WTO交渉を生き抜く農政改革

山下 一仁
上席研究員

要約

国際競争力を持った"強い農業"を実現するためには、関税依存の消費者負担型農政を改め、価格を引き下げて対象農家を限定した直接支払いによる構造改革を実施すべきである。

1.WTO交渉が求める課題

各国のWTO交渉への対応はそれぞれの国の農業政策を反映している。アメリカは、60年代に関税や価格による保護から財政による保護(農家への補助金・直接支払い)に転換した。EUも、1992年以降穀物などの価格を大幅に引き下げ、農家に対する直接支払いによって補うという改革を行った。その結果、いまやアメリカ産小麦に関税ゼロでも対抗できるまでになっている。去る11月にも、EUは40年間手をつけられなかった砂糖の支持価格を36%引き下げ、直接支払いに転換した。高い農産物価格による消費者負担で農業を保護するという関税依存型の農政を続けている日本のみが世界から取り残され、関税引き下げに抵抗せざるを得ない。WTO交渉は農政のあり方を問うているのだ。

WTO農業交渉の構図

2003年3月のハービンソン農業交渉グループ議長の提案では、我が国の米の関税率778%は311%の関税に止まり、ミニマム・アクセスも拡大しなくてよかった。しかし、同年8月アメリカ、EUが一定以上の関税は認めないという上限関税率に合意し、今では主要国のほとんどが100%程度の上限関税率に合意している。EUが上限関税率を認める一方大幅な関税引下げに抵抗しているのは、最高の関税率でも200%程度と低いため、例えば80%の削減率では40%の関税となってしまい、許容できる100%の水準を下回ってしまうからだ。逆に著しく高い関税を持つ日本の場合、米の関税率は80%の削減率でもまだ156%である。100%の方がより低いので、上限関税率には反対する。別の見方をすれば、上限関税率100%を受け入れれば、米は90%の削減でも対応できるということなのだ。

既に、高い関税の品目には高い削減率を課すという方式が合意されている。高関税品目が多い日本はできる限り多くの品目についてこの例外扱いを求めている。しかし、例外の代償として低税率の関税割当数量の拡大が求められる。ウルグァイ・ラウンドで米について関税化の例外を得る代償として、関税化すれば消費量の5%ですむ関税割当数量(ミニマム・アクセス)を8%としたことを思い出していただきたい。原則に対し例外を要求すれば必ず代償を要求されるのが、WTOの基本ルールである。もし、上限関税率にも関税引下げにも例外扱いを求めれば、二重の代償により大幅なミニマム・アクセスの加重が求められる。日本の米のような高い関税の場合、上限関税率さえ受け入れれば、EUと異なり関税引下げの例外を求める必要はなくなる。また、今まではミニマム・アクセス米を海外への食料援助に振り向け生産調整を強化しなくても済んだのであるが、香港閣僚会議宣言によるとこのような食料援助にも規律がかかりそうである。

(表)各国の政策比較

2.人口減少時代の国民・消費者が求める課題

これまで関税に裏付けられた高い農産物価格で農業を保護してきたものの、日本農業の衰退に歯止めがかからない。1960年から今日までGDPに占める農業の割合は9%から1%に減少する一方、65歳以上の高齢農業者の比率は1割から6割へ上昇した。

食管時代の米価引上げ等により、53年まで国際価格より低かった米は今や778%の関税で保護されている。その一方、米価維持のため36年も生産調整を続けている。農産物一単位のコストは面積当たりのコストを単収で割ったものだから、品種改良等による単収の向上は農産物のコストを低下させる。しかし、生産調整の強化につながるので抑制された。また、高米価のもとではコストの高い農家も米を買うより作るほうが安上がりとなるため、零細農家が滞留し農地は集積しなかった。こうして構造改革は進まず国際競争力は低下した。

人口大減少時代を迎え、減る一方の米需要に対応して米価を維持するため、農業団体や農政の責任ある人達はどこまで生産調整の強化を農家に求めていくのだろうか。人口7000万の時に今の米価水準を維持しようとすると、約200万ヘクタールの生産調整を行い、稲作面積を現在の半分の70万ヘクタール程度まで縮減しなければならないだろう。戦前米価を維持しようとした農林省の減反政策案に反対したのは食料自給を唱える陸軍省だった。本来食料安全保障は消費者の主張である。消費者に対し、食料の供給を制限し、高い価格により家計を圧迫させる政策が食料安全保障と相容れるはずがない。

長年JA農協と共同歩調を取ってきた生協も、今では財政の支給対象となる担い手は一定の規模にあり生産性の向上に取り組んでいる農業者や農業法人等とするべきとし、高関税の逓減による内外価格差の縮小を求めている。国民・消費者にとって望ましい"農業の担い手"は、低い関税の下でも、つまり安い農産物価格の下でも必要とする食料を供給してくれる農業者である。それに反する対応を採り続けるいかなる組織も、いずれ国民・消費者の支持を失い、解体の危機に直面するのではないだろうか。"国の本なるが故に農業を貴しとするのである。国の本たらざる農業は一顧の価値もない。"という戦前の偉大な農本主義者、石黒忠篤の言葉を噛みしめる必要があろう。

