国連外交の再構築急げ 「日米機軸」と両立-イラク復興で問われる

添谷 芳秀
RIETIファカルティフェロー

イラク戦争における米国支持は、「対米追従」ではなく、日本が新しい外交に踏み出したとみるべきである。戦後の課題として日本は、日米基軸主義と国連外交を整合的な政策として両立さていく必要がある。「サダム後」のイラクと中東情勢への関与でそれが問われる。

「対米追従」は皮相的な見方

米国のイラク攻撃を支持した日本政府の立場をめぐって、国内の意見は2つに割れた。日本政府の論理は、米国支持、イラク支持、中立という3つの選択肢のなかで、中立が一番無責任、イラク支持は問題外、米国支持こそ日本の利益にかなうというものであった。それに対する多くの批判は、政府の米国支持が結論先にありきのいつもながらの日本外交の「対米追従」に過ぎないのではないかという、強い不信感を滲ませた。

しかし、今回のように国際法的正当性が疑われる米国の行動に対しては「理解」の表明に留めるのが、これまでの日本政府の対応の常であった。イラク攻撃を疑問の余地なく「支持」した小泉純一郎内閣の政策はこれまでにない新しいものであったというべきである。

日本外交批判としての「対米追従」論の欠陥は、その新しさに発想が及ばないところに表れていた。米国を後追いすることに対する違和感から、日本外交にとっての日米基軸主義の深みを覗こうとせず、日米関係以外のところに新しい展望を求めようとする。

日本の多くの議論にみられる国連中心主義への傾斜は、そうした特徴を持っているように思う。その発想からは、日米基軸主義と国連外交とを、日本外交の整合的な政策としてどのように両立させられるのかという発想は、なかなか生まれにくい。このことには、歴代の日本の政権にも責任がある。日米基軸主義と国連中心主義を日本外交の重要な柱として掲げてきたのは、他ならぬ日本政府である。そこには、国連中心主義を唱えることで、日米基軸主義に対する国民の不満を紛らわそうとする発想もあった。

日本にとって腰の据わった国連外交とは、日米基軸主義と両立しなければならない。しかも、単に矛盾しないというだけではなく、生産的な相乗効果をもって、国際秩序の安定に資するものでなくてはならない。「ポスト・サダム」のイラクと中東情勢への日本の関与は、旧来の惰性を超えて、日本外交の新たな地平を切り開くものにならなければならない。

米国支持は新しい外交

そうした発想から今後の日本外交のあり方を考えるにあたり、米国のイラク攻撃、およびそれを支持した日本外交の新しさを確認しておく必要があるだろう。米国の動機や意図を、「一極支配」とか「力による世界支配」というグランドデザインの観点からとらえることは、おそらくそれ自体間違っているし、議論の前提として筋違いであろう。今の米国の根底にあるのは、まず何よりも自己防衛の衝動である。

2001年9月11日のテロの衝撃は、それだけ米国人の心を芯から揺さぶった。このことはブッシュ政権の外交をどう評価しようが、事実として認めなければならない。だからこそ国際的にこれだけ不人気だったイラク攻撃に対する米国人の支持は高かった。

今回のイラク攻撃をすばやく支持した小泉政権の対応の背景には、深く傷ついた米国人への共感があった。「9.11」テロ直後、「米国と共にある」ことを明りょうに示した小泉首相の対米外交が想起される。

政策論としては、集団的自衛権の行使を認めていない日本政府には、米国の自衛の戦争には協力できないという苦しい事情がある。だから日本政府も米国政府も、日本国民に対しては、米国の自衛の論理にはできるだけ触れないようにしている。しかし、同盟関係には政策以前に信頼関係が重要であり、「9.11」テロ後の小泉内閣の対米政策が日米同盟の基盤の強化に貢献したことは間違いないだろう。

