独の労働市場改革に学べ

鶴 光太郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

欧州では債務危機後、ドイツ経済の底堅さが際立っている。世界金融危機後の2008年第1四半期の落ち込みは欧州で最も大きい部類だったが、その後はおおむね高い成長率を維持し、欧州経済のけん引役を務めてきた。失業率も上昇傾向に歯止めがかからない国が多い中、ドイツだけは05年にピークを示して以降、08~09年にやや上昇したものの、5%台半ばに低下した。見事な強じん性を発揮したドイツ経済とその労働市場に注目が集まっている。

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時計の針を10年ほど前に戻してみよう。当時ドイツは失業率が他の欧州主要国を上回るなど経済が停滞し、「欧州の病人」と呼ばれていた。シュレーダー首相(当時)は労働市場を抜本的に改革するため、02年にフォルクスワーゲンの労務担当役員だったペーター・ハルツ氏に依頼し、「ハルツ委員会」を立ち上げた。03年3月に、改革の方向性を示した「アジェンダ2010」を発表。03~06年に「ハルツ改革」と呼ばれる一連の改革を進めた。

具体的には、ハルツ第I・II法(03年施行)で、失業者を派遣労働者として登録し、仕事を紹介する人材サービス機関の設置や、個人企業の設立を通じた自立プログラム、所得税や社会保険料が部分的に免除される低賃金労働制度の導入などが行われた。

続くハルツ第III法(04年施行)では、連邦雇用庁や、日本のハローワークにあたる雇用局を改組し、機能を抜本的に強化した。数値目標の設定や成果の説明責任を求め、サービスを多様化。民間との競争も促した。労働市場改革法(同)では失業手当の受給期間を大幅に短縮。ハルツ第IV法(05年施行)では、従来の失業手当と別に、半永久的に給付していた失業扶助(失業手当がもらえない人が対象)と社会扶助(生活困窮者が対象)の一部を統合し、就労を促す動機づけを組み込んだ新しい失業給付を創設した。

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こうした改革が始まって10年がたったが、近年、ドイツの「奇跡」に着目する分析が相次いでいる。大別すると改革の影響に関する分析と、08~09年の世界的大不況を乗り切ることができた要因に関する分析に分けられる。

独パーダーボルン大学のルネ・ファー教授と独ミュンヘン大学のウーヴァ・スンデ教授は09年の論文で、新規就労者数の決定要因を示す関数を月次データを用いて推計。ハルツ改革が主に製造業でマッチング(仲介)の速度に正の影響を与え、特にIII法はI・II法より早く大きな効果が出たことを示した。

ドイツ連邦銀行のミヒャエル・クラウゼ氏とハラルド・ウーリッヒ米シカゴ大学教授は12年の論文で、ハルツ第IV法で半永久的に給付してきた失業扶助を廃止したことでドイツの失業率が2.8%下がったことを示した。

伊ボッコーニ大学のルカ・サラ准教授とアントネラ・トリガリ准教授、スウェーデン国立銀行のウルフ・ソーダーストルム氏も12年の論文で、職探しや仲介に時間がかかることや、賃金などの硬直性を考慮したモデルを、ドイツ、米国、英国、スウェーデンの4カ国について推計し、各国の労働市場の構造変化を分析している。

これによると、失業者が受け取る利益を示す数値はドイツが4カ国で最も低いという結果が出た。失業給付の水準・期間を制限し、積極的な職探しを義務付けた改革の影響が大きいと結論付けている。マッチングの効率性は1994~2005年に低下したが、05年以降は高まっていた。

彼らは07年から最近までの失業率低下の要因を分析。ドイツでは仲介制度の充実によるマッチング効率の改善や、労働者の賃金交渉力低下といった労働市場の構造変化が大きく寄与しており、技術変化や金融の影響が大きかった他国と異なることを示した。

また、ドイツの労働市場が米国と同じ構造だったという仮定でシミュレーションを行うと、生産は同じような動きをするものの、失業率は大不況時にかなり上昇したであろうという結論を得ている。ここからもドイツの改革の効果をうかがうことができる。

08~09年大不況時におけるドイツの労働市場に着目した分析としては、ミヒャエル・ブルダ独フンボルト大学教授、ジェニファー・ハント米ラトガース大学教授の11年の論文が注目される。特に、大不況時に失業率の上昇が小さかった理由として、その前の景気拡大期における悲観的な経済見通しにより雇用増が低い水準にとどまった分、不況になっても雇用削減が限定的であったことに加え、1人当たりの労働時間の大幅な削減を強調している。

彼らが重視しているのは労働時間貯蓄制度の役割である。この制度は時間外労働に対して割増賃金を支払うのではなく、銀行口座と同じように所定外労働時間を貯蓄し、後でまとめて休暇などに使える仕組みである。ドイツで導入されたのを皮切りに、オランダ、ベルギー、フランスなどの欧州諸国で導入されている。ドイツでは05年の時点で48%の労働者が労働時間貯蓄口座を持っている。

好況時に所定外労働時間が増えて、この口座の残高がプラスである労働者を不況時に解雇すると企業は貯蓄された労働時間に見合った割増賃金を支払う必要がある。つまり、労働時間貯蓄口座に残高のある労働者の解雇費用はそうでない労働者に比べより高くなるのだ。このため企業は不況時に労働者の労働時間を減らし、口座の残高がゼロになるまで人員削減を先延ばししようとする。残高がゼロになる頃に景気が回復し始めれば結果的に人員削減をしなくても済むことになる。

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ドイツの改革の日本への含意は何であろうか。ハルツ改革は「支援と要請」をキャッチフレーズに、労働者に自助努力を要請する一方、訓練などの支援による円滑な就労を重視していた。日本の場合、失業保険を受給できない求職者への職業訓練と、給付金支給を組み合わせた現行の求職者支援制度の効率化が必要である。

第2は、ドイツの労働市場改善の最も重要な要因が職探し・仲介の効率性向上だったことである。様々な改革が補完的に組み合わさって大きな効果が現れたが、特に日本のハローワークにあたる雇用局が改編・強化され、職の紹介を断った場合のペナルティーが強化されるとともに、民間職業紹介の規制緩和も先だって行われたことが重要である。

安倍晋三政権の雇用政策は「失業なき円滑な労働移動」がキャッチフレーズだ。それが「耳当たりのいい言葉」に終わらないためには、ハローワークと民間人材ビジネスの補完・協力関係の強化と、後者が最大限力を発揮できる環境の整備によるマッチング効率の向上が不可欠である。

最後に、日本でも労働時間貯蓄制度をぜひ導入すべきである。1カ月60時間を超える時間外労働については既に割増賃金を有給休暇に変える仕組みがあるが、より一般的・包括的な制度にすべきである。この制度は働き方の柔軟性を高め、労働者が気兼ねなく自発的・自律的に有給休暇をとることにつながる。ワークライフバランスを改善し、年休所得率アップの起爆剤になることを期待したい。

2013年5月22日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2013年5月30日掲載

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