米価を下げれば、米粉等輸入調製品、飼料用米、生分解性プラスティックやエタノール原料用等の新規需要も取り込むことが可能となり、人口が減少して主食用需要が減少しても米の消費は維持できる。また、米と麦等との収益格差が是正され、麦等の生産も拡大する。水田はフルに活用され、40%に下がった食料自給率は向上する。

3.本格的な農政改革の実現を望む

農業を保護することとどのような手段で保護するかは別の問題である。関税や価格はあくまで手段にすぎない。関税引下げに対応するためには、EUのように直接支払いを導入し国内価格を引き下げればよい。しかし、内外価格差のある中で関税割当数量の拡大は国内生産の縮小、食料自給率の低下をもたらす。だから99年に米の関税化に踏み切ったのではないか。ウルグァイ・ラウンド交渉の誤りを繰り返してはならない。食料自給率の向上を唱えるのであれば、関税引下げと関税割当拡大のいずれかを求められる場合は、迷わず関税引下げを選び直接支払いを導入すべきだ。関税の引下げは交渉の負けを意味しない。それによって必要となる価格引下げと主業農家に対する直接支払いは農業の構造改革と再生をもたらす。

稲作副業農家の米販売額104万円のうち農業所得はわずか10万円、これは1万6000円の米価が1500円低下しただけで消える。生産調整という価格維持カルテルを段階的に廃止し、米価を需給均衡価格9500円程度まで下げ、農業所得を大きく赤字にすれば副業農家は耕作を中止する。一方、一定規模以上の主業農家に耕作面積に応じた直接支払いを交付し、地代支払能力を補強すれば、農地は主業農家に集まる。3ヘクタール未満層の農地の8割が流動化すれば3ヘクタールの農家規模は15ヘクタール以上に拡大しコストは大きく下がる。また、週末以外も農業に専念できる主業農家は農薬・化学肥料の投入を減らすので、環境にやさしい農業を実現できる。

この直接支払いは農地への需要を高めるので、耕作放棄地も農業・食料生産のために有効に活用される。このため、農家に負担を求める一方で耕作放棄地を維持管理するためだけに終わる規制や課税よりも優れている。

農地を集落で維持管理することと農業を誰に行なわせるかは別の問題である。農地の所有者はいわばアパートの大家であり、農地を借りて農業を営む担い手はアパートの住人である。アパートの住人は家賃を払い、それをもって大家は修繕等の維持管理をする。大家が維持管理をするからと言って、大家がアパートの住人になったら、家賃も入らず維持管理もできなくなる。副業農家にとっても、農地を貸して地代を得たほうが得である。米価を下げれば地代も下がるが、借手に直接支払いを交付すると貸手に払われる地代は増加する。

日本の農業保護は消費者負担が5兆円、納税者負担が0.5兆円である。直接支払いは全額農家所得となるのに対し、価格支持のうち農薬・肥料等へ支払ったあと農家の所得となるのは5分の1である。全ての農産物の国内価格を国際価格まで引き下げても、5兆円の5分の1に相当する1兆円の直接支払いで現在と同じ農家所得を維持できる。5兆円は消費税の2%に相当する。現在消費者は高い農産物価格という税金を払っている。これをなくす替わりに消費税を2%上げても国民負担は変わらない。3兆円もある農林水産予算(地方交付税で手当てしている部分を入れると4兆円)を見直して、これから財源を捻出することももちろん必要だ。しかし、努力してもなお足らざる場合は消費税を2%上げて農政はその一部を返してもらい、残りは年金の財源や財政再建に役立ててもらえばよい。財政当局にとっても悪い話ではない。

農業を保護するかどうかが問題ではない。関税による価格支持か直接支払いか、いずれの政策を採るかが問題なのである。EUは先んじて農政改革を行い、WTO交渉に積極的に対応している。これまでどおりの農政を続け座して農業の衰亡を待つよりは、直接支払いによる構造改革に賭けてみてはどうだろうか。

攻めの農業といわれるが、そのためには構造改革を行い"強い農業" を目指さなければならない。日本が直接支払い型農政に転換すれば、関税引下げにも対応でき、攻めの交渉も可能となる。アメリカ、EU等にも弱点はある。

2000年に行なわれたWTO交渉に対する日本提案は、米のミニマム・アクセスの縮小とともに、多面的機能のための緑の直接支払いの導入や食料安全保障のための輸出数量制限の廃止という世界にアピールする内容を持っていた。2002年のモダリティ提案の際日本提案から削除した多面的機能のための直接支払いについての提案をもう一度復活させてはどうか。これこそOECD(経済協力開発機構)も支持する世界に通じる主張だった。ウルグァイ・ラウンド交渉の最終局面で我々は食料安全保障のため輸出数量制限に対する規制を農業協定の中に盛り込んだ。今回の交渉で日本は多面的機能を打ち出したにもかかわらず、現状では実現されずに終わりそうである。

2006年2月号「公庫月報」に掲載

文献

2006年3月2日掲載

この著者の記事