しよう。高額商品の消費の過少性と財産収入の過少性を補正した貯蓄率を見ると、1990年ごろから低下している。もともと家計調査の貯蓄率は2000年ごろまで上昇傾向とされてきたことと対照的である。

時系列的な推移が変化したのは、財産収入の補正が、実質的にバブル期の貯蓄率だけを高めたからだ。バブル期には金利が6%を超え、家計は多額の財産収入を得ていたはずで、補正で貯蓄率は大幅に高くなる。一方ゼロ金利政策下では元々金利収入が少なく、補正をしても貯蓄率はほとんど変化しない。

この財産収入の補正の影響は、多くの金融資産を持つ高齢者世帯である「無職世帯」で顕著だ。補正前後で無職世帯の貯蓄率を比較すると(図)、90年代では水準・推移ともに全く異なる。補正後で見るとバブル期には正の貯蓄すらしていた。これは統計のクセを補正したことで初めて明らかになった事実である。一方もともと財産収入が少ない勤労者世帯は、補正の影響も小さく、貯蓄率は過去25年ほぼ横ばいである。すなわち日本全体の貯蓄率の低下は、無職世帯の貯蓄率の低下によるものである。

図:無職世帯の貯蓄率(家計調査ベース)
図:無職世帯の貯蓄率

これまで、引退後の高齢者は貯蓄を取り崩すという「ライフサイクル仮説」に基づき、高齢者世帯の増加が貯蓄率の低下の原因とされてきた。これは、95年以降であれば妥当な説明であるが、原因のすべてではなく、むしろ高齢者世帯の貯蓄行動の変化こそが主因である。

バブル期に高齢者が正の貯蓄をしているという事実は、単純なライフサイクル仮説と矛盾しており、別の理由が必要だ。例えば公的年金が不十分だったために予備的貯蓄が蓄積されていたのかもしれない。また遺産動機が特に強かった可能性もある。いずれにせよ、現時点では決定的な理由は分かっていない。

この連載では、2つの代表的統計が示す貯蓄率の乖離という謎をひもといた。統計上の謎が解決する一方で浮き彫りになった無職世帯の貯蓄率の変化という真の謎は、今後の研究課題となろう。

2010年9月1日 日本経済新聞「やさしい経済学―『真』の貯蓄率と統計のクセ」に掲載

2010年9月16日掲載

この著者の記事