現金給付の意義:ライフサイクル理論に基づく考察

宇南山 卓
ファカルティフェロー

安倍首相は、4月17日の記者会見において、全国民を対象に1人あたり10万円の給付を行うことを表明した。収入が著しく減少した世帯に対する30万円の給付から、全世帯を対象とした一律給付への大きな方向転換である。約13兆円の財政支出となる政策であり、その正当性は十分に議論される必要がある。安倍首相は、記者会見の質疑応答の中で「国民みんなでこの状況を乗り越えていく、連帯して乗り越えていくということの中においては、一律10万円、全ての国民の皆様にお配りするという方向が正しい」と述べているが、これでは十分な説明になっていない。ここでは、全国民に一律で現金を給付する意義について経済学的に考察し、あるべき制度設計について考えてみたい。

コロナショックとライフサイクル理論

経済学では、現金給付がもたらす効果を考察するには「ライフサイクル理論」を援用するのが常道である。ライフサイクル理論とは、家計が将来の経済状況を考慮して消費を決定するという理論である。その最も重要なインプリケーションは、消費は予期される生涯所得に応じて一定になるように決定されるというものである。これまでの研究で日本ではライフサイクル理論が比較的よく成り立っていることが確認されており、この枠組みで考察することは有効である(例えば、Stephens and Unayama 2011; 2012; 2015を参照)。

今回のCOVID-19の感染拡大というショック(以下ではコロナショックと呼ぶ)は、このライフサイクル理論の枠組みでは、予期しない所得の低下としてとらえることができる。営業の自粛、解雇、残業の抑制など、コロナショックが収入に与える影響はさまざまな経路が存在しているが、いずれも経済活動ができないことによる所得の減少である。COVID-19の影響を全体として考察するには、健康被害、自宅勤務などの働き方の変化、子供の教育に対する長期的な影響など、多面的に評価する必要がある。しかし、現金給付という政策の意義を考えるには、単純化して「所得に対するショック」として扱うことが有効である。

現時点では、そのショックの大きさも持続性も分からない。利用できる最新の統計によれば、2020年2月分まで、毎月勤労統計の実質賃金、家計調査の勤労世帯の実収入はともに増加している。その後の学校の休校措置、緊急事態宣言後には状況は大きく変わったが、その影響の大きさを推定する手がかりはほとんどない。ここでは、少なくとも短期的に大きな所得の低下をもたらすことを前提に議論を進める。

短期的には大きな所得の落ち込みが予想されるとはいえ、多くの労働者にとって、生涯所得への影響はそれほど大きくないと考えられる。どれほどの期間で終息するかは現時点では推定が難しいが、数カ月から1年程度で終息するなら、生涯所得との比率でみれば(深刻なショックではあるが)壊滅的というほどではないと考えられるからである。例えば、所得が半減するような期間が2年程度続いても、おおよそ40年の現役期間全体で見ればせいぜい5%程度のショックと見ることができる。

生涯所得への影響が小さければ、消費への影響も小さくなる。ライフサイクル理論によれば、消費を決定するのは生涯所得だけであり、短期的なショックの大きさには影響を受けないからである。言い換えれば、人々が長期的な視野を持って行動をしていれば、短期的なショックが与える影響は分散され、政府の介入なしにある程度は抑制できるのである。

逆に、この単純なライフサイクル理論が成り立っている限り、政府の介入の余地は少ない。一時的に10万円程度の現金給付をしたとしても、生涯所得に与える影響は無視できる程度に小さく、人々の行動を変えることはできない。現金給付を正当化するには他のロジックが必要である。

最適消費と流動性制約

これまでの研究で、単純なライフサイクル理論だけでは現実を説明できないことは知られている。その最大の原因として指摘されているのが「流動性制約」である。流動性制約とは、生涯所得の範囲内で返済可能であっても、借り入れができないという制約である。返済可能かどうかを十分に審査できないことにより発生する現象で、金融市場の不完全性を示す制約である。この借入制約があると、短期的な所得の変化が人々の行動を大きく変える可能性がある。

例えば、就職直後にコロナショックに直面した若者を想定してみれば分かりやすい。自宅勤務を命じられ、初任給が予想の半分になってしまったとする。とはいえ、長いサラリーマン生活を考えれば通常の新入社員程度の生活をしても問題ないはずである(ライフサイクル理論)。しかし、生活費が足りないという理由では銀行は融資をしてくれない(流動性制約)。その結果、半分になった初任給の範囲で生活せざるを得ず、消費は最適な水準(通常の新入社員の消費)より大幅に低くなるのである。

流動性制約に直面するのは、資産を持たない若い世代だけではない。それなりの資産を保有していても、その資産の流動性が低く取り崩しができない場合には、流動性制約に直面する。例えば、確定拠出年金の積立金は家計の重要な資産であるが、取り崩してすぐに消費することはできない。そのため、もし所得が予期せず低下すれば、十分な資産を持っても消費を大きく低下させることになる。このような、資産はあるが所得の変動に対して脆弱な世帯は「裕福なその日暮らし世帯」と呼ばれる(Kaplan, Violante, and Weidner, 2014)。