さらに、たとえ自衛の衝動からであれ、米国が本気で対テロ戦争に踏み出せば、それは国際政策としての実態を備えることになる。米国にとって外交を実践する場はまさに世界であり、米国が動けば世界が動くからである。そこでは、民主的で平和な世界を構築しようとする、建国以来の米国の使命意識が沸々と頭をもたげる。現在のブッシュ政権の外交には、自衛の衝動と普遍的価値や国際的大儀が、分かち難く結びついている。

この意味では、小泉政権が米国のイラク攻撃を支持したことには、重要な価値判断が含まれている。国際政策としての米国外交の背後にある普遍的価値に、イラクやアラブ世界の価値体系とは衝突することを承知の上で、明確にコミット(同意)したのである。従来日本外交は、どちらかといえば相対主義に傾き、明確な価値へのコミットは避けてきた。それは国民世論の期待するところでもあった。しかし、「9.11」テロには、価値の選択を迫る衝撃があった。そして小泉外交は、旗幟を鮮明にした。

振り返ってみれば、冷戦後の米国は、テロを自国に対する最大の安全保障上の脅威として認識するとともに、大量破壊兵器の拡散防止を重要な国際安全保障の課題として掲げてきた。「9.11」テロ後の新しさは、米国外交においてこの2つが分かち難く結びついたことにある。そこに、いわゆる「ネオコン(新保守主義派)」の、目標と価値への揺ぎない信念とあらゆる手段で目的を達成しようとする強い決意が作用し、先制攻撃論とブッシュ大統領の「悪の枢軸」演説が生まれた。

こうしたブッシュ政権の中枢にいる「ネオコン」にとって、一国主義か多国間主義かは、意味のある選択肢ではないのだろう。重要なのは、目的達成に必要であり有効であるかである。そうした米国に対して、国連は確かに無力であった。というより、米国の決意を前にして、国連がそれを阻止できるという前提自体が、おそらく間違っていた。できもしないのに「阻止すべきだ」と叫ぶことは、世界世論の表明としては重いものがあったものの、政策論としてはほとんど意味がなかった。

新たな国連のあり方提示を

今日国連は、明らかに岐路に立っている。常任理事国入りを目指す日本は、新たな国連のあり方を提示し、その将来像のなかに常任理事国としての自らの位置づけを示すべきであろう。「ポスト・サダム」のイラクと中東に対する日本外交は、そうした国連外交再構築の試みの重要な第一歩である。

イラク復興のために日本が具体的にすべきことは、すでに語られ始めている。人道支援、ライフライン整備、社会インフラ整備、医療支援、教育等、いずれも意味のある貢献になるだろう。事実、近年の日本外交は、こうした領域に対して意図的に力点を移すようになってきており、故小渕恵三首相は、それらを一括して「人間の安全保障」と呼んだ。

日本外交の問題として重要なのは、こうした対応を、世界における日本の生き様を象徴するものとして、「外交戦略」に高めることである。そしてそれは、新たな国連外交の足掛かりとしても、大きな潜在性を持つだろう。

そうした国連外交と米国の接点は2つ考えられる。ひとつは民主化である。米国を源流とする民主化の潮流は、米国の意識的政策のいかんにかかわらず、後戻り不可能な世界の趨勢となっている。その流れに一定の国際的枠組みを提供することは、今後の国連の主要な役割になっていくように思う。

そこでの国連の役割は、民主化を「米国化」と誤認することから生まれる無用の混乱を防ぐためにも重要である。日本は、中東支援にあたり、普遍的価値としての民主主義とそれを推進する米国にコミットしながら、民主化のプロセスと形態は多様であるということを国連の場で訴え実践していくべきだろう。それは、日本の戦後の経験に即したことでもある。

その上で、伝統的な安全保障領域での米国との同盟関係の重要性は、当面不変であることを確認する必要がある。これは、国連における集団安全保障体制が、すでに過去の遺物と化したこととも関連する。1991年の湾岸戦争の時と違って今回国連が機能しなかったことは、国際安全保障にとっての国連の役割が根本的に変質しつつあることを示していた。日本には、国連にすべてを頼りきれない安全保障問題が付きまとうのである。

2003年4月15日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2003年4月15日掲載

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