成長戦略はどこへ行った 働き方改革こそ本筋

鶴 光太郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

「新3本の矢」「一億総活躍社会」をキャッチフレーズにした、安倍政権の経済政策アベノミクス第2ステージが始動した。安全保障法案が成立し、従来のアベノミクスに息切れがみられる中で、見せ場を大きく転換させる必要があったのだろうが、唐突感も否めない。なぜなら、こうしたコンセプトが既に林立する有識者会議で議論された痕跡がないからだ。

新鮮さを売りにするなら、いきなり首相会見で披露する方が効果的だろう。しかし、その意味合いが必ずしも広く共有されていないという問題点も明らかになってきた。

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安倍晋三首相が具体的に言及した「国内総生産(GDP)600兆円」「出生率1.8」「介護離職ゼロ」は、首相側近の間でさえ、「矢」というよりも「的」ではないかとの議論があったようだ。

一方、10月29日に開催された一億総活躍国民会議の資料では、新3本の矢を「希望を生み出す強い経済」「夢をつむぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」と定義し直している。民主党政権時代に打ち出された「強い経済」「強い財政」「強い社会保障」を思い起こさせるネーミングだ。

旧アベノミクスと何か異なるのか。旧3本目の矢である成長戦略は「GDP600兆円」を目指す取り組みに吸収されると考えるのが自然だろう。しかし、10月15日の産業競争力会議の資料では、今後の成長戦略の2つの柱は「生産性革命」「ローカルアベノミクスの推進」と明記され、旧看板のままだ。こうしたテーマが新3本の矢の残り2つである「少子化」「介護」とともに、「一億総活躍社会」とどう結びついていくのか。

アベノミクス第2ステージには旧主役と新主役が入り乱れ、混沌の様相を呈してきた。

こうした状況を脱するには「一億総活躍社会」を目指して新3本の矢を束ねる横軸が必要ではないか。それは「ひと」にまつわる改革である。つまり教育を含む広い意味での人材改革と働き方改革だ。

生産性の行方を決定づけるイノベーション(技術革新)を生み出し、男女を問わず、子育て、介護をしながら安心して生き生きと働き、活躍できる社会を構築するには人材・働き方改革が不可欠だ。「一億総活躍社会」に向けた取り組みのど真ん中に人材・働き方改革が入ってこなければ、アベノミクス第2ステージは単に子育て・介護対策にバラマキをもくろむ選挙対策と批判されても仕方ないだろう。

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筆者が委員を務める規制改革会議では、働き方改革の根本は多様な働き方の実現ととらえ、そのためにどのような改革が必要か、どのような社会が生まれるのかを整理し、公表した(図参照)。5つの改革のポイントの中でも、健康や公平な処遇の確保を前提に、時間や場所にとらわれず柔軟に働くことができることが特に少子化・介護対策でも重要な視点と考える。

図:多様な働き方への改革
図:多様な働き方への改革
(出所)規制改革会議(2015年10月26日)提出資料から抜粋

また、すべての人が持てる力を十分発揮できるためには、何よりも就職や転職といった雇用の入り口で納得した選択ができることが重要だ。

人材・働き方改革が難しいのは、一朝一タで片づけられない、息の長い取り組みが必要だからだ。ドイツのシュレーダー首相時代の雇用制度改革を例に出すまでもなく、改革の果実を得るのは次の政権かもしれない。

旧アベノミクスの特徴の1つは、政策に関して短期的志向が強かったことだ。念願の安保法制の実現のためには、政権としては経済分野で加点を矢継ぎ早に重ねることで政治的資本をできるだけ高く積み上げる必要があった。株価や支持率の動向に常に目配りしつつ、経済分野ではっきり目に見える成果を追い求めるしか道はなかったといえる。

過去の政権では、政治的不安定さを理由に、霞が関の各府省も時間がかかる長期的なコミットメント(約束)を要求される政策には及び腰だった。しかし現状では、長期的視点で改革を断行していくだけの政治的安定性が確保されているにもかかわらず、政権の維持・長期化を図るために政策がむしろ短視眼的にならざるを得ないというジレンマに陥っているようにみえる。

その例を1つ挙げれば、今後国会での議論が予定される、高度な専門能力を持つ労働者を対象に労働時間の長さや時間帯と賃金のリンクを切り離す「高度プロフェッショナル(脱時間給)制度」である。これは新たな労働時間制度の創設として重要な第一歩ではあるが、1000万円以上の高い年収要件など対象範囲がかなり限定されていることは「一億総活躍社会」という視点からは、やはり問題含みだ。

労働時間に限らず、雇用制度改革の方向性で気になるのは、江戸時代、特定の場所でのみ貿易を許可した、いわば「出島主義」という考え方である。つまり、年収の高い高度専門職という「出島」の場合は例外的に規制の見直しは認めるが、その他の部分では一切認めない(いわゆる鎖国)という方針である。

もちろん、こうした「出島主義」は労使の合意という視点からはより摩擦が少なく、早く成果が出るという点て効果があったかもしれない。しかし今後は、時間にとらわれない働き方を望む広い層に対しても、健康のみならずバランスのとれた処遇を確保したうえで、さらに改革をつなげていくことが必要だ。

また、多様な働き方の実現を目指すには、政策決定プロセスの見直しも急務である。各種の会議体で雇用制度改革についてかなり具体的な提言をしても、労使の代表が参加していないことを理由に、厚生労働省ではいちから研究会を立ち上げる。その後、労働政策審議会で審議が進められ、結論が出るまでに1年半程度かかることが多い。

さらに、今回の改正労働者派遣法のように、最初に国会に提出されてから成立するまでにかなり時間がかかると、他の雇用制度改革もその余波を受けて検討プロセスに軒並み遅れが出てしまう。

働き方改革はその効果が出るまで時間がかかるだけに、少しでもスピーディーに実行に移していくことが求められる。そのためには現在、雇用を議論している様々な会議体の役割を整理したうえで、労使の代表が参加し、3者構成を確保し、非正規雇用を含め多様な働き手の声が届くような国民的議論の場を新たにつくり、一本化する必要がある。

首相、関係閣僚、有識者なども参加する会議体で働き方改革の大きな方向性・枠組みを決定し、労働政策審議会でより具体的かつ細部にわたる制度設計を検討するという役割分担が必要だ。その意味で、今回設置された一億総活躍国民会議に労働側の代表が入らなかったことは残念だ。

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働き方改革は、われわれがこれまで慣れ親しんできた仕組み・文化・意識のレベルにメスを入れることになる。その意味で「岩盤」は既存の法律というよりも、われわれの頭の固さであり、それこそがドリルを向ける対象であるかもしれない。

1990年代から変革期に入った日本の雇用システムに根本的な変化が表れるまでに一世代の時間がかかることを覚悟すべきだ。ただ経営者が30~40代の企業では、IT(情報技術)なども活用した新しい働き方が確実に生まれてきている。粘り強い取り組みを続ける中で、1つ1つの働き方改革を着実かつ迅速に実行していくことが求められる。

2015年11月10日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2015年12月1日掲載

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