直接支払いの必要性と展望

山下 一仁
上席研究員

日本は国内価格を高くする消費者負担型の農業政策から転換し、負担と受益の関係が明確な直接支払い政策を導入して中核農家の規模拡大を急ぐべきである。世界貿易機関(WTO)交渉で農産物関税の引き下げが不可避になるまで改革を先送りしていては農業が衰亡してしまう。

■国民負担少なく販売価格も低下

食料・農業・農村政策審議会(農相の諮問機関)は8月10日、農業構造改革の遅れやWTO交渉に対応した農政改革の「中間論点整理」を公表した。この検討に資するため、経済産業研究所は7月末にシンポジウム「21世紀の農政改革-WTO・FTA(自由貿易協定)交渉を生き抜く農業戦略」を開催し、経済協力開発機構(OECD)農業局次長のほか、研究者や行政経験者、農業団体・経済団体関係者による討論を行った。以下ではシンポジウムでの主要な論点を紹介し、農政改革のあり方を示したい。

ケン・アッシュOECD農業局次長は、農業保護のため国内価格を高くする消費者負担型の政策について「肥料・農薬などへの支払いにより支持価格の25%しか農家所得の向上には貢献せず非効率なうえ、過剰生産を招き、肥料・農薬の多投入で環境に悪影響を与えるなど問題が多い」と指摘した。一方、特定の目的や農家に対象を絞った納税者負担型の直接支払い(所得補償)は「負担と受益の関係が明らかで国民負担も少なく、高い関税も必要としない」と述べ、政策手段として高く評価した。

そして「欧州連合(EU)が納税者負担型農政に転換したのに、日本の農業保護は依然として消費者負担型の割合が極めて高い。しかも保護が特定の産品に偏っており、経済的な非効率を生んでいる」と日本の農業政策に疑問を呈し、農産物の輸出振興についても「国内市場で輸入品を競争できないものは海外市場でも競争できない。国内市場を守りながら輸出市場を開拓することは不可能である」と述べた。

日本が消費者負担型農政となったのは1960年代以降、農家所得向上のために、構造改革ではなく、米価引き上げを実施したからだ。農業資源は収益の高い米に向かい、過剰となった米の生産調整を30年以上も実施する一方、麦などの生産は減少し、食糧自給率は79%(60年)から40%(2002年)へ低下した。農家一戸当たりの平均耕地面積は0.9ヘクタール(60年)から1.2ヘクタール(2000年)に増えただけだ。

国際価格より安かった米は490%の関税で保護されている。兼業化が進み、副業米単作農家の所得(02年は792万円)は勤労所得(646万円)を大きく上回っているが、食糧供給の主体となるべき主業農家は育たなかった。

政策対象を主業農家に限定し構造改革を積極的に推進したフランスでは、自給率は99%(61年)から132%(2000年)へ、農場規模は17ヘクタール(60年)から42ヘクタール(2000年)へ拡大し、穀物価格は国際相場を下回っている。

高米価政策で規模拡大進まず

なぜ日本で規模拡大が進まなかったのだろうか。主業農家にとって、販売額から肥料・農薬などの物財費と労働費を引いた後に支払えるのが地代である。他方、副業農家にとって、販売額から物財費を引いたのが所得であり、農地を貸し出せば失われるため、これを対価として要求する。つまり、主業農家が相当に効率的で、支払い可能地代(販売額マイナス物財費・労働費)が副業農家の所得(販売額マイナス物財費)を上回れば、農地は集積する。

規模が大きくなるほどコストは低下するため、規模拡大は支払い可能地代を増やし、さらなる拡大につながる。しかし、構造改革を行う前に高米価政策を導入した日本では、コストの高い副業農家でも米を買うより自ら作る方が安上がりなので農地は貸し出されず、規模拡大の好循環は生まれなかった。3ヘクタール規模の農地の支払い可能地代が、最小規模の0.5ヘクタール未満の農家所得をかろうじて上回るのが現状だ。

