人的資本経営の盲点とは

鶴 光太郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

企業の人事・労務関係者がいま注目するバズワードの一つに人的資本経営がある。人的資本とは人の持つ能力・スキルを一種の資本として捉える概念である。機械や工場などの物的資本と同様、投資を行うことで人的資本は拡大し、リターンを生むと考える。

古典的な経済学の枠組みでは、労働はあくまでフローの労働力、つまり一定期間に投入された頭数×労働時間=マンアワーで捉えられていた。人的資本という考え方に立てば、労働者の能力・スキルというストックが、インプットとして企業の付加価値創造に貢献することになる。

人的資本は、経済学で提唱されてから既に半世紀以上の歴史があり、決して新しい概念ではない。にもかかわらず、なぜいま人的資本経営なのか。それは、企業が付加価値を生むためのインプットとして、かつての物的資産から人的資産(資本)を含む無形資産に、より重点が移ってきているからだ。

人的資本がより重要になっているということであれば、企業は従業員の能力・スキルの向上を目指して、人への投資を積極的にやるべきであろう。しかし従業員のパフォーマンスを向上させるには、別の手段もあることを忘れてはならない。それは、人的資本の稼働率向上だ。

工場や機械であれば、機能を向上させるだけでなく、稼働率を上げるのが有用な手段であることは常識だろう。人的資本の場合も同様だ。能力・スキルは一定でも、稼働率を向上させることで従業員のパフォーマンスをより発揮させることは可能なはずだ。

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では、人的資本の稼働率に影響を与えるものは何であろうか。筆者は、従業員のウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状態)と考える。例えば、ウェルビーイングの一例である健康状態が悪ければ、働き手はどんなに能力・スキルを持っていたとしてもパフォーマンスを発揮することはできない。

人的資本には、人への投資だけでなく、ウェルビーイングの向上を通じて稼働率を向上させるやり方がある。どちらが望ましいやり方かは、もちろんその時々の状況によるだろうが、効果発現のタイミングは一つの論点だ。

物的資本を例にとり、最新鋭の設備を新たに導入するか既存設備の稼働率を高めるかの選択を考えると、後者の方が時間をかけずに実施でき、効果も早くでることは明らかだ。人的資本の場合も同様であり、ウェルビーイング向上は人への投資よりも即効性があるという意味で、人的資本経営の大きな柱と考えるべきだろう。

人的資本拡大に関するもう一つの重要な論点は、対象者と投資のマッチングの問題である。なぜなら、人それぞれに伸ばすべき能力・スキルは異なるため、必要な人に必要な投資がうまくマッチングされているかがその効果を大きく左右することになるからだ。

デジタル化、人工知能(AI)といった技術革新が急速に進む中、新たなスキルを身に付けるリスキリングが注目されている。しかし、誰がどのようなスキルを身に付けるべきかという各論はあまり論じられていない。リスキリングと共に語られることの多い「DX(デジタルトランスフォーメーション)人材」という言葉も、かなり曖昧だ。

もちろんオフィスワーカーに限らず、現業部門の従業員にとっても、紙ベースではなくデジタルで仕事を完結させること、たとえばパソコンで表計算、ワープロ、メール、プレゼンなどのソフトが自由に使いこなせることは現在版「読み・書き・そろばん」である。

これは徹底したデジタル化を進めていく上で、いまやあらゆる働き手が身に付けておかねばならない基本的スキルといっても過言ではない。その意味で、底上げ的なリスキリングは必要不可欠だ。

しかし、誰もがプログラミングできるようにしたり、むやみにデータサイエンティストの数を増やしたりすればよいというわけではないことには注意が必要だ。真のDX・AI人材とは、DX・AIの専門的・技術的な知識・経験・スキルを持つ人材というよりは、それを使って仕事のプロセスやビジネスをどう変えていくことができるかを、発想豊かに想像できる人材と考えるからだ。

マッチングは本人の仕事との関係でも重要である。神戸大学の佐野晋平准教授らと筆者のグループは2022年に発表した論文で、ICT(情報通信技術)スキルについて、本人が保有しているレベル、仕事における利用のレベルを「まったくない」から「高度なレベル」まで5段階に分け、賃金との関係をみた。

保有しているICTスキルのレベルが高くなるにつれて賃金が高くなるとは限らないが、ICTスキルの利用については、その高度化に伴って賃金はより高くなることが分かった(図参照)。つまり、単に高いICTスキルを保有しているだけでは宝の持ち腐れになる場合があり、それが十二分に活用される仕事に就いて初めて、賃金などにも反映されるということだ。

図 ICTスキルの賃金への影響:保有と利用の違い

このことからも単にスキル向上を目指すのではなく、企業の内外を問わず、働き手の能力・スキルが生かされる場に移動や配置されることが企業・従業員双方にとってメリットになることが分かる。

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能力・スキルの問題を議論していくと、結局は日本独特のメンバーシップ型雇用と欧米のジョブ型雇用の違いにいきつくことになる。ジョブ型雇用の場合、その仕事・ポストが要求する能力・スキルはあらかじめ契約で明示化され、それを満たす人がそのポストに採用される。このため、採用された人の保有するスキルとその仕事で利用されるスキルは、基本的に一致するはずだ。

一方、日本のメンバーシップ型雇用の場合、定期的な人事異動が行われる中で、持っているスキルが十分生かされない仕事に回される場合には、スキルの保有と利用に乖離(かいり)が生まれることになる。

人的資本経営を志向し、能力・スキル向上に目を向けるのであれば、必然的に雇用システムもメンバーシップ型から職務限定型正社員といったジョブ型雇用に転換していくことが大前提となる。もちろんジョブ型といっても、近ごろ世間でたいそうはやっている、単なる職務記述書を作成するだけの「なんちゃってジョブ型」ではない。

ここでのジョブ型雇用とは、雇用契約で職務を明示し、採用や異動は基本的に公募で行う仕組みを指す。人的資本経営の重要な要素としてよく挙げられる、人材の多様性・専門性、キャリア自律性、副業・兼業の推進などもジョブ型でなければ促進は難しい。人的資本経営を実践したい企業は、真のジョブ型雇用と正面から向き合うことから始めるべきである。

2023年1月12日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2023年1月20日掲載

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