格差是正と成長、両方を追え

鶴 光太郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

岸田文雄政権にとって、去る7月の参院選は一つの節目であった。なぜなら、国政選挙が予定されていない、いわゆる「黄金の3年間」を迎え、人気取りではなく、真に日本経済にとって必要な経済政策の立案に集中することができるためである。その際、参考になるであろう主流派経済学者や国際機関などでみられる最近の経済政策のイデオロギーの変化について概観してみたい。

経済政策は大別して、景気循環を平準化・安定化させる財政・金融政策を中心としたマクロ経済政策と、所得再分配や資源配分の効率化を目指すミクロ経済政策とに分けられる。後者は、税・社会保障政策や競争政策、イノベーション(技術革新)政策、貿易政策、産業政策、雇用政策など多岐にわたる。特に、経済の構造にメスを入れ、資源配分の効率化などを通じて一国の潜在成長力を高めようする政策は、構造改革・成長戦略と呼ばれてきた。

図:良質な雇用創出戦略と伝統的ミクロ経済政策との比較

この中で、政治的なイデオロギーにより影響を受けやすいのはミクロ経済政策である。海外をみても右派は新自由主義的な考え方の下、市場原理を重視し、政府の規制・財政面の関与はなるべく最小を目指す。一方、左派は所得の再分配をより重視し、政府の関与、大きな政府を正当化する。

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もちろん米国、英国などをみても、1970年代は右派政権でも福祉国家化が進む一方、90年代以降は左派政権でも新自由主義的な改革が行われたことには留意すべきだ。しかし2つのイデオロギーが二律背反として捉えられてきたことは、厳然たる事実である。

しかし近年は、こうしたイデオロギーの対立に変化がみられる。例えば経済協力開発機構(OECD)は、加盟国の構造改革・成長戦略の優先順位を指摘したり、改革の進捗状況を評価したりする報告書「成長に向けて」を2005年から公表しているが、17年版から貧困・格差是正といった包摂性、19年版から(環境の)持続性を改革の優先項目として導入した。

岸田政権発足当初は政府・与党内で「分配か成長か」という論争があったようだが、国際的には社会的課題を放置したままであれば、成長もままならないという認識が浸透してきている。また、主流派経済学者の間でも「包摂」という言葉がキーワードになりつつある。例えば開発・国際経済学の碩学(せきがく)、ダニ・ロドリック米ハーバード大学教授らは「包括的繁栄のための経済学」という経済学者のネットワークを設立し、新自由主義後の経済政策のあり方についての議論・提言を行っている。

そのメンバーにはダロン・アセモグル米マサチューセッツ工科大学教授ら、最先端で活躍するそうそうたる面々が名を連ねている。彼らの論考からは、米国を筆頭に市場原理主義のバイアスが強い政策が行われ、驚くほどの格差拡大、大企業の支配力集中、環境危機の放置を引き起こしたという反省のもと、主流派経済学の研究成果を経済政策の現場にいかしたいという強い思いが伝わってくる。

中心メンバーであるロドリック氏はこの基本的な考え方を踏まえ、党派を超えた経済政策の新たなパラダイムとして「プロダクティビズム」(生産主義)をごく最近、提唱した。その考え方について紹介したい。

その目的は、あらゆる地域、階層の労働者に対しその生産力が高まる機会を広く行き渡らせることにある。そのためにまず、市場よりも政府や地域社会に重要な役割を求めている。

また、その対象として、大企業ではなく中小企業、金融ではなく生産・投資、グローバル化ではなく地域コミュニティーをより重視し、活性化させていくことを主眼としている。例えば産業政策については、従来、利益団体に取り込まれがちで非効率的であり、「政府は勝者を選べない」と否定されることが多かった。

一方、ロドリック氏は産業政策には明らかな失敗もあるが、実証分析をみると、経済的に不利な地域で投資や雇用創出を促進するような政策はかなりうまくいっており、多くの批判は行き過ぎていると主張する。

生産主義の具体的な手法としては、包摂的繁栄を目指すといっても従来型の再分配や社会的移転といったケインズ的福祉国家政策ではなく、すべての人に「グッドジョブ」(良質な雇用)を提供するという、供給(企業)サイドからの施策が彼の提言の核心だ。

労働者の学歴やスキルが低い場合でも、彼らが得る雇用の量・質の向上を促すことが重要であり、それが中間層の維持のために必須であると主張する。特に、ターゲットとされているのはサービス産業だ。

良質な雇用創出に政府が関わらなければならない理由は外部性の存在だ。良質な雇用が創出されないと、その地域の人々の健康、教育水準は悪化し、犯罪が増加し、大衆迎合、民主主義の危機に発展し社会的・政治的衝突が高まるなど経済・社会・政治的なコストが巨大化する危険性がある。

一方、こうした負の外部性を通常、企業は考慮に入れずに行動する。逆に良質な雇用創出は正の外部性、好循環を生む。しかし外部性への対処として、事前に規模が決められた一律的な補助金や税優遇措置といった従来型の政策には否定的だ。なぜなら、多様かつ大きな不確実性の存在と「状況に応じて考え、対処すること」(コンテクスチュアリゼーション)を考慮に入れる必要があるためだ。

つまり、雇用創出戦略における目標設定や支援の手法は、地域や企業の特異性によってカスタマイズされるべきだし、環境の変化にも柔軟に対応、修正する必要がある。このため、そうした対応を可能にする政府と雇用創出を行う企業との関係は、距離を置いたもの(アームズレングス)ではなく、協力的・反復的な関係でなければならないとしている。過去の良質な雇用創出戦略が必ずしもうまくいかなかったのは、カスタマイズされ、進化していくことができなかったからというのが彼の主張だ。

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良質な雇用創出戦略を考える際の他の重要な論点として、技術の問題がある。ロドリック氏は「労働者に優しい技術」、つまり、雇用を代替するのではなく増加させるような技術の推進が必要であり、政府もその役割を担っていると説く。人工知能(AI)についても、教育や医療の分野での雇用創出の可能性を指摘している。

こうした新たな経済政策のパラダイムの提示は、日本の経済政策にどのような意味合いをもたらすのか。「格差是正VS成長」という二分法、これらがトレードオフ(相反)であるという考え方は、既に陳腐化していることを認識すべきだろう。両方を達成するために必要不可欠な、政府と民間の密接な連携は、むしろ日本のお家芸ともいえる。「二兎(と)を追わぬ者は一兎をも得ず」こそ、日本の構造改革・成長戦略の指針とすべきであろう。

2022年9月14日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2022年9月26日掲載

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