近年、政府から家計への現金給付の機会が増えている。消費刺激、子育て支援、物価高対策など理由はさまざまだが、共通して「給付制限」が論点となる。
全国民が対象となった特別定額給付金は、「ばらまき」と批判された。子育て家計に限定した児童手当を充実させれば高齢者らからの反発があり、所得制限をすれば高所得世帯が不満を持つ。
給付制限は、財政負担を抑制しつつ大きな政策効果を得るという、政策の「効率性」の観点からの要請である。例えば、消費刺激策なら、現金支給のうち消費される割合(Marginal Propensity to Consume:MPC)が高いほど効率的な政策となるため、MPCの高い家計のみへの給付が望ましい。より一般には、現金給付で行動を変化させそうな家計に給付を絞るのが効率的だ。
しかし、この基準によれば、そもそも現金給付自体が望ましくないという結論になりかねない。経済学の標準的な考え方であるライフサイクル理論によると、現金給付には家計行動を変える力がほとんどないからである。
給付は行動変化を促すか
ライフサイクル理論によれば、家計は将来を考慮して行動する合理的な存在で、生涯を通じて利用可能な経済資源(生涯可処分リソース)に基づき行動を決定する。逆に、生涯可処分リソースが変化しない限り行動も変わらない。例えば、生涯賃金2億円の会社員に10万円を給付しても、その比率は0.05%にすぎず、大きな行動変化は期待できない。その意味で、現金給付はそもそも実施しないことが望ましい選択となる。
ただし、このロジックはつねに成立するわけではない。ライフサイクル理論を拡張した「流動性制約」の枠組みによれば、現金・預金などの流動性資産の残高が、生涯可処分リソースで決まる最適支出の水準より少ないような家計は、現金給付で大きく行動を変える可能性がある。
手元流動性が不十分な家計は、自身の行動を少しでも最適な行動に近づけるために、毎期の所得をすべて使い「その日暮らし」の生活をする。そうした状況では、現金給付により追加的な所得を得ると、それもすべて使うことになる。
例えば、若いうちに住宅をローンで購入した会社員は、所得が上がるまではローンの返済に追われ、貯蓄もできず、一時的に「その日暮らし」状態になる。そこに児童手当のような現金給付があれば、子どもを学習塾に通わせるなどするかもしれない。ここでポイントになるのは、その行動変化が生涯可処分リソースの増加ではなく、手元流動性の増加によってもたらされる結果だということだ。
その意味で、給付制限をつけるなら、「その日暮らし家計」のみを対象とすべきである。しかし、現実にはそのような制限をつけるのは難しい。誰が「その日暮らし家計」かの判別は容易でなく、所得制限などでは対応できない。
また、その語感と異なり、必ずしも「貧しい」わけではなく、むしろ手元流動性は少ないが住宅などの資産は持つ「裕福なその日暮らし家計」が大部分である。現金給付は所得移転策でもあり、経済的に余裕のある家計に対象を限定すれば公平性の観点で問題だ。
一方で、給付制限なしも正当化が難しい。日本ではそもそも「その日暮らし家計」の割合が10%程度と少ない。これは現金給付を通じて政府が家計の意思決定に介入する余地があまりないことを意味する。そのため給付制限をつけず全家計に一律給付をすれば、大部分の受給者は行動をほとんど変化させないという極めて非効率な政策となる。
つまり、「現金給付」政策は、一律給付で効率性が低くなるか、不完全な制限で公平性を損なうか、という解消困難なジレンマに直面しているのだ。
再分配でなく流動性供給
ジレンマ解消のカギは、現金給付に反応するのは、流動性の不足した家計だという洞察である。政府がすべきは「流動性の供給」であり、生涯可処分リソースの変化を通じた所得再分配ではない。家計が持つ非流動資産をすぐに利用可能な流動資産に変換すれば十分で、現金給付のような所得移転がなくても同等の効果が期待できる。
資産の流動化政策は、ポートフォリオのみを変化させるため、流動性が不足する家計にメリットがある。同時に、誰かが得するようなものではなく、公平性の観点では中立的だ。よって、政策対象の制限は必要なく、自発的な選択に任せることができる。この「再分配を伴わない流動性の供給」というアイデアは、一見すると非現実的だが、実例は存在する。
例えば、米国の住宅ローン借り換え支援プログラム(Home Affordable Refinance Program:HARP)である。リーマンショック後、住宅ローン金利が大幅に低下したが、固定金利で借りていた家計の多くがその恩恵を享受できなかった。HARPは政府保証を提供することで借り換えを促進し、返済額の減少を通じて流動性の供給を目指した。
これは住宅ローンの返済負担が大きい「その日暮らし家計」に流動性を供給する政策であり、原理的には現金給付と同様の効果が期待できる。一方、市場金利でのローン返済は必要で、債務が減るわけでもなく、適用の可否による不公平感は抑制される。
また、リーマンショック後にデンマークで実施された年金の流動化の事例はよりわかりやすい。65歳から受給可能な確定拠出型年金の積立金を一定期間引き出すことを許容する政策だ。通常は高齢になるまで使えない資金を流動化する、文字どおり「再分配を伴わない流動性の供給」策である。
資産流動化という手法での家計行動への介入は、財政負担も小さく、政策の効率性という観点では現金給付より望ましい。所得再分配も重要だが、それは単発の現金給付で対応できる課題ではない。
現金給付で適切な給付制限をつけるという政策立案の方向性には限界がある。むしろ、対象としたい家計が流動性制約に直面しているのか、流動性制約がなければどのような行動をするのか、流動化可能な非流動資産を保有しているのか、などを議論していくことが今後の目指すべき方向であろう。
(本稿の参考文献等は、筆者の近著『現代日本の消費分析:ライフサイクル理論の現在地』(慶応義塾大学出版会)第7・9章をご参照ください。)
週刊東洋経済 2023年8月12日・19日号に掲載