流動性制約に直面した家計は、通常の不況時であれば、現金給付のターゲットとするべき世帯として知られている。こうした家計は、手元に資金がないという理由で最適な消費ができていないため、追加的な所得が入ればすぐに消費する。つまり、流動性制約に直面する家計は、現金給付で行動を大きく変えるタイプの家計であり、現金給付の正当性を保証する存在である。

その意味で、経済全体にどれだけ流動性制約に直面する家計がいるかによって現金給付の意義が変わる。Hara, Unayama, Weidner (2016)によれば、日本の家計のうち流動性制約に直面しているのは、裕福なその日暮らしの家計を含めても約1割である。これは国際的に見て極めて低い水準である。Kaplan, Violante, and Weidner (2014)によれば、米国・カナダ・英国・ドイツでは3割以上、オーストラリア・イタリア・スペインでも約2割の世帯が流動性制約に直面している。言い換えれば、日本では他の先進国と比べ、一律の現金給付を正当化しにくい経済なのである。

この事実は、2009年のリーマンショック時の「定額給付金」が失敗とされている理由を説明できる。安倍首相の記者会見の応答の中で、定額給付金が「預金となってしまった」ことを反省していると述べているが、これは日本には流動性制約状態にある世帯が少ないためである。

現金給付を正当化できないとはいえ、マクロ的に見て流動性資産を持つ家計が多いという事実自体は朗報である。流動性制約に直面しているということは、所得ショックに対し最適な反応ができないことを意味しており、ショックに対し脆弱な経済であることを意味するからである。言い換えれば、日本はコロナショックに対して頑健な経済ということである。

結局、流動性制約を考慮しても、現時点で一律の現金給付をすることの意義は明白ではない。流動性制約に直面する1割の家計のために給付をするという主張はあり得るが、一律給付を正当化するのは難しいだろう。そもそも、今回のCOVID-19の流行が終息していない現時点で、理論的に最適な水準への調整だとしても「消費を刺激」することが望ましいか疑問である。

コミットメント消費と生活の破綻

ここまで「通常の不況」を想定して議論をしてきたが、もしそれ以上の大きな所得ショックが予想されるのであれば、流動性制約のもたらす影響は「最適な消費が実現できない」という以上に深刻な問題を引き起こす可能性がある。その問題は、所得の低下幅が大きくなり「コミットメント消費」とよばれる固定的な消費水準を下回った場合に発生する。

家計の支出の一部は固定的な性質を持っており、その水準の変更には多大なコストがかかる。この変更が困難な消費が、コミットメント消費である。具体的に言えば、家賃や住宅ローンの返済、自動車などの耐久財の支払い、学校の授業料などが該当する。コミットメント消費の存在を指摘したChetty and Szeidl (2007)によれば、家計消費の50%以上はコミットメント消費とされる。

流動性制約があれば所得の範囲に消費を切り詰めることになるが、まずは裁量的な(コミットメント消費以外の)消費の変更では対応することになる。しかし、所得の落ち込みが大きく、コミットメント消費の水準を下回ると消費の調整に大きな費用が発生する。例えば、住宅を売却したり学校を辞めたりしなければならない状態であり、体感的に「生活が破綻した」状態となる。

真に長期的なショックによって(生涯所得が大きく低下することで)コミットした生活水準が維持できなくなるのであれば、生活の破綻(コミットメント消費の変更)もやむを得ない。しかし、短期的な所得の落ち込みのために生活が破綻してしまえば非効率的であり、社会的にも影響が大きい。例えば、緊急事態宣言による営業自粛で一時的に住宅ローンの支払いが滞るだけで住宅を売却しなければならないとすれば、住宅ローンを貸している銀行にも大きな負担となる。さらに、そうした売却が相次げば住宅市場も不安定になるだろう。

今回のコロナショックが長期化すれば、流動性資産を使い尽くし流動性制約に直面し、無視できない割合の世帯が生活の破綻の危機に陥る可能性がある。この危機に対して、現金給付は有効な対応策となる。コミットメント消費を維持できる程度の金額を一時的に給付するだけで、生活の破綻を防止して、社会的な混乱は回避できる。今回の現金給付に意義があるとすれば、この生活の破綻を回避するという役割だろう。

生活の破綻の回避が現金給付の目的だと考えれば、全国民に一律で支給することは合理的である。生活が破綻するかどうかは、所得の落ち込みの大きさとともにコミットメント消費の水準にも依存するため、所得水準とは基本的に関係ない。また、債務超過になる「破産状態」ではなく、資産そのものは保有しているケースも多くなる。例えば、豪邸に住む高所得者であっても、多額の住宅ローンを抱えていれば、生活の破綻の可能性は十分にある。こうした世帯は、通常考えられるどんな支給制限であっても、恐らくは支給の対象外になるだろう。もちろん、豪邸を売れば「生きていける」世帯への支給に批判はあり得る。しかし、こうした世帯の生活を守ることは、社会的な混乱を抑えるという観点からは、十分に正当化できる。

