約70年前、当時の日本財政に危機感を抱く人物がいた。高橋是清蔵相だ。昭和金融恐慌で疲弊した日本経済を、公債発行による積極的財政政策で立て直した人物として知られる。いわゆる1931年から36年の「高橋財政」だ。
しかし、その間の財政赤字は歳入の約4割に達する「借金で借金を賄う」財政状況だった。高橋蔵相は35年、財政規律を確保するため赤字公債や政府支出の削減を進めようとしたが、翌年の「2.26事件」で暗殺された。これを機に日本財政は完全に財政規律を失っていき、そのツケは最終的に敗戦後の数年間における急激な物価上昇や預金封鎖・資産課税などで払われた。
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高橋蔵相は「多額の公債が発行されたにもかかわらず、いまだ弊害が表れずかえって金利の低下や景気回復に資せるところが少なくないので、世間の一部にはどしどし公債を発行すべしと論じる者もあるが、これは欧州大戦後の各国の高価なる経験を無視するものである」と発言している。
この発言は、現在の日本財政を巡る議論と「そっくり」と気づくはずである。実際、現在の日本財政は約90兆円の歳出のうち、およそ半分に当たる44兆円を国債発行で賄っている。国内総生産(GDP)に対する公的債務残高は200%に迫る勢いだが、長期金利は1%台で安定して おり、「もっと公債を発行しても問題ない」との主張も根強い。
一方、欧州では南欧諸国を中心に財政危機が再燃し、ギリシャ2年物国債の利回りは30%台にまで上昇している。それでも「国債の多くを海外の投資家が保有するギリシャと異なり、国内で消化する日本では財政危機は起きない」といった声も聞かれる。
だが、もはや日本経済の国債消化は限界に近づきつつある可能性が高い。国民総所得(GNI)に対する「国民貯蓄」(民間貯蓄と政府貯蓄の合計から固定資本減耗分を除いた純貯蓄)の推移をみると明らかだ。バブル崩壊後の90年以降、少子高齢化の進展で国民貯蓄は次第に減少し、2009年にはついにマイナスに転落した。「次世代への富の移転」ともいうべき国民貯蓄がマイナス(赤字)に陥ったのは、政府貯蓄の赤字幅が民間貯蓄(固定資本減耗を除く)を上回ってしまった結果だ。
なお、政府貯蓄は、一般政府(国、地方、社会保障基金)における政府収入(税や保険料など)と、社会資本整備などの政府投資以外の政府経常支出との差額をいう。基本的に政府貯蓄の赤字幅は赤字公債の発行規模に相当する。
その際、貯蓄・投資バランス(ISバランス)に基づけば、「国民貯蓄=(投資-固定資本減耗)+経常収支」という関係式(以下ISバランス式」という)を導ける。日本の国民貯蓄は赤字で経常収支は黒字だから、もはや日本経済が資本ストック(企業の生産設備や住宅、堤防や道路などのインフラの合計)の更新費用を賄えない状況(投資<固定資本減耗)に陥っている事実を示す。
しかも、日本の社会保障予算(年金・医療・介護)は、政府貯蓄の赤字幅を拡大させる方向に働く。社会保障給付のうち、保険料収入で賄えない部分は一般会計からの公費で補填されており、毎年約1兆円のスピードで膨張している。公費補填の膨張で政府経常支出は増えるので、財源確保が不十分なままでは政府貯蓄の赤字幅を拡大させる。
政府貯蓄のうち、国の財政収支は一貫して赤字基調で、社会保障基金は98年以降、地方も02年以降、赤字に転落している。ここ数年、それらが拡大傾向にあることも見過ごせない。さらに、民間貯蓄が少子高齢化の影響で減少もしくは横ばいで推移すると、国民貯蓄の赤字幅は拡大していく。こうした国民貯蓄の減少は本格的に資本ストックの食い潰しが始まることを意味し、国内の生産が縮小していくシナリオも想定される。
