中国は東京電力福島第1原子力発電所の処理水の海洋放出を受け、日本産の水産物輸入を全面的に停止した。日本産農林水産品の輸出先の3割超を占める中国や香港は輸入規制を強めてきたため、すでに水産物の価格に影響が出ている。
処理水の放出停止を求めて水産物の全面的な輸入停止という強硬策をとったことは、特定の政策目的や要求を実現するための一方的な経済的措置、すなわち経済的威圧(economic coercion)の行使と位置づけられる。経済的威圧の行使は国際法上許されるのか。そして日本はこれにどう対処すればよいのか。
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経済的威圧の行使は中国に限ったことではない(表参照)。古くは1973年10月に中東産油国が第4次中東戦争に際し、親イスラエル国への反発から石油輸出国機構(OPEC)を通じて石油価格を一方的に引き上げた。77年にアパルトヘイト政策を強めた南アフリカに対し、国連安全保障理事会決議に基づき実施された経済制裁(武器輸出禁止)も経済的威圧といえる。
最近ではウクライナに侵攻したロシアに対し欧米諸国や日本などが実行した経済制裁も、ロシアのウクライナ侵攻をやめさせるという目的達成のための経済的威圧の行使だ。ただし、これらの事例はいずれも各国が集団で実施したものだ。
これに対し、中国は最近たびたび単独で経済的威圧を行使している。民主活動家、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞に反発してのノルウェー産サーモンの輸入停止、尖閣諸島の帰属を巡り対立した日本に対するレアアース(希土類)の輸出停止、新型コロナウイルス感染症の原因調査を巡り対立したオーストラリア産の石炭・ワインなどの輸入規制など、枚挙にいとまがない。
経済的威圧に対する国際法上の評価は威圧の政策目的や態様により異なる。南アに対する経済制裁は、国連安保理がアパルトヘイトを国際法違反と認定し、これに対する制裁として実施されており、国際法と整合的だ。国際法違反の侵略を行ったロシアに対する経済制裁も同様に国際法と整合的だ。一方、中国が単独で行う経済的威圧の行使は、中国が反発する相手国の政策や措置への対抗措置として実施されており、国際法と整合的とはいえない。
経済的威圧の行使として実施される措置に注目すると、レアアースの輸出停止や今回の日本産水産物の輸入停止など、輸出入を規制・制限する措置がとられており、世界貿易機関(WTO)協定および中国が加入する自由貿易協定(FTA)上の合法性が問題となる。
中国は、日本産水産物の輸入停止を放射性物質トリチウムで汚染された水産物から国民の生命・健康を守る措置と説明している。ここで念頭に置かれているのは、人・動植物の生命または健康を守る「衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS協定)」だ。
WTOのSPS協定は食品安全を理由とする輸入制限について、(1)科学的根拠・科学的証拠に基づくこと(2)政府間組織のコーデックス委員会などが定める国際的基準に適合するか、少なくともこれに基づくこと(3)輸入国があえて国際基準よりも厳格な措置をとる場合は、これを危険性評価に基づいて実施すること――を要求している。
処理水中のトリチウム許容量に関する国際的基準としては、世界保健機関(WHO)の飲料水水質ガイドラインが1リットル当たり1万ベクレルとしている。福島第1原発処理水のトリチウム含有量を検査した国際原子力機関(IAEA)は、処理水は放出前に上記基準の約7分の1の同1500ベクレル未満にまで希釈されると認定した。従って今回の中国の措置は、(3)の国際基準よりも厳格な措置に該当する。
この場合、中国はこれを危険性評価に基づき実施すること、当該措置が科学的根拠・科学的証拠に基づくことを示さねばならない。しかし中国はこれまでのところ、措置がこれらの要件を満たすことを説明していない。従って中国の措置はSPS協定に違反する。
また中国は、トリチウムの年間排出量が福島第1原発処理水の最大6.5倍に及ぶ自国の原発の処理水を規制していない。日本に対し国内の原発よりも厳格な規制を要求しており、内国民待遇原則にも違反する。
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日本産の水産物輸入を全面停止した中国の措置はWTOのSPS協定に違反している。日本政府は撤回を求めてWTOの紛争解決手続きに申し立てるべきだ。
WTOの紛争解決手続きは、米国が上級委員会委員の任命・再任をボイコットした結果、二審に当たる上級委員会が2019年12月以来活動できなくなっている。そのため一審の紛争処理小委員会(パネル)段階で敗訴した紛争当事国は、上訴することで案件を棚上げにできる(空上訴)。ただし欧州連合(EU)など一部のWTO加盟国が上級委員会に代わる多国間暫定上訴仲裁アレンジメント(MPIA)を設立し、中国も日本も加わっている。日本が本件で中国をWTO提訴しパネル段階で勝訴した場合、中国の空上訴で案件が棚上げになる恐れはない。
日本は、福島第1原発事故を理由に日本産水産物の輸入を停止した韓国をWTO紛争解決手続きに提訴したが、19年に上級委員会が日本の主張を認めたパネル報告を覆した。これがトラウマとなり、政府は本件のWTO提訴をためらっているようだ。しかし本件と韓国の事案では当事国の主張やSPS協定の適用条文が異なるので、本件の敗訴を予測するのは早計だ。
ただしWTOに提訴した場合、最終的に決着するまでには数年を要する。日本政府はWTO提訴と並行して、中国に水産物輸入停止措置の撤回を粘り強く求めるべきだ。少なくとも2つのルートを検討すべきだ。
第1にWTOのSPS委員会に「特定の貿易上の懸念事項(STC)」として申し立て、審議を求めるルートだ。同委員会には多数の輸入制限措置がSTCとして申し立てられている。委員会では第三国も交えて当該措置の妥当性が検討され、輸入国が輸入制限措置を撤回した事例も多い。
第2に中国も当事国である東アジアの地域的な包括的経済連携(RCEP)の活用だ。SPS措置の危険性評価についてRCEPは輸入国に対し、輸出国の要請があった場合、危険性の分析の進捗状況を報告することを義務付けている。政府はRCEPに基づきまず中国に本件措置の前提となる危険性評価の実施を要請し、続いてその進捗状況の報告を求め、措置の撤回に向けた外交的圧力をかけることを検討してはどうか。
国際基準よりも厳格な安全基準をクリアしている処理水放出に対し、日本産水産物の輸入を全面的に停止した中国の措置は、WTO協定に違反する違法で不当な経済的威圧だ。日本政府はその撤回を求めて、WTO提訴およびそれと並行してよりソフトなルートを通じて圧力をかけていくべきだ。違法・不当な経済的威圧には毅然とした対応で臨むのが最善手である。
2023年9月14日 日本経済新聞「経済教室」に掲載