東アジア戦略の歴史的好機

添谷 芳秀
RIETIファカルティフェロー

いま東アジアで、中国の台頭が引き起こす渦に巻き込まれるように、新たな経済統合の機運が高まっている。中国は国内問題の舵取りに不安を抱えており、この新しい地域秩序に向けた動きが安定的に推移するかどうかは予断できない。

日本の東アジア戦略は、中国中心の潮流の安定化に寄与しつつ、その流れが乱れたときには、代わって地域秩序を支えられるものであることが望ましい。それは、中国への対抗意識とは無縁の、日本の強みを存分に活かすものでなければならないだろう。

そのことを最も明確に認識しているのは、実は中国との付き合いに腹をくくったかにみえる東南アジア諸国である。よくASEAN(東南アジア諸国連合)の人たちは、中国への対抗意識であれ何であれ、日本が東アジア政策に本気になってくれればありがたい、という言い方をする。そこにあるのは、ASEAN諸国の体質ともいえるバランス感覚であり、70年代以来30年に及ぶ日本との緊密な関係に裏打ちされた信頼である。

ASEAN諸国からみると、日本の強みとうまみは、中国とは全く異なるのだろう。これだけ中国の台頭が叫ばれても、ASEAN諸国との貿易は、日本は中国の3倍である。さらに日本のASEAN諸国に対する直接投資は、最近の単年度実績で中国の10倍以上、これまでの蓄積だと実に50倍を超える。

さらに、これまで日本は、国境を越えた地域共通の文化や価値意識に支えられた市民社会のネットワークの発展に、有形無形の役割を果たしてきた。経済から始まって、最近ではファッションやアニメ、テレビドラマなどが浸透し、東アジアの市民の日本イメージを大きく変えつつある。さらに重要なことに、東アジアの市民をつなぐ共通の日常感覚やライフスタイルは、韓国、香港、台湾、タイの映画やドラマなどが交互に受け入れられることで、一層強固になりつつある。もともとの流れをつくった日本の存在は相対化され、東アジア市民社会のなかの一員となった。

その結果、アジアの若者の間で、戦後日本に対する違和感は急速に薄れつつある。とりわけASEANの人々は、政府関係者も含め、中国と対面するときは緊張するが、日本との関係は居心地がいいということを公言するまでになった。これからの日本の東アジア戦略は、これまで日本が培ったパートナーとしての資産の上に、共同体の構築を志向できる段階に達したように思う。

今年12月、東京で日本・ASEAN特別首脳会議が開催される。しかしながら、この「歴史的出来事」に対する日本内外の認知度は極めて低い。とりわけ、日本外交の成果といってよい特別首脳会議の意義が、日本においてほとんど理解されていないことは、日本の東アジア戦略の不在を極めて象徴的に示している。

今回の日本・ASEAN特別首脳会議が「歴史的」なのは、これが、東南アジア域外で開催される、ASEANと特定の域外国とのはじめての首脳会議だからである。これまで、ASEANと域外諸国との二者間の首脳会議は、もっぱらASEAN首脳会議やASEAN+3の場で、付随的に開催されてきた。

元来ASEANは、域外の一国との関係を突出させることには極めて慎重であった。97年はじめに、当時の橋本龍太郎首相が日本・ASEAN首脳会議を提案した際にも、その提案をそのまま受け入れようとはしなかった。結局ASEANは、アジア通貨危機を経た同年末、ASEAN+3という東アジア協力の新たな枠組みのなかに橋本提案を吸収した。

それだけに、今回ASEANが歴史上はじめて、域外国である日本との首脳会談を日本で開催することに同意したのは、極めて画期的なのである。日本の外交当局は、特別首脳会議の場で両者の特別な関係を謳う「日本・ASEAN憲章」を採択するよう働きかけている。

日本にとって皮肉なのは、ASEAN側に、日本での単独の首脳会議に応じても域外関係のバランスを崩さないという総合的な判断があることである。裏を返せば、ASEANの行動に、それだけ中国の重みが効いているということでもある。ASEAN側は、日本との関係を際立たせる「憲章」には消極的だが、その一方で、自由貿易協定(FTA)をめぐって日本が本気で協力を進めるつもりがあるのかと問いかける。

日本は、農業問題などの個々の課題については、対等なパートナーとして共同体構築を志向する東アジア戦略の一環という視点から、新しい国内対策を進める必要があるだろう。総じて、ASEAN諸国からみた日本との経済関係は、中国との関係とは対照的に、競合的というより相互補完的なのである。さらに、国境を越える市民社会が共有する日常感覚や価値意識は、東アジア共同体の重要なインフラである。

これまで培ってきた資産を、日本の東アジア戦略にもっと明示的に組み込まない手はない。日本・ASEAN特別首脳会議という好機が、そうした東アジア戦略に着手する歴史的な一歩であってほしい。

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2003年11月2日 朝日新聞「時流自論」に掲載

2003年11月11日掲載

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