ただ、09年の国民貯蓄がマイナスに陥ったのは、08年のリーマン・ショックの影響による可能性も高い。このため、80年以降の国民貯蓄(対GNI)の推移から、トレンド部分の動きのみを抽出する作業をすると、国民貯蓄がマイナスに陥る時期が若干異なるものの、グラフの日本の「トレンドの推移」が示すように、2年後の13年にはマイナスに転落することが分かる。
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では、他の主要国の国民貯蓄(対GNI)の推移はどうか。グラフで各国の「トレンドの推移」をみると、日本と同様に少子高齢化が進展しているドイツ、フランス、英国、韓国などでは、20年まで国民貯蓄がマイナスに陥ることはない。これに対し、20年までに国民貯蓄がマイナスとなるのは、日米と既に財政危機に陥っているギリシャの3力国のみである。
米国の場合、国際市場の支払い手段として他国が基軸通貨であるドルや米国債を保有する動機があり、経常収支の赤字を維持できるので、国民貯蓄がマイナスでも比較的弊害が少ない。すなわち、前述のISバランス式において「国民貯蓄の赤字幅<経常収支の赤字幅」という関係が成り立つ限り、「投資>固定資本減耗」となり、民間で資本ストックの更新費用が賄えない状況には陥らない。
しかし、基軸通貨国ではない日本やギリシャは異なる。特に、経常収支が黒字である日本の国民貯蓄がマイナスのまま継続するということは、資本ストックの食い潰しが進むことを意味する。
日本が資本ストックを維持するため、国内投資を過去の蓄えである対外純資産(累積経常収支)の取り崩し(または海外からの借り入れ)で賄うこともできる。しかしその場合、国内投資の収益率が借入利子率より低ければ、恒常所得の低下を意味する。また資本ストックの維持には最低限、その固定資本減耗に見合う投資が必要であるが、国民貯蓄がマイナスの場合、ISバランス式で無理に「投資=固定資本減耗」とすると、国際経済において日本の「富」の象徴であった経常収支は赤字となってしまう。
要するに、資本ストックを維持しようと投資を拡大すると経常収支は赤字に転落し、経常収支の赤字を回避しようとすると資本ストックが食い潰され国内の生産が縮小していくというジレンマに陥る。前者を選択すれば、財政危機が深刻化しているギリシャのような財政・経常収支の「双子の赤字」に直面し、日本経済の弱体化が進むだろう。
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歳出の約半分に及ぶ財政赤字をいつまでも放置できると期待するのは間違いである。近い将来、現在の規模での公債発行は限界を迎える。高橋蔵相の「公債が一般金融機関等に消化されず日本銀行背負い込みとなるようなことがあれば、明らかに公債政策の行き詰まりであって悪性インフレーションの弊害が表れ、国民の生産力も消費力も共に減退し生活不安の状態を現出するであろう」との発言が現実味を帯びてくる。
この破局的なシナリオは、かつて敗戦後に日本が経験したものであり、再び同じ過ちを繰り返してはならない。現在の日本財政を取り巻く最大の課題は、44兆円という財政赤字の縮小のみでなく、毎年約1兆円のスピードで膨張する社会保障予算をどう効率化し、その安定財源をどう賄っていくのかという問題でもある。財政・社会保障改革により財政収支を改善できれば、国民貯蓄を再びプラスに戻すことができるはずである。
その意味で、政府・与党が6月30日にまとめた「社会保障と税の一体改革」案の推進は極めて重要である。加えて、東日本大震災の復興対策や福島第1原発問題も抱える中で、さらなる財政・社会保障改革の推進が求められる。
政争は政治の常であるが、非常時における不毛な対立は許されない。まずは日本財政の現状を直視し、高橋是清蔵相が将来の日本の利益を守ろうと命懸けで行動したように、本当の意味での政治のリーダーシップを期待したい。
2011年8月16日 日本経済新聞「経済教室」に掲載