雇用軸に制度改革急げ

鶴 光太郎
上席研究員

昨年末以来、景気の急降下が止まらない。高山のクレバスの暗闇に小石が音もなく吸い込まれて落ちていくのを眺めているような恐怖感が漂う。はたして落ちていく先に底はあるのか。需要の急速な収縮とそれに応じた大幅な生産減少を、単なる政府の財政出動で押し止めることができるかどうかは疑問である。

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今回の危機の発端は、米国での住宅・土地市場のバブル発生・崩壊であり、その点で過去の金融危機とあまり変わりはない。一方、証券化や仕組み債といった複雑な金融技術がリスクの転移を容易にしたが、バブル崩壊で一気にリスク評価が不可能となった。このため金融資本市場取引の前提となる信頼が崩れ、取引や価格付け機能がマヒしてしまったことが今回の大きな特色だ。

その結果、何がどんな確率で起きるかわからなくなるという不確実性が高まり、極端なリスク回避的、様子見的な行動が広がった。それが需要をさらに減退させ、危機を深刻化させた。契約の不完備制や情報の非対称性があるため、様々な経済主体間の取引の根底には、信頼や評判の有無が実は重要な役割を果たしている。そうした信頼が崩れ、不安が自己増殖するプロセスが他の市場や取引にも波及していったのである。

こうした状況での政府の役割は、不信や悲観の連鎖がさらに景気の落ち込みを深くして大恐慌に至る事態を避けることだ。それには経済主体の予想に影響を与えるような政策を考えるべきだ。また単に景気を上向きにするより、高まった不確実性をなるべく小さくする政策が求められる。

具体的には、まず、緊急・応急的な措置として、経済主体の疑心暗鬼、不安を取り除き、安心を回復させるような広義のセーフティネット充実を迅速かつ果断に行うことが重要だ。健全な企業の破綻を防ぐため政府の信用保証などで企業の資金繰りを支援したり、資本が大きく棄損した金融機関に公的資本を注入して金融システムの安定化を図ったりすることはこうした観点での政策と考えられる。特にそのための支出規模を事前に大きく設定し、将来さらに問題が起これば迅速に対応することをコミット(約束)すれば、大きな安心につながる。

もちろんこうした政策は、常に政府が助けてくれるという期待を生めば、将来的にモラルハザードにつながる危険がある。だがそれを心配するあまり、政策断行をためらえば、事態は深刻になるだけだ。取り付け騒ぎで窓口に預金引き下ろしの長蛇の列ができた銀行では、預金者を安心させるために、カウンターに札束をうずたかく積み上げよといわれる。まずは、「安心」の確保のために政府は万全の準備を整えているということを積極的にアピールすべきだろう。

一方、緊急・応急的な措置ばかりに気をとられていると、政策の大局観を見失いかねない。すなわち、短期的な政策と整合的で補完的な長期的な制度設計・制度改革へのビジョンが欠かせない。

経済の有事になぜ痛みを伴う制度改革をあえて行う必要があるのか疑問視する向きもあろう。しかし見方を変えれば、「危機こそ制度改革のチャンス」である。危機はこれ以上の制度改革の先送りを不可能にする。そこまで追い込まれることがむしろ抜本的な改革を進める原動力となる。

また、危機の時には楽観的な成長期待が排除される。これも、制度改革着手のサポート材料になる。これも、制度改革の着手のサポート材料になる。歳出歳入一体改革が集中議論された2006年当時、景気は順調だったが消費税を含めた歳入改革は頓挫した。一方、世界経済危機が深刻化した昨年秋以降、むしろ消費税を含む抜本的税制改革の議論が進み、その道筋がしるされた「中期プログラム」が策定されたことをみても明らかである。

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景気急降下とともに雇用情勢の急速な悪化が進んでおり、国民の「安心」を確保する観点で、雇用・労働問題への対応が今、最も重要な政策課題といえる。ここでは先に述べた短期の緊急対策とそれと整合的な長期の制度設計を、「安心」「育成」「柔軟」という3つのキーワードを使って考えたい。これら3つの政策は「三本の矢」のようにお互いに相互補完的である。

まず、「安心」とは短期的に景気の急激な落ち込みの影響を最も受けている非正規労働者に対しセーフティネットを早急・大胆に拡充させることだ。特に雇用保険は、適用基準が現在の1年以上の雇用見込みから6カ月以上に緩和される方針だが、十分ではない。雇用見込み機関にかかわらず、労災保険と同様すべての雇用者に適用されるようにし、年金・医療などの社会保険とも一体的に運用できる制度改革も考えるべきだろう。

だがセーフティネット施策のみが寛大になりすぎると、労働者のモラルハザードを誘発し、労働市場が硬直的になる副作用が生じる。1970年代の石油危機後、福祉国家にまい進した欧州諸国で、景気が回復しても失業率が低下しないという長期・構造失業に長年苦しんだ経験を忘れてはならない。「安心」を強化するなら、以下に述べる「育成」「柔軟」という視点も取り入れて長期的な制度設計を行う必要がある。

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「育成」とは、失業した場合でも容易に再就職できるような訓練、補助金付き雇用、公的職業紹介といった積極的労働政策を行うことだ。失業給付が手厚い国ほどモラルハザード効果を減殺するため積極的労働政策に力を入れている(図)。ただし、欧米の経験では、多くの既存の政策は必ずしも成果を上げておらず、教育、訓練に対する政府介入の効果に過大な期待はかけられない。

図:失業給付と積極的労働政策の関係

一方、その中で失業者が新たな職を見つけるインセンティブ(誘因)を高めることを目的とした「アクティベーション」は注目に値しよう。雇用カウンセラーが失業者と定期的にインタビューを重ねることで職探しをサポートしたり、訓練などのプログラムを受けない者には失業給付を厳しく制限したりするような条件を付けるオランダやスイスなどで行われている対応は日本でも参考になる。

また、「柔軟」とは労働市場や働き方の柔軟性・流動性を高める方策である。失業者が就業者を、非正規労働者が正規労働者を希望し、努力すれば円滑に転換できるように労働市場の制度的基盤が整備されるべきである。失業者と就業者、非正規労働者と正規労働者が分断され、二極化がさらに進むような労働市場の硬直化は避けなければならない。製造業の派遣切りが社会問題化しているが、非正規雇用の問題の本質は雇用期間に定めのある有期雇用にある。

女性の有期雇用の割合は経済協力開発機構(OECD)諸国の中でも既にトップレベルにある。これがさらに高まれば、雇用調整は有期労働者のみに集中し、正規労働者は雇用、賃金の面でまったく影響を受けない状況になりかねない。大きな不確実性に直面している個々の企業にとっては有期雇用比率を高め雇用調整のバッファーを確保することは合理的で望ましい行動かもしれない。だが日本全体でみれば、こうした非正規労働者だけが深刻な不況の荒波を受ける状況は、日本の政治・社会・経済の安定性に貢献してきた「社会的一体性」を根本的に揺るがす恐れがある。

有期雇用には雇用保障が小さい分、同一労働に対してはむしろ何らかの形でプレミアムを支払うことを義務付けるべきである。また、正規労働者の待遇も福利厚生の優遇是正に始まり、最終的には雇用保障のあり方の見直し(金銭解決の導入と整理解雇四要件の中での手続き・説明義務要件の重視・明確化)まで視野に入れて制度設計を行い、正規、非正規両サイドから均等処遇に努めるべきである。正規・非正規双方の労働者が景気変動のリスクを分かち合いながら、この経済危機に立ち向かっていくことが必要だ。

2009年2月13日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2009年2月20日掲載

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