合理的な家計の消費はどのように動くのか。安定して予測可能な、整然とした動きを想像するかもしれない。しかし一定の条件の下では、予測不可能な「ランダムウォーク」に近い動きになる。酔歩とも訳され、酔った人の千鳥足のような「でたらめ」な動きを示すという統計的な性質だ。
合理性が「でたらめ」をもたらす。この逆説的な構造を明らかにし、その含意をデータで示したのが、2026年のノーベル経済学賞に選ばれた米スタンフォード大学のロバート・ホール教授だ。米コロンビア大学のマイケル・ウッドフォード教授とともに「マクロ経済安定化のミクロ的基礎」への貢献が評価された。
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ホール氏の代表的な論文は、ロバート・ルーカスらが主導した「合理的期待革命」の最中の1978年に発表された。当時の議論では、家計や企業が利用できる情報を使って将来を予想し、それに基づいて行動することが強調された。
政策が変われば予想も行動も変わるため、過去の統計的な関係をそのまま政策の効果予測に使うことはできない。マクロ経済の変動を理解するには、個々の意思決定に立ち返る「ミクロ的基礎」が必要とされた。その重要な応用の一つが、家計消費だった。
従来のケインズ経済学では、所得が増えれば消費が増えることが前提とされていた。それがさらなる所得を生み出し、乗数効果が生まれるとされた。
それに対しミルトン・フリードマンの「恒常所得仮説」や、フランコ・モディリアーニの「ライフサイクル仮説」では、家計はより長期的な所得の動向や資産を考慮して消費を決めるとされ、一時的な所得変動に対して消費はほとんど反応しないと考えられた。
将来を予期して行動するという前提はもっともらしいが、実際の消費行動を説明できるかについては議論があった。難しいのは、家計の予想を研究者は直接観察できないことだった。それに対しホール氏は発想を転換させ、将来予想そのものを測らずに家計の合理性を検証する方法を考えた。
注目したのは消費の変動を嫌うという、経済学が前提にする人間の性質だ。家計は今ある情報を織り込んで消費の変動をならそうとする。このため、家計は予期された所得変動には反応せず、消費が変化するのは新しい情報を得たときだけという論理が成立する。
簡単な事例で考える。定年が近づき、退職金支給とその後の所得低下が予想される個人がいたとする。その個人は貯蓄や資産の取り崩しによって消費を一定に保とうとする。結果として所得が退職前後に大きく変動しても、予期されている限り消費は変化しないことになる(図の左参照)。
ここで、退職前に退職金制度が廃止されることが分かったとしよう。すると、その情報を得た時点で人生設計がやり直され、消費は落ち込む。まだ現役で働いており所得は変わらないが、将来使えるお金が減ると分かるからだ(図右)。
このように、消費の変化をもたらすのは将来の見通しを改めさせる「新しい情報」だ。すでに知られた所得の変動は計画に織り込み済みで、実現した時点で消費を変える理由にはならない。一方、消費の変動要因である新しい情報は予測できない。これが、消費変化は予測不可能というランダムウォーク仮説である。
ホール氏は米国のデータを分析し、過去の所得変動には消費変化への予測力がほとんどないことを示した。予想された所得増減は消費を動かさないことを意味し、所得が消費を直接動かすというケインズ経済学的な見方を否定した。将来を考慮して行動するという家計像にデータによる裏付けを与え、新しいマクロ経済学の成立を実証面から支える重要な貢献となった。
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ただし単純な理論がそのまま正しかったわけではない。78年論文でも他の研究者による後続研究でも、過去の情報で消費変化を予測できる例が多く見つかった。それを受け、理論から外れる消費の動きをどう説明するかに議論が広がった。
合理的な家計の消費は、今日の消費と将来の消費の最適な配分を表す「オイラー方程式」と呼ばれる数学的な関係を満たすとされる。ホール氏の研究以降、消費の研究は理論の前提であるこの関係に立ち戻り、消費変化が金利や所得でどのように理論的に説明できるかが考察され、検証されるようになった。この手順は「オイラー方程式アプローチ」と呼ばれ、現代マクロ経済学の重要な基礎となり、ウッドフォード氏の研究にも応用された。
ホール氏自身も、消費の変化が予測可能になる理由を探る研究に取り組んだ。その成果の一つが、82年のフレデリック・ミシュキン氏との共同論文である。
ミクロデータを用いて世帯レベルでの消費と所得の動きを分析し、一時的な所得変化への消費の反応が、単純な理論の予測より大きいことを示した。この結果は、貯蓄が乏しく借り入れも難しい家計が存在すると想定すれば説明可能な動きとされ、理論と現実のずれを「流動性制約」に帰着できる可能性を示した。
この論文は、二つの点でその後の実証研究の方向性に大きな影響を与えた。第一に、マクロという一国全体の経済現象の分析にもミクロデータの活用が有効だと示した点である。第二に家計の置かれた状況の違い、特に流動性制約が消費の動向に大きな影響を与える可能性を示した点である。どちらも90年代以降の消費分析の特徴であり、ホール氏が切り開いた潮流だ。
さらに88年の論文では予想実質金利と消費の成長率の関係を分析した。オイラー方程式を使い、金利が変わると家計が現在と将来の間で消費をどれほど移すかを推計した。その反応の大きさは「異時点間の代替の弾力性」と呼ばれ、金融政策の消費への影響を考えるうえで重要な指標である。
ホール氏はこの弾力性が小さく、0.1程度だという結果を得た。これは、金利の変化に対する消費の反応が弱いことを示唆する。先行研究では同じ弾力性について1前後の大きな推計値が報告されており、大きな隔たりがあった。この食い違いをめぐり、データの扱い方や推計方法の信頼性などについて議論がされた。ホール氏はここでも、消費と金利の関係を問い直す後続研究を引き出す大きな役割を果たした。
共同受賞のウッドフォード氏の研究は金融政策に直結し、政策的意義は分かりやすい。それに対しホール氏の研究の政策的意義は見えにくい。それはケインズ型政策を批判し、有効性を問い直す流れの中で生まれた経緯を考えれば自然だ。
しかし、消費を動かすことの難しさを浮かび上がらせ、政策がどのような条件で効果を持つのかを考える手立てをもたらした意義は大きい。たとえば事前に広く予告された給付の効果は薄いこと、給付は流動性制約に直面した世帯に集中すべきことは、現在も通用する重要な原則だ。現代の日本でも、ホール氏の研究から学ぶべきことは多い。
2026年10月29日 日本経済新聞「経済教室」に掲載