副業農家の平均米販売額は109万円で、農業所得はわずか12万円にすぎない。これは60キロ当たり16000円の米価が1800円低下しただけで消えてしまう。価格維持のための生産調整を廃止し、米価を需給均衡価格9500円程度まで下げれば副業農家は耕作を中止するだろう。さらに農業版特別土地保有税を導入し、不作付け対応の機会費用を高めれば、農地は貸し出される。

一方、一定規模以上の主業農家に耕作面積に応じた直接支払いを交付し、地代支払い能力を補強してやれば、農地は主業農家に集まる。3ヘクタール未満層の農地の8割が流動化すれば、3ヘクタールの農家規模は15ヘクタール以上に拡大する。規模拡大によるコストダウン効果により、構造改革を行わずに内外価格差をすべて補てんする場合に比べて財政負担は大幅に軽減できる。

直接支払い(関税全廃の場合でも所要額は1.7兆円以内)を約3兆円の農業予算内で処理すれば、財政負担は増えない。価格は下がり、約5兆円に及ぶ農業保護の消費者負担部分は消滅し、関税引き下げにも対応できる。最大の農産物純輸入国でありながら最も農業保護主義的な国との国際的批判を返上できる。

シンポジウムでは、農政改革の基本的視点として、(1)直接支払い導入を前提として関税引き下げなどWTO農業交渉に積極的に対応しなければ日本が攻めるべき分野の交渉も進まない(2)対象農家を限定しない直接支払いでは、農業は効率化されず国民負担は減少しない(3)副業農家が多数を占める米作では、対象者を限定できるという直接支払いの最大のメリットが政治的にはデメリットとなるが、政府・与党が強い意志を持ってこれまでの農政から決別し、基準が明確な直接支払いの導入に踏み切るべきだ――などの意見が出された。

対象者の限定については、副業農家も水路・農道の管理などで役割を果たしており、集落営農を対象とすべきであるという意見に対し、(1)企業家精神を持った農業経営者の育成が必要であり、その参入・活動を阻害している要因を除去すべきだ(2)兼業セーフティネットがある副業農家にまで直接支払いをすることは国民の理解が得られない(3)担い手のいない集落営農は長続きしない――といった意見が出された。

生産調整についても、廃止すれば米価が下がるとの意見に対し、(1)現場では廃止しようとする動きがあり市場原理を導入すべきだ(2)価格低下で影響を受ける農業依存度の高い主業農家にのみ直接支払いをすればよい(3)副業農家は米価が1万1000-1万2000円を切れば農地を手放す(4)関税が下げれば生産調整による価格維持はできなくなる――などの意見が出された。

「中間論点整理」変化は見えず

審議会の「中間論点整理」は、麦・大豆などについて生産物補助金(2000億円程度)の一部を担い手農家に対する面積当たりの直接支払いに移行するとしたものの、WTO交渉で本格的な関税引き下げの議論が先送りになったため、米・麦・牛乳などの関税下げへの対応としての直接支払いは見送るという内容にとどまった。支援対象農家を限定する方針は評価できるが、価格を下げて直接支払いに移行するという考え方は見られず、消費者負担型農政にいささかも変化はうかがえない。

EUが先んじて農政改革を行い、これをもってWTO交渉で関税引き下げ、輸出補助金撤廃など積極的な対応を行っているのと対照的だ。また、麦などの農家手取り価格の引き下げで、米の相対収益性は一段と有利になり、食料自給率はさらに低下するだろう。

柳田國男、和田博雄、小倉武一ら農業政策を担った先人には、農家の貧困克服は零細農業構造の改善によるべきで、農産物価格を上げ消費者家計を圧迫すべきでないとの明確な農政理念があった。その後、高米価政策に転換した農政を受け、農家は経済原理に即して米単作兼業で豊かになったが、農業は衰退した。

WTO交渉での関税引き下げを待たず、衰退著しい農業に内在する問題、特に構造改革が遅れている米問題に対応した改革を早急に行わなければ、日本の農業は内から崩壊する。従来の農政を続け、座して農業の衰亡を待つのではなく、直接支払いによる構造改革に踏み切るべきである。戦後の農地改革は農林省の発案だったことを思い出してほしい。年末の審議会最終報告に向け、真の農業構造改革のための政策論議を期待したい。

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2004年8月26日 日本経済新聞に掲載

2004年8月30日掲載

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