公衆衛生の論点 規制のみ、被害抑制に限界

小黒 一正
コンサルティングフェロー

薬物やアルコールなどの依存症に陥っている人々は、それが健康を脅かすと頭では理解していても、自らの行動習慣をなかなか改めることができない。これは医学的な理由だけでなく、行動経済学の手法を用いた先端的な研究によっても確認できる。

代わりとなる魅力的な報酬がない状況で薬物やアルコールから強制的に引き離すと、生活を圧迫するほどのコストをかけても闇市場から調達するなど、より依存が強化されることがわかっている。救済を目的とする政策であっても、当初目的とは正反対の結果を招く可能性があるのだ。

現在、多くの国では薬物やアルコールなどの問題に対し、規制強化や厳罰化といった手段の限界や弊害の反省を踏まえ、補完的な政策手段がとられている。倫理的な是非を超えて、あくまで政策としての有効性を考慮し、本人や共同体への被害(負の外部性を含む)を最小化する狙いだ。これが「ハームリダクション」である。

身近な例では、たばこの喫煙問題で活用が進んでいる。たばこには伝統的な紙巻きたばこ、加熱式たばこ(IQOSなど)、電子たばこ(JUULなど)などがある。加熱式はたばこ葉を燃焼させず、加熱で生じる蒸気を吸引する。たばこ葉を使用しているため、たばこ事業法に基づいてたばこ税が課されている。

電子式は、デバイス内の液体(リキッド)を電気加熱することで発生する蒸気を吸引する。海外ではたばこに位置付けるケースもあるが、日本ではニコチン入りのリキッドは、たばこ事業法ではなく医薬品医療機器等法の対象として医薬品に位置付けられる。

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喫煙はがん発生の上位要因であり、健康リスクを低下させるためには禁煙が最も望ましい。しかし誰もが実行できることではない。なぜなら中毒性のニコチンが含まれているからだ。

一方、たばこ関連疾患の最大の原因はニコチンそのものではなく、燃焼で発生する煙に含まれる化学物質であることも明らかになっている。加熱式たばこや電子たばこは燃焼を伴わないことで、有害成分への暴露を最小限化あるいは除去する目的の製品である。

このため海外では、紙巻きたばこより有害成分への暴露が少ないとみられる、こうした代替喫煙製品への移行を促すという政策がハームリダクションの概念のもとに普及し始めている。英国では2017年のたばこ規制計画、ニュージーランドでは20年に成立した法律で、紙巻きたばこからの切り替えを推奨するキャンペーンを実施している。

日本政府はこの考え方を採用していないが、その理由は、ハームリダクションの明確な定義やそれを定める基本的な法律が存在していないためだ。

この結果、何が起きたか。防衛費増額がクローズアップされた23年度の税制改正大綱では、財源の一部として法人税や所得税のほかたばこ税の増税約2000億円により、1兆円程度を確保する方針が決まった。増税案では、加熱式たばこの税率を現行の紙巻きたばこと同率まで引き上げる措置が検討されている。

そもそも日本では、加熱式たばこと紙巻きたばこの税差はおおむね10〜20%で、国際的にみて低い水準にあった。ハームリダクションを推進する英国の税差は70%超で、イタリアやフランスも大きい。

新時代戦略研究所では6月、筆者、東京財団政策研究所の渋谷健司研究主幹や慶応義塾大学の土居丈朗教授らによるハームリダクションの観点からのたばこ政策に関する提言を行った。基本法制定の重要性のほか、たばこ増税に関する試算も公表した。試算では、(1)基本シナリオ(2)課税方法を変化させた場合――で分析を行っている。

まず(1)では、紙巻きたばこは1本につき1.1円増税、加熱式たばこは1本につき3.3円増税するとすれば、紙巻きたばこと加熱式たばこの税差がゼロになり、2000億円の税収を確保できる。

(2)では5通りのシナリオを分析した。具体的には、(1)の合計増税額4.4円を固定した上で、紙巻きたばこの増税額を引き上げ、加熱式たばこの増税額を引き下げた。この試算結果を図に示している。

図:ハームリダクションに基づくたばこ増税効果の試算

結果をみれば、加熱式たばこ1円分の増税効果(343億円程度)は、紙巻きたばこ1円分(675億円程度)の約半分である。税収確保という面からも、加熱式よりも紙巻きの増税額を引き上げた方が増収効果は高いことが判明した。

なお、提言では加熱式たばこの場合、従価税部分が価格引き下げ競争を招くため、かえって税収の減少、喫煙人口の増加を招く懸念がある点についても指摘している。また、2000億円を上回る超過税収分の一部は、社会保障財源に活用することも可能だろう。

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ただし、紙巻きたばこに比重をおいた課税を行うと、葉たばこ農家の経営に影響を及ぼすとの指摘も多い。かつての日本専売公社時代からの流れもあって、政治的な摩擦を生みやすく、それがハームリダクションの議論が進まない理由の一つと考えられる。

とはいえ、国産葉たばこの生産量は年間1.4万トン程度であり、外国産葉たばこの輸入量もその倍の2.8万トン(20年度)にすぎない。背景には、若年層を中心にたばこ離れが進み、葉たばこ耕作者が急激に減少していることがある。

実際、04年には1万8727人いた葉たばこ耕作者(販売代金は981億円程度)が、22年時点では2292人(同173億円程度)に減少している。必要であるなら、電子たばこの税収などからでも国内農家への補償を十分に賄うことが可能であろう。

現在、ニコチン入りの電子たばこは日本では承認されていないが、ネットなどを利用して個人輸入といった形式で海外製品を入手することは可能だ。この件について、筆者は日本総合研究所の川崎真規シニアマネジャーとの共同研究で、アンケート調査による1万人規模のデータを利用して日本の電子たばこ市場規模を推計した。

その結果、ニコチン入り電子たばこの市場規模は322億〜335億円となった。たばこ事業法を改正し、仮にニコチン入り電子たばこに対しても「たばこ税等」を課すと、約169億円〜約176億円の税収増を獲得できる可能性が明らかになった。

日本が健康長寿社会の実現を目指すならば、国民の健康の維持・改善を促すためにハームリダクションの概念を取り入れる必要があるのではないか。加速するグローバル化のなかで、依存性のある物質に対する意識転換も求められている。

たばこ税を、取りやすい財源の一つとして扱うのはあまりにもったいない。ハームリダクションの理念や、たばこ政策などに関する基本法の策定に向け、「より小さな悪」を許容する議論も、公衆衛生という大きな目的のためにはあってもよいのではないだろうか。

2023年9月4日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2023年9月12日掲載

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