また、一律支給によって給付のタイミングが早まるのであれば、それも正当化の理由となる。生活の破綻を避けるには、流動性制約に直面し消費を切り詰めなければならなくなった時点で手元に現金があることが必要であり、迅速な給付は不可欠である。すでに述べたように、通常の経済状態であれば日本には流動性制約に直面する世帯は少なく、諸外国と比べれば生活の破綻の危機にある世帯の割合は高くない。それでも、大幅な所得の低下が数カ月続くような事態になれば状況が大きく変化する可能性はある。現時点での報道によれば、5月下旬くらいに支給開始できるとされているが、そうであれば十分に間に合うタイミングである。

財源とコロナショック後

生活の破綻の回避は、流動性制約の一部を緩和することで達成される。生涯所得そのものを増やす必要はなく、その意味で「給付」である必要はなく「貸付」で十分である。迅速な支給が求められる中で、貸付の審査手続きをすれば大きな混乱を招くと考えられ、制度的には給付とするのは合理的である。一方で、返済が前提になる貸付と異なり、給付には財源の確保が必須である。

富裕層にも支給されることへの不公平感や現在の政府の財政状況を考慮すれば、早期に財源について議論することが必要である。しばしば、財源を議論すること自体が人々の行動を萎縮させると指摘される。しかし、今回の現金給付は貧困対策でも消費刺激策でもなくセーフティネットの整備であり、負担を意識して行動が変わる性質のものではない。ライフサイクル理論が成り立つことからも明らかなように、人々は将来まで考慮して行動しており、むしろ将来の負担が不明確であることはリスクであり行動の制約となる。

一時的な流動性の確保が目的であることを考えれば、長期の政府債務とするのではなくコロナショック終息後の早期に増税という形で負担するべきである。税負担の枠組みとしては、コミットメント消費の水準を把握できない以上、応益原則的に負担させることは困難である。既存の応能原則に基づく再分配の仕組みを強化して対応するのが、政治的にもコストが小さく迅速な対応が可能であろう。例えば、東日本大震災の際に導入された復興特別税のような仕組みを、期限を短めにして債務返済のために徴収することなどが考えられる。

ただし、今回のコロナショックは、生産活動の停止による所得の低下という性質上、そのショックが現役世代に集中していることは明らかである。安倍首相の言う通り「国民みんなでこの状況を乗り越えていく、連帯して乗り越えていく」ためには、経済的には相対的に影響の小さい高齢者に相応の負担してもらうことは不可欠である。既存の制度との整合性を踏まえれば、例えば、公的年金控除の一時停止もしくは縮小などが有力な財源確保の方法となるだろう。

また、コロナショック終息後には、再度の現金給付も考えられる。急激な所得ショックによって、生活が破綻するほどではないにしても、流動性制約に直面する世帯が増えると考えられる。流動性制約に直面する世帯が増えれば、消費刺激策が有効になる。安倍首相は記者会見の中で、4月7日の補正予算の時点では、コロナショック対策を2つのフェーズに分けショック終息後にV字回復を目指すために消費喚起策をする予定であると主張していたが、方向性としては正しい判断である。今回が家計に与える影響はリーマンショック時を上回ると考えられ、現金給付による消費喚起策は悪くない選択肢となるだろう。この可能性を考慮すれば、今回の現金支給の方法もマイナンバーなどをフルに活用し、再度の支給の際に再現可能な手続きとすることが重要だろう。

参考文献
  • Chetty, Raj, and Adam Szeidl (2007) "Consumption Commitments and Risk Preferences," Quarterly Journal of Economics, 122 (2), pp. 831-877.
  • Kaplan, Greg, Gianluca Violante, and Justin Weidner (2014) "The wealthy hand-to-mouth," Brookings Papers On Economic Activity, pp. 77-138.
  • Ryota Hara and Justin Weidner (2016) "The wealthy hand to mouth in Japan," Economic Letters, vol. 141, pp. 52-54.
  • Stephens, Melvin and Takashi Unayama (2011) "The Consumption Response to Seasonal Income: Evidence from Japanese Public Pension Benefits," American Economic Journal: Applied Economics, 3, pp. 86-118.
  • Stephens, Melvin and Takashi Unayama (2012) "The Impact of Retirement on Household Consumption in Japan," Journal of Japanese and International Economies, 26, pp. 62-83.
  • Stephens, Melvin and Takashi Unayama (2015) "Child Benefit Payments and Household Wealth Accumulation," Japanese Economic Review, 66, pp. 447-465.

2020年4月21日